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Project Eden

1.愛の復活する時代

聖母マリア
わたくしが今日参りましたのは、ふたつ意味がございます。
ひとつはアモール様よりいただきました愛の教え、そして、墨子様が説かれました人生における愛の生き方、愛ある生き方ということをこの間、ご教授いただきました。

それを、またこの地上的において、どのように愛というものを生きていかれるかということを、わたしくしなりの気持ちでお伝えしようということと、あともうひとつは、わたくしに神より与えられし聖母マリアとしての使命としての、今日的な天変地異を含めた上での、この地上の今ある姿ということを、それをお知らせするために今日は参りました。

まず、第一の愛の教えの部分について、わたくしなどよりも、アモール様、インマヌエル、イエス・キリストと呼ばれておられる方、ナザレのイエスと呼ばれている方ですね、そして、前回の墨子様、この方がた、そして、わたくしを含めまして、愛の霊団と呼ばれているグループにおります。

わたくしも常にイエス様と、そして、ミカエル大天使ならびに、キリスト教でいう天使と呼ばれている者たち、そしてわたくし、そしてシスターたち、元シスターをやっておられたような方がたを、やはりホワイト霊団の中におきます愛の霊団と呼ばれているグループの中において、奉仕活動をしている毎日なのです。

そこの中で、前回お話にありましたように、愛というものについて一言申し上げるのならば、墨子様が愛は分かち合いであるということをおっしゃられていたように思うのです。

愛というのは、悲しみも、苦しみも、喜びもすべてを、他者の痛みも喜びも我が痛み、喜びとして分かち合い、そして、わずかな人生の中でも自分のできることをひとつでも探して、けっして無関心になることなく、できることを探すということ。

そのことを示されるために、マザー・テレサが出て来られたのだということ。
そして、それが神のお心の中で今、再び愛というものが、宗教宗派というものを越えて復活する時代がやってきたということ。
そのことをわたくしはあなた方に伝えたいのです。

愛というと、今までは自分たちの宗教とか、色に染まったところで、犠牲的なものだけを愛と呼んでいたかもしれません。
でも、これからの時代において、キリスト教がとか、仏教がとか、そのユダヤ教がとかイスラム教がという枠を超えて、すべてを統合していく時代の中で神の愛というものを体現していく。

その上で、あなた方が、今おかれている立場をいかにしたら生かして、具体的に、より具体的に、あなたの人生の中で、いったい何か他者への慰めとなり、喜びとなり、生きる活力となることを、具体的に何をなせますかという、そのような問いかけを神から受けている。
それがあなた方の人生であるということに、気づいていただきたいのです。

わたくしたちは皆、地上に生まれたとき、愛がなんであるかということを学ぶために、そのために生まれてくるのです。
愛を理念だけではなくて、愛あふれる行いとして、人生の中でどのように生き切ることができるか。

他者の痛みというものを我が痛みとして、その他者の痛みを少しでも自らの言動で軽くし、その人の幸せに何かひとつでも貢献できる道を探すことができたであろうかと、そのように問いかけながら日々を生きる。
それを愛ある人生であると、わたくしは思うのです。

この地上に、地球中に満ち満ちているのは、愛なき姿ではなく、ただただ無関心な、自分自身にのみかまけた、自己中心的な思いの連鎖の中で、愛というものが本来的になんであるかということを、人びとは真に学び得ないで人生を終えていくのです。

第1章2 聖母マリア:天変地異の差し迫った中での地上の者たちへ

1.愛の復活する時代

2.愛を学ぶ課題

3.愛という精神のもとに統合される時代

4.あなた方の社会はひじょうに病んでいる

5.自らの宗教の衣を取ること

6.その時期がもう迫ってきている

7.今この大事なときに肉の身を持っておられるあなた方

8.愛あふれる素朴な信仰心

9.愛のキャンドルサービスをこの地球上に広げてほしい

10.地上の方がたへのメッセージ

聖母マリア

イエス・キリストの母。救世主の母であることから聖母と呼ばれている。聖書の中では夫ヨセフと結ばれる前に、処女でありながら聖霊によってイエスを身ごもり、ベツレヘムという町の馬小屋で出産したとされる。
彼女は信仰深く、常に神に対して従順な女性として聖書に描かれており、キリスト教においては、現代に至るまで女性たちの手本として尊敬されている。
霊言の中では、聖母マリア自ら処女受胎を否定しているが、謙虚で愛に満ち、神の意思をやさしい言葉で地上に伝えようとするその姿勢は、聖書の記述の通りである。
20世紀末の天変地異や不安定な世界情勢を回避するため、聖母マリアはファティマやルルド、秋田など世界各地に現れ、終末の訪れと悔い改めを説いた。
冷戦が終結し、天変地異も起こらなかったことから、聖母マリアの出現は過去のこととされがちだが、むしろ彼女の警告は現在の人びとに向けられていることが明かされている。

3.愛という精神のもとに統合される時代

愛の奉仕活動、愛というもの、信仰というものは、自らの人生を投げうってでも、ほかの人びとの幸せのために生き抜くことだということを、イエス・キリストは教えてくださいました。

その教えの中で、我々キリスト教関係の者たちは自らの人生を投げうち、光の柱として、愛の光として、この地上を照らすために献身的なまでにこの地上の愛の教えの中に道をひらくために、人びとはキリスト教霊団として努力してきた、今までの道筋があるのです。

これからは、キリスト者としてとか、仏教者としてとか、イスラム教徒としてとか、ユダヤ教徒としてという、その硬い殻を破らねばなりません。

愛という名のもとに、神の、宇宙の根本摂理が愛のエネルギーであり、神のその愛により生かしていただくわたくしたちが、愛あふれる光の神の子であるということを思うのなら、今一度、神の愛の奔流に統合されるために、人びとは心の垣根を取り払い、大いなる父なる御胸の愛の中に、みんなで飛び込んでいかなくてはなりません。

どの宗派が、どの民族があろうと、人びとは皆、神の子兄弟なのであるということ。
そこをつなぐ唯一のアイデンティティーが「愛」というキーワードにあるのです。

それは、いかなる心の障壁を、壁を、すべてを乗り越え、宗教、民族、文化、そういうものすべてを乗り越え、垣根を取り払い、愛というものの中で、人びとが統合されていく時代。

それを最終ユートピア建設の時代といい、そして、大救世運動最後の、大救世運動と呼ばれている、今の時代の象徴として呼ばれる言葉なのです。

愛の中に、愛という言葉の中に、人びとがすべて統合され、まとめられていく。
今まで学んできた知識、知恵というものが一度地球というるつぼの中に投げ込まれ、人びとはそれが過渡期的なものであったのだと、最終的に到達するべき愛の神理はここにあったのだと、そのような高い境地から人びとを指導していた霊天上界があったのだということ。

我々が一人ひとり別々の宗教でメシアと信じていた方がたが、実は天上界ひとつの中におかれる指導霊、大指導霊であったという事実に、人びとがほんとうの意味で認識し学んだときに、この地球規模での統一というものが行われるのです。

それには今までとは違う、次元の違う、愛による精神的なルネッサンス、大ルネッサンス運動という精神改革、革命的な、そのような価値観への離脱というものが行われなくては、人びとが、このように愛という精神のもとに統合される時代というのは来ないのです。

愛というものがーー、イエス・キリストが二千年前に説かれた愛というものの本質を語られておられました。
それを学びながら、それでいながら、いまだかつて、人びとは愛の本質というものを生きることができないがゆえに、このように地上で醜く争っているのです。

人びとは今一度、この愛というものをほんとうの意味で、聖書や経典の中の言葉として学ぶだけのものではなくて、自らの人生を燃焼させ、燃え上がることにより、愛というものがどういうものであるかということを、全身全言をもって、生きざまをもって表現していくという、そして、それを通して自らも魂に刻みながら、最終的な愛というものがどういう段階であるかということを真に学ぶ。

その方がたにとって、今回はひとつの集大成であるということ。
そのことを、もっとご自分たちの魂に、肝に銘じて生きていかれることを、そのことをわたくしは望んでいるのです。

このように魂が大飛躍できるような、このような歴史的な瞬間というものは、人類の歴史の中でもそうたびたびあるものではないということなのです。
このように魂が成長できる、このように素晴らしい飛躍の時が、この歴史的な瞬間の中に肉体を持ち、ましてや、このような霊言を次々と聴きながら、生きながらにしてこのような天上界の神の叡智というものを学ぶことができる、この人生というものを神に感謝していただきたいのです。

わたくしたち、天上界の高級指導霊のことを言っているのではありません。
宇宙を統べる根源としての愛の化身、宇宙の奔流である愛の神に心から感謝していただきたいのです。

そして、感謝するのであるのならば、神がわたくしたち一人ひとりに期待された愛あふれる人生を通して、その感謝行というものを返して参りましょう。

あなた方が、今たいへんな時代を生きようとなさっているのはわかっているのです。
でもそれは、地球の方がたが地球人として、今までの古い殻を破り、新しい殻へと、新しい形へと脱皮し成長するために、蝉が硬い殻を抜け出すように、蝶が毛虫の殻を、さなぎの殻を破っていって、美しい蝶々として生まれ変わるように、今そのようにさなぎから、硬い、硬いさなぎの殻を破らねば、蝶として出発もできないし、蝶としての可能性がありながら、そのさなぎの中で息絶えてしまうという、そのような現実になってしまうということなのです。

ですから、今世の大事な人生、今を生きるという意味においては、今世は一度きりの人生であるということ。
その一度きりの、今という現実のご自分たち、一人ひとりの環境、お一人おひとりの状況を通して、あなた方は何がおできになりますか?

愛あふれる奉仕というのは、キリスト教のブラザーやシスターたちに任せておけばいいのではなくて、信仰心における愛というのは、すべての人びとの人生の中できらめくべき問題であるということ。
そのことをあなた方は肝に銘じなくてはなりません。

けっして一部の宗教者たちだけが愛あふれる奉仕の人生ではなく、あなた方が、お一人おひとりが、自分の中においてできることを探していただきたいのです。

2.愛を学ぶ課題

アモール様より、愛の循環の中に我が身を置きなさいということを、あなた方は学ばれたはずなのです。
愛の循環の中に身を置くとはどういうことか。
それは愛の思いだけではなく、人生の中においていったい何があなた方一人ひとりの中でなせるかということを、それを考える力を持ちなさい。
そして、具体的に行動できることを探しなさいというのが、どの人にも与えられた人生の課題であり、宿題であるということなのです。

愛にはさまざまな側面があります。
親子の愛があり、男女の愛があり、隣人への愛があり、国への愛があり、そして、地球への愛があります。

自然界への愛。
天上の大宇宙の愛。
愛ある、愛の神に対する信仰心による愛というものもあるのです。

どの愛を選び取るかは、お一人おひとりの人生の中で、ご本人たちが決めてこられることなのです。
わたくしたちが決めることではないのです。

でも、どんな人生の中においても、愛を学ぶ課題というのはちりばめられているのです。
その中で、確かにあなた方は、命は永遠であるということを学ばれました。
転生輪廻ということを学ばれました。
生き通しの命であるということを学ばれました。

でも、魂が永遠であるということは、今の一瞬をおろそかにして生きていいという言い訳にはならないのです。
ある意味においては、今の人生は、今という時はもう二度とは帰ってこない。
だからこそ、ある意味で今の人生は一度きりの大切な人生なのです。

その人生の中において、自分が愛をどういうふうに学び、どのように愛をほかの人びとに対して与え、自らも学び生きることができるか。
その課題から逃げてはならないということなのです。

それが人びとの中でほんとうの意味でわかっていないから、今の自分と向き合って、深く深く自分の人生を通して、具体的に何をもって自分の人生を愛で光り輝かすかという、愛の循環の中で自分らしい個性を通して、愛を奔流のように放出しながら生きるということを人びとは学び得ず、愛というものはどこかロマンティックで、どこか宗教とかそのようなものの中だけで存在しているかのように誤解をしているのです。

あなた方も、数々の霊言をもう世に問うてこられています。
以前のほうが、霊言というものは降ろされているのです。
でも、いっこうに世の中がよくならないのはどういうことかと申しますと、知的な好奇心だけでいくら信仰心というものを、愛というものを学んだとしても、少しもそれは世の中が良くはならないということなのです。

愛というものは、神よりの知恵というものは、一度学んだものを我が人生の中に引き寄せてみて、そして、それをそれぞれの人生の思いの中で、自分のできる、いや、自分でしかできないこと、自分がどのようにしたら自分だけではなく、ほかの方がたの慰めの愛の光となって生きられるかということを真剣に問い、真剣に生きよう、真剣に語り、真剣に行動として、人生の中で映そうと思う方がたがあまりに少ないから、このような現状が起きているのだと思うのです。

マザー・テレサという方はあまり難しいことをおっしゃいませんでした。
でも、彼女は自らの信仰心の中で、キリストより学ばれた愛が何であるかということを、ただただ神の愛というものを生き切った方なのです。
難しい理屈ではなく、愛というものを生きるというその姿の中に、彼女は信仰心の、神の子としての光の柱としてのご自分の人生を輝かされたのです。

あなた方は、ほんとうの意味で、愛というものを自分の神の子の本体として、人生を愛に輝かせ、愛の通路として、愛の奔流として生きておられるかということを、わたくしは地上の皆さま方にうかがいたいのです。

愛というものは、語るだけでは愛にはならないのです。
言動をもって、一途にひたむきに、自分以外の方がたに、工夫をし、知恵を出して、どのようにしたら自分か他者への奉仕の姿を、愛の奉仕の中で生きることができるかと、真剣に行動に移すために、自分の人生のありとあらゆるエネルギーの中で工夫して生きようとした瞬間から、その方の中を、その方の個性を通して、愛というものが噴き上がってくるものなのです。
あなた方はもう少しそのことを学ばねばなりません。

そうでなければ、いくらでも天上界に次から次へと、「霊言を、霊言を」と言って学んでも、いつまでたってもそれがまるで恋愛小説の続編を次から次へと読むように、ただそれに酔い、そして好奇心だけで次から次へと読む。

その姿に、地上をこの救済運動の中で、愛というものをこの地上に体現し、地上ユートピアを実現するための、その一筋のよすがとして、一筋の光としてこの地上を変えていくという、その光の天使としての役割を果たせないのだということ。
そのことを、お一人おひとりがもう少し肝に銘じて、わたしくしたちの言葉を聴いていただきたいと思うのです。

霊言を聴くことも、そして、聴いたあとも、この者がすべて逐一指導しなくては、自分の人生を通して愛をどのように光らせていくかということを、そのようなことすら考えようとする力も持たない。
そのような者たちではいけないということです。

あなた方の中で、大切なのは自分自身の力で生きていくことであると。
自分自身の個性で、今世という一度きりのかけがえのないときの中で、どのように人生のさりげない日常の中で愛というものをあふれさせて、愛あふれる神の子としての人生を生きていくことができるか。
輝かせていくことができるか。

自らの愛を示すことによって、ほかの方がたの、神の子としての愛の光を啓発し、ろうそくの光が次から次へと灯っていくような、そう、キリスト教でいうキャンドルサービスのような、愛の光の点火が次々と起こっていく。

そのような奇蹟というものを、そのような愛の循環というものは、もし、一人ひとりが真剣に生きようとするのでなければ、起き得ないのであるということなのです。
あなた方がやろうとしていることは、それは愛のキャンドルサービスなんだと思っていただきたいのです。

あなた方が神の子であり、愛の奔流の一筋の光であるのならば、あなた方が自分自身の光だけに気を取られているうちは、けっして愛のキャンドルサービス、愛の循環というものは、愛の光の循環というものは行われないのです。

あなた方の人生の中で、自分自らを高めると同時に、自分が与えられたことの中で、ささやかなことでもいいから、より恵まれない方がた、そして、迷っておられる方の何か一筋の力になりたい、他者を一人でも幸せにしていきたいのだというその思いの中で、ひとつでもあなた方が行動を起こしたときに、愛のキャンドルサービスは始まるのです。

あなた方を見ていると、まだまだご自分の固い殻の中にこもり、愛というものを、他者に対する展開をしていきたいという積極的な意志が見られないということなのです。

4.あなた方の社会はひじょうに病んでいる

社会を見たのならば、ひじょうに孤独な老人の方がた、そして、手を貸してほしいと思っておられる身障者の方がた、そのような者たちだけではなくて、今は心の病を抱えた、育児に自信をなくしてしまった人びと、社会復帰ができなくて苦しんでおられるニートと呼ばれている男性たち、女性たち、若者たちが、退廃的な文化の中で、自分自身の可能性を見つけることができず、むやみに自殺をしていってしまう若者たちに対して、あなた方の身のまわりに苦しみで、苦しくて、助けの、援助の手を差し伸べてほしいと思っておられる方がたは、いくらでもおられるのではないでしょうか。

その方がたの痛みというもの、苦しみというものを、自らの人生を、自分の本能と欲にまかせて生きることだけに追われて、他者の痛みというものから鈍感になり、いえ、逃避しているのが現状ではないのでしょうか?

そういう方がたを救うのは、ひとつの社会奉仕者とか、行政機関であるとか、そして、一部のクリスチャンのブラザーとか、シスターの方たち、あとは仏教関係の奉仕者の方たちとか、特別の人たちだけがやるものであると思うならば、地球は少しも救われないし、地球を愛ある星にすることなどはできないのです。

あなた方、お一人おひとりができることを探してください。
そしてほかの国を見ても、まだまだ飢えて貧しい方がた、食べるものがない方がた、井戸もない方がた、そういう方たちに、何かひとつでもできることを探そうと思えば、いくらでも自分の創意工夫と、少しばかり余ったお金をまわしてあげるだけでも、やれることはいくらでも無限大に出てくるということなのです。

お金を払えないのならば、優しい言葉で、励ましの手紙で多くの方がたを勇気づけることができるはずなのです。
そのようなあなたの一言で、ひょっとしたら、ほかの方が自殺をするのを思いとどまられるかもしれない。

あなた方の持っている時間と、能力と、エネルギーで、他者に対して無関心になるのではなくて、具体的に身近にいる方がた、そして、あなた方のできる手を今でも待っておられる方がたに、その手を差し伸べ、握り返してあげていただきたいのです。

そうでなければ、どれだけ愛を学んでおられたとしても、あなた方がどれだけ霊言を聴いて賢くなられようとも、社会はそんなものでは少しもよくはならないのです。

愛の循環の中に身を置くとは、自分自体が学んで愛というものを頭に詰め込むことだけをもって、愛の循環の中にいることにはならないのです。
そのようなものは、結果的に自己保存の思いでしかないということなのです。

あなた方の中にある、愛あふれる手を具体的に差し伸べ、社会に一歩でも踏み出て行ったときに、あなた方の愛というものは他者を生かし、他者を救い、他者を本来の神の子の姿に清め、あなたの心から、その方の神の子としての愛の炎を点火する、キャンドルの火がひとつ点いていくことをもって、愛のたいまつというものは輝かされ、たいまつというものが掲げられた意味を持つのです。

行動なくして、具体的な人生の中における創意工夫、他者への愛あふれる関心をもってしか、あなた方は愛というたいまつに火を灯していくことはできないということ。
具体的な言動こそが必要であるということ。

今あなた方の社会の中では、引きこもりとか、オタクと呼ばれている方がたがおられるのは知っているのです。
ひじょうに病的な状態です。

今までは、ちょっと内気であるとかいうことはありましても、社会の中で普通に健全に、たとえ科学技術が劣っていようと、そして、物質的に恵まれていなかろうと、精神的な意味においては、人びとは額に汗をして働き、農作業などを通して、精神的には健全に生きていったのです。

でも、今あなた方の社会はひじょうに病んでいるのです。
それはなぜか?

他者に対する愛の分かち合いというものを忘れていったときに、自己保存というもの、人生の究極的な目的というものが、自らの中だけに帰結するものであると思い込んでいったがゆえに、自らの小さな、小さな硬い殻のような世界の中から出ることができなくなってしまった。

逆に言うと、健全に、普通に架けられるべき社会との橋を、自ら橋げたを落としてしまったということ。
橋を架ける、架け方すら忘れていってしまったということ。

そして心の中に、深く病気のように自らの世界だけでしか物事が考えられず、他者とのふれあいというものをひじょうに怖がるような、拒否するような、そのような病んだ人格というものが大量に社会に出てきてしまった。
それは物質主義とか、自己保存というものが究極的に進んでいったときに、そのような精神の病的な現象が起きているのです。

男性たちが戦うことを、自分のその身を投げうって、人生を通して戦い、社会を少しでも良くし進歩させていくのだという、そのような責任感あふれる闘志というものを、そのようなものを忘れていったときに、今の若者たちを代表するように、「引きこもり」という現象が起きていったのです。

5.自らの宗教の衣を取ること

そこは彼らが教育を受ける段階で、自らの人生というのは他者に奉仕してこそ本来価値ある人生であると。
我が喜びというものは、自分だけがよければいいのではなくて、他者の喜びも分かち合うことによって、自らの人生の喜びもますます輝くものであるということ。

愛というものは分かち合い、苦しみも二人、三人とみんなで分かち合うのならば、その人の苦しみも癒され、軽くなるのであるという、いたわりの優しい気持ちというもの。
それをどの宗教も普遍的に唱えているはずなのです。
それはキリスト教だけにあったのではないのです。

そして、キリスト教の中だけで言われてきた愛というものが、これからは日常を通して、宗教という名前だけではなくて、宗教という、教会とか教会活動という特殊な部分の中だけで愛というものが語られ、神というものが語られるのではなくて、そのような心の鎧というものを捨て、それぞれの者たちが自らの宗教の衣を取りましょう。

わたくしも十字架というものを、このようなローブというものを着て、今まで自分自らの役割というものを果たしてきたのです。
でもこれからは、キリスト者という言葉よりも、神の子という言葉の中で、愛のもとに統合されていく時代がくるのです。

わたくしも聖母マリアとして、キリスト教における母としての役割というものを、そのものも終わりを告げ、ただただ、あなた方を愛していく母性としての光として、あなた方の前に姿を見せる時がきたのだと思います。

ローマ法王庁という、ローマカトリックというものが、今までその使命と役割というものを果たしてきてくれました。
イエス・キリストや、わたくしたちの思いを、キリスト教という枠の中において人類を指導し、神の愛というものを、インマヌエル、イエス・キリストと呼ばれている方の、愛という、普遍的な愛というものをどのように伝えるかという、そのような宗教的な枠の中で、わたくしたちはその使命を果たし、人類を指導して参ったのでございます。

でも、もうわたくしたちは、そのような衣を脱がなくてはいけないと思うのです。
そのような役割を超えて、わたくしは天上界において、ただただ、人びとを慈しみ、多くの方たちをその胸の中で、母なる思いで人類すべて、神の子たちの幸せを願う、そのような一女性霊であるということ。

そのことをあなた方の前にさらすことをもって、ほかの宗教における指導霊と呼ばれている方がた、その方がたも、仏教であるならば仏教の方がたも、その墨衣をお脱ぎになり、数珠を取られ、ご自分自身の本体エネルギーとして、人びとの前に立つべき時が今きているのだと思うのです。

イスラム教においても同じだと思うのです。
すべての者たちが、本来が、まあ、今あなた方で言うと、「レムリア劇場」という言葉で、それぞれの配役というものを皆さん演じておられるという、そのようなおもしろい表現がありましたけれども、まさにその通りだったのです。

今まで地域の中において、わたしたちが役割を果たし、人類を指導する役目の中でそれぞれの役割というものがございました。
日本神道の方がたにおかれましても、天之御中主様、そして、天照大神様、日向様と呼ばれているような方がた、それぞれのお役目の中で、精一杯、ご自分の役割を果たして生きて、役割を果たしてこられたのでございます。

でも、もうその役割は終わり、わたくしたちはそのような宗教としての衣を脱ぎ、本来の天上界が皆着ている、その真っ白な、どの者たちも皆同じローブと呼ばれている、光の天使として皆同じ真っ白なローブがあります。

そのローブをみんなが着て、わたくしたちは本来、同じ仲間として、ひとつの仲間として最初からいた友達であり、そのような神の子たちであったということを地上の方がたの前にも示すことにより、そのようなカテゴリーを、枠を超えなくてはいけません。
あなた方がそのような認識を持てるか、持てぬか。
それがこれからの地球の命運を賭けているということなのです。

6.その時期がもう迫ってきている

次に、この地上の、地球の状態について、お話させていただきたいと思います。

わたくしは、ファティマとかルルドとかで申し上げておりますように、この地上における、最後の終末の世と呼ばれていた時代のときを告げるという、そのような役割を神よりおおせつかっているのです。
そのようなことを再三の出現によりながら、人びとに伝えてきたはずなのです。

それが、胸がつぶれるようなわたくしの思いが、血の涙を流すようなわたくしのこの思いが人びとに通じたかというと、残念ながらほとんど通じなかったのではないかと思うのです。
この地上がどのような終わり方をするのか。
それはまだ、天上界の神々におかれましてもわからないと思うのです。

本来であるのならば、そのような終末観というものがもっと早くきていたのかもしれません。
でも、天上界の神々は、あくまでも最後まで諦めず、最後の最後のチャンスまでも生かし、この地球を救い、愛のもとに統合する最後のチャンスとして、慈悲として、大いなる更に高位霊界の方により光をいただくことにより、この天変地異を抑えられて、この第三の計画のチャンスを持たれたのです。
あなた方の中で、どのようなことが、どのように認識を変えていくことができ、そして、認識を変えただけではダメなのです。

精神革命というものが、大ルネッサンスとともに行われ、その上で、具体的にあなた方の人生の全身全霊をもって、この地上をどのようにしたら幸せにしていく、愛の星に具体的にできるかという言動をもって、この地上を変えていくことができるか。
思いを変えていくことができるか。
それによりこの地球の未来というものが変わってくるということ。
そこにおいては根本的には変わっていないということなのです。

あなた方の中で、この地上に今、生きていられるということ。
魂が学ぶチャンスを今一度、与えられたということを、これがどういう現実であるかということを、ほんとうの意味でわかっておられる方が、ほんとうに数が少ないのです。

天上界の高位霊界の方がたがどんな思いで、今この時をつくられておられるのかと。
どのような真剣な思いでこの地球をユートピアにしていく、愛の星にしていくためにできる限りの、あらん限りの努力を、あきらめずにされておられるかということを、その思いの真剣さというもの、熱意というものを、地上のあなた方はもっと知らねばなりません。

その認識がなく、十年前、ニ十年前と同じように、昨日も、今日も、明日もただただ、時は当たり前のように平凡に流れていくのだと思うから、今の状態が少しも感謝できず、ただ流れゆくままに、時の流れの中で無意味に時を重ねている方がたが多いのです。

でも、今という瞬間はどれだけありがたいか。
そして、地球規模的に言うと、どれだけマイナスのエネルギーというものがたまっていて、たいへんな状況にあるかということ。

そのことが、もうすでに支えられていた時というものが支えきれなくなり、その指の間からこぼれ落ちてくるエネルギーにより、地球が身震いを時々し、数々の天変地異が最近、起きているのではないでしょうか。
その時期がもう迫ってきているということを、わたくしは再度あなた方にお伝えしたいのです。

わたくしが以前ファティマで申し上げたこと。
それは間違いなく起きるのです。
そのような戦争も起きますし、天変地異も起きてくるのです。

これはわたくしが、愛する子どもたちであるあなた方を、脅したいがゆえに言っているのではないのです。
この母の思いをわかっていただきたいのです。

あなた方の心が変わり、あなた方の生きざまが変わらない限り、この状態を、この局面を乗り越えて、次の愛のユートピアヘと、愛ある地球の次の転換、宇宙時代と呼ばれている愛の星へ移すことは不可能であるということ。

そのために今、霊天上界をはじめ、ありとあらゆる救世の大計画が行われているということ。
そのことをあなた方はもっとわからなくてはいけません。

わたくしはどれだけあなた方に語ればよいのでしょう?
どれだけ涙を流してあなた方に訴えればよいのでしょうか?
あなた方はこのように数々の天変地異が起き始めて、初めて怠惰な眠りをむさぼっていた中から目が覚めるのでしょうか?

犠牲者が出てからでなくては、やはりそうであったと納得できないのでしょうか?
この地球の現状を見ていて、これが当たり前だと思うのでしょうか?

あなた方は神の子であるということ。
愛の化身であるということを刻まれ、この地上に生まれてきたのに、少しも自らの人生の中で愛と向き合い、愛を輝かせ、愛あふれる人生を歩もうとする思いがほとんどの方がたの中にないから、この地上はますます殺伐とし、自己保存と物質的なものの中で、他者を破壊しても、他者を攻撃してでも、自分さえ満たされればよいという自己保存の悪想念が満ち満ちてこの地球を覆いつくし、そのようなマイナスのどす黒いエネルギーがこの地球意識を苦しめ、その自らまいた種の刈り取りによる反作用により、このような天変地異が、数々の忌まわしい事件が起きているのだということ。

そのぐらいのことがなぜわからないのでしょうか?
あなた方はそんなことも気づけない神の子たちであったのでしょうか?

わたくしは、多くのわたくしの子どもたちが無残な死に方をしながら帰ってくる前に、あなた方に生き方を変え、あなた方の人生を少しでも光り輝かすことにより、悪の連鎖を止めるために、マイナスの連鎖を止めて、光の国へ神の国へと導きたいがために、世界中のありとあらゆるところに出現しながらあなた方に訴えてきた活動をしてきたのです。
でも、わたくしの気持ちは、あなた方になかなか伝わらなかった。

7.今この大事なときに肉の身を持っておられるあなた方

今回の救世運動の失敗を、前回見ていて、もうわたくしがやれることはないのかと思っていたときに、この最後の、第三の救世運動の計画が続行されるということを伺い、わたくしはあふれんばかりの涙を、ただただ感謝として、神に感謝をして泣きました。

そこまでも神は、わたくしの子どもたちを、人類を愛され、最後まで見捨てたまわなかったということを。
そのチャンスを与えてくださったのだということを。

でも、わたくしは思いました。
わたくしの役割の中で、近年できる限りのことを、わたくしなりに出現しながらあなた方に問いかけてきたつもりだったのです。
でも、人びとの心をなかなか変えることができなかった。

今回、せっかく第三の計画を立ち上げていただいたけれども、わたくしはいったい何がほんとうにできるものかと、何か今度こそは違うことをして我が子どもたちに気づいてもらえることができるのかと、わたくしも反省と苦しみをもって必死に考えていたのです。

わたくしたちをもって必死に悩みながら、少しでも愛を行うそのために、皆努力をし、切磋琢磨しながら、意見を交換しながら、具体的に自分ができることを探す。
それがわたしくしたちの世界においても同じだということなのです。

であるのならば、今この大事なかけがえのないときに、この地上に肉の身を持っておられるあなた方が、そして、わたくしたちの言葉を聴けるあなた方が何をなされますか? 何ができますか?
それをわたくしはあなた方に問いかけたくて、今日来ているのです。

もう地球規模の天災が起きることは、この核戦争のようなことが起きることは、もう現実として、もうすぐ後ろに迫ってきているのです。
今回の台風を見てもわかるでしょう。
数々の地震があちこちで起きているのがわかるでしょう。

今起きているものが、もっと巨大な大地震として、もっと大きな、地球規模の天災としてあなた方に襲いかかってくる時がくるということなのです。

それは恐怖心、脅しではなくて、その状態を変えていくことがあなた方の心の思いを変えていく。
そう、あなた方の人生の具体的な一コマ、一コマを変えていくこと以外に道はないのだということを、わたくしはずっとずっと、あなた方に告げ知らせているではありませんか。
それを両方の面をお伝えすることによって、地上のあなた方に気づいてほしい。
わかってほしい。

その中で、あなた方がこの地上を最終ユートピアとしていく、エデンの園にしていく、神の国へ戻していくために、わたくしたちはどれだけでも、わたくしたちができることなら、いくらでもさせていただきましょう。

でも、まずそれをするには、地上におられるあなた方が、ほんとうの意味で、愛というものを、愛ある姿というものを、ご自分自身の神の子としての神性に光を灯し、その光のキャンドルサービスをもって、地球を一巡し、地球の人びとみんなが手と手を取り合い、握り合うことにより、たいまつのキャンドルサービスをしていくこと以外にこの地球を救う道はないのです。

時が与えられました。
でもその時はけっして永遠ではないのです。
けっしてそれほど長いものではないのです。
わたくしたちのこの天上界の言葉を聴けるのも、そんなに長いことではないということなのです。

この者の命尽きるときまで、神はその猶予を与えられました。
わたしたちの言葉を、また地上にメッセージする機会をくださるために、この者は使命を受け、そして、この第三の計画が発動されたのです。

この時のあるうちに、この日本にいる、この光のお膝元にいるあなた方は、まず最初のたいまつをどのように照らされますか?
どのように光らせますか?

あなた方の個性を通して、人生を通して、あなた方は最初の光の、たいまつの光の点灯をしなくてはいけません。
ほんとうの意味で光が灯っていけば、それは次から次へと広がっていく。
でも、あなた方が光り輝く姿、愛の化身として輝く姿が本物でなければ、本物でなければ、ほかの方がたはすぐそれを見破って、ご自分の心に光を灯す、その勇気を失ってしまうのです。

愛というのは魂で感じ、魂の純粋さをもって無心に輝くこと、光ることをいうのです。

8.愛あふれる素朴な信仰心

わたくしが出現したとき、大人の方がたの前でも、数千人の方がたの前に出たときに、なぜ大人の人たちはわたくしの声が聴けず、わたくしの姿が見えなかったのでしょうか?
なぜ幼い少女たち、子どもたちの前でしか、わたくしの姿が見えなかったのでしょうか?

それはけっして難しい知識や、知恵や、社会的な常識というものをいっぱい詰め込んだ、賢くて良識もわかっているそのような大人の者たちに、わたくしの言葉が、心が伝わったかというと、そうではなかったということの証明なのです。

わたくしたちは、そして、神のお心というものは、けっしてそんなに難解なものではないし、難しいものではないということなのです。

ただただ素朴な、純粋な一途に信ずる思い、その感性、その思いをもって、イエス・キリストも、神の国とはこのような幼子たちのような者がいる世界であると申されたではありませんか。

二千年前におっしゃられているはずなのです。
なぜあなた方はその言葉を学びながら、心の中にその素直さと、純粋さと、素朴さというものを、そういう愛あふれる素朴な信仰心というものを築けなかったのでしょうか。

むやみやたらに数々の知識や、戒律や、そういうものでご自分たちの純粋なる神の子としての魂を縛りに縛り、わたくしたち、神の使者の姿や言葉も聴けぬ、そのような情況をあなた方は自らがつくり出してしまったのではないでしょうか。

また新たに降りた言葉を新たな哲学にし、学問にしようと、すぐあなた方はなさろうとするかもしれないけれど、わたくしのような神に仕える端女のような者が、このように易しい、けっして理論的ではない易しい言葉をもって、あなた方に伝えることをもって、神の国の言葉というものを、神のお心というものが、どれだけ素朴さに満ちたものであるかということを、でも、純粋さを求められるものであるかということを、わたくしはあなた方に、またあえてお伝えしたいのです。

この者は、確かに霊言能力というものを、本来の特性として、個性として持っておられるのも事実なのです。
でも、この人を見ていただきたいのです。

けっして難解なもの、難しいものに惹かれることよりも、どれだけ苦しみながら、自らの人生を生きながら、常に無邪気で純真なところがある。
屈託のない、大らかさをもっているという、そういうところがあるはずなのです。

それがほかの方がた、男性たちと大きく違うところかもしれません。
純粋で屈託がなく、無邪気であるということ。
それは子どもたちの心に通じていくものがあるのです。

子どもではありませんから、数々の人生の苦しみや悲しみや、まして戦いの場にいれば数々の気苦労も多いことも事実なのですけど、常に朗らかに、楽天的に、純粋に、無邪気に生きようとする。

そのような心根があるかどうか。
そのように見ていくことができるかどうか。
そのような思いを、ひとたび、男性方は学んでいただきたいと思うのです。

けっしてわたくしたちの姿を見ることを、声を聴くということが、この者たけの特権でないということが、ファティマなどの出現で、子どもたち以外にも霊視を、霊言を現状として見た方たちはたくさんおられたはずなのです。

そのことをもって、心の中にスクリーンのようなものをかけないで、大らかな純真な思いで、天国の天使たちの思いと同じような、たとえて言うのならば、子どもの中にある純真さというような思いを常に忘れずに、あなた方の心の中にたたえて生きていけるような、そのような者たちでなくては、神の御国に入ることはかなわないということなのです。

あなた方が学ぶべきことは、知恵ある言葉であるのも事実ですけれども、どれだけ知恵ある言葉を学ばれても、そのような純粋な神の使者としての無邪気な純粋さ、ひたむきな信仰心、そして、愛というものがそれこそ傷つくほどに優しさであり、寛容さであり、当たり前の生活の中で-。

この間、教えておられました。
墨子様が繰り返しおっしゃられておられました。
当たり前の人生の中の、当たり前の一コマの中で、どのように他者の痛みや喜びを分かち合って具体的に生きることができるか。

そのような、ささやかな人生の積み重ねこそが愛ある生活、神の子としての生きざまそのものであるのだということを、あの方が愛の霊団の使者としてお伝えになっておられたのを、わたくしも脇で聴いておりました。
まさにその言葉に尽きるのだと思います。

わたくしはわたくしの言葉をもって、今日お伝えしておりますけれども。
素朴な日常の中で、けっしてみんながみんなマザー・テレサのように、十字架にはりつけになったインマヌエル、イエス・キリストのように生きようと思わなくても、ご自分の人生を心から愛されて、当たり前のご自分の人生、でも一度しかない、今世という大事なこのときの中で、愛をほんとうに光らしめるには、愛のたいまつとなるには、愛のキャンドルサービスとなっていく、その点火できる光としての真の価値を、今回の人生の中で学ばれていただきたい。

そして、ご自分自身が純粋なる信仰心の中で、幼子のようなひたむきさと、天使の者たちが持つような一途さをもって、ご自分の神性の中にある愛の炎を最大限に燃やし、燃焼されたとき、あなた方の愛の光は、ほかの方がたの、神の子としての神性に感動をもって、次々と点火をされていくことでしょう。

ほかの者たちを説得しようとしてはいけません。
あなた方の人生の生き方をもって、光をもって、それがほかの方がたを感動させ、ほかの方がたの心の中に愛の光を点火させる道をひらくのです。

口先だけならいくらでも言えるのです。
口先だけならごまかせると思うのが、また地上の人間の悲しさでもあります。
でもわたくしたちの世界から見たら、ほんとうに真剣な思いで、純粋に愛として光り輝こうと思っているのが、そのことが一目瞭然でわかるのです。

無私なる思いで、自分自身の人生を他者の幸せの中に、ただただ無心なる無私なる思いの中で、愛の炎として輝こうと、お一人おひとりがなされるのであるのならば、必ずやこの地上は次から次へと光が灯り、愛のキャンドルによってこの地上が埋め尽くされることをもって、この地球は必ずや愛の星に変わることでしょう。
その真実の光をもってしか、この地球の危機は救えないのだということ。

9.愛のキャンドルサービスをこの地球上に広げてほしい

その思いは、真剣であればあるほど、あっという間に光というのは広がっていくのです。
その光を発信しようという真剣さをもってでしか、最初の者の歯車を押していく真剣さをもって、愛のたいまつというものが点火されていくのです。

あなた方はその大もとにおられるということ。
その意味において、この日本に今、生を受けておられる方がたはひじょうに責任重大な場所におられるということなのです。
でも、それだけありがたい、素晴らしい人生であるということも言えるのかもしれません。

わたくしたちの生の声を聴き、そして、それを書物で読むことができ、CDで聴くことができる。
それを人類の遺産として守りながら、そこから何を学び、具体的に自分たちが何をなすべきかということは、わたくしたちは答えを申しません。

お一人おひとりがご自分の人生を突き詰めながら、ご自分の人生と対峙しながら、答えはお一人おひとりが見つけていくことなのです。

紋切りな、誰でもできるような画一的な答えで、自分自ら頭で思考することなく、与えられることをもってしか判断できない。
そのような人生であるのであるなら、それは少しも力をもって、ご自分自身の人生を光らせたり、ほかの者の光を啓発するようなことなどできないでありましょう。

人生は大事な、大事な修行の場でもあるのです。
そして、この地上に生を受けている時間は永遠ではないということ、無限ではないということ。
そのことを心に銘じられ、この使命を果たしていただきたいと思います。

地上におられる我が子たちよ。
どうかこの母の願いを聞いていただきたいのです。
あなた方が、今この地上にいること。
生活できておられること。
それは、けっして予言が外れたわけでも、そして、この平和な安逸な時が永遠に続くわけではないのです。

確かにこの地球の節目の中で、今ひとたび残されたこの時の中で、あなた方がどのようにこの地球の大救世運動のために、何がなし得るか。
最後のラストチャンスを今、神より与えられた。
そのような大事な、大事な時という中に今、身をおいておられるのだということに、どうか気づいていただきたいのです。

むやみに時をむさぼってほしくないのです。
死んでから悔いを残されるのではなく、もしわが言葉を聴き、少しでもあなた方の心の中に何か納得し、気づくことがあるのならば、明日からと言わず、今日、今からやれることを探していただきたいのです。

認識を変え、学んだのならば、何をもってあなた方の人生の中で具体的なことができるか。
簡単に言えばこういうことです。
ほかの人を幸せにできますか、ということです。

自分ひとりの幸せの中であり余る時間と、エネルギーと、体力と、お金と、現代のあふれんばかりの物質の中で、自分だけが幸せになることを求めるのではなく、神より与えられたそのようなものを、どのようにしたら少しでもほかの人を幸せにできるために活用し、自らの人生を愛あふれる人生として輝かすことができるか。
そのような工夫や努力をしてくださいと、そのことをお願いしているのです。

一人ひとりができることはささやかでも、みんなが力を合わせて手を取り合ったのならば、多くのことがしていけるのです。
それにはまず、自分自身の人生の中で、できる最初の一歩を踏み出さねば、大きなことはできないのです。

今日、申しました。
愛のキャンドルサービスをこの地球上に広げてください。
あなた方の愛の思いを、優しさを、難しい言葉でなくていい、難しいことをしなくてもいい。
でも、できることから一歩一歩、ほかの方がたの苦しみを少しでも軽くし、悲しみを少しでも減らし、喜びをともに喜び、倍増し、幸せな人生をともに分かち合って、みんなで生きていくことができるということの願いと祈りをもって、このアースの、未来の地球をつくっていく、そのようなことがあなた方にできる。

そのような思いをどうかこれからもあなた方の中に刻んで、人生を生きていっていただきたい。
それこそが、この地球の最終局面を救う、ひとつの、唯一の解決法でしかないということを、残念ながら、わたくしはお伝えしなくてはなりません。

10.地上の方がたへのメッセージ

このようにつらいことを申し上げるのは、わたくしはほんと、胸がはり裂けそうなのです。
でも、わたくしはそのような役割を神より与えられておりますので、わたくしは、我が使命を果たすために、今日このようなことを申し上げるために参りました。

天変地異というのは徐々に加速され、今多くの方がたがあちこちで犠牲になっておられますが、これは加速度がついてくるのです。

もう支えきれなくなってきているということ。
そして、人びとの業想念がこのようにぶつかり続ける限り、そのうちに最終戦争というのが起きてくるでしょう。

人びとの心を分かち合いの中で、愛の循環という通路の中に流すようにしていかなくては、このまま互いが互いの戦闘性と、力と力のせめぎ合いの中で、張り合い続けるのであるのなら、いつかはそのようなことが起きてしまうのです。

そして、それはけっして遠い未来ではないということ。
そのような自然災害、戦争というもの、そして、宗教的な価値観の数々の制度が崩壊し、ひとつの新しい価値観の中に投げ込まれていく時代が、そのような文化的な意味においても、信仰形態においても、新たな局面が次々と連鎖反応的に起きてくる時代がもうすぐ先にきているのです。

今このように平和に、このように神の言葉を平静に聴きながら編集できるような、このような時が永遠に続くわけではないということ。

それを今回の地震とか台風とかの状態を見ながら、なにやら地球が普通ではないようだ、以前とは違うということは、多くの人びとが、もう気づき始めているということなのです。

でも、その現実というものは、あなた方が考えるような予想をはるかに超えた事態というのが起きてくるということ。
その時、どのぐらいの方がたが生き残れるか、わたくしはわかりません。

でも、なるべくそのような方がたが少しでも多くなるために、そして、その次の天変地異が起きて、いろいろなことが起きていったあとに、新たな社会の、この地上の建て直しをしていくためにも、精神的なルネッサンス革命的な、そのような神の子の本来に生まれ変わっていくような魂の復活というもの。
神の子の神性の復活というもの。
それをかけて、次の時代の足跡を、道しるべを残すことをもって、次の世代の方がたはその地獄絵図のような時代の中から、地球の未来を愛の星へと導いていかれることでしょう。

どうか、そちらにもっていけるように、最悪のことがなるべく最小限度のことで済むように、わたくしはただただ、祈るしかない自分を無力だと思っております。

でも、このような機会を神より与えられ、再度、地上の方がたに対してこのようなわたくしの思いを語る機会を与えられましたことを、心より神に感謝申し上げ、また地上のあなた方に感謝申し上げます。

今までの出現と申しましても、子どもたちやシスターたちの前で、数々の物質的な現象を込めて語りかけることでした。
難しいわたくしの思いとか、複雑な理念、そのような微妙なニュアンスまでこのように語る機会というものを与えられたことはございませんでした。

今日、このように長時間、わたくしの思いというものを、この天変地異の押し迫ったこの時代の中で、最後に神の子たちに、地上の神の子たちに語るチャンスを与えられましたことを、わたくしの人生における、魂の歴史におけるほんとうの幸せな瞬間であったと心より感謝し、そして、地上の方がたへのメッセージとしたいと思います。

わたくしは、いつもあなた方を愛しています。
いつもあなた方は幸せになっていただきたい。
あなた方の苦しみ、悲しみを思い、わたくしもともに涙を流しているのだと、あなた方はけっして一人ではないのだと、苦しいとき、孤独を感じたとき、どうか天上であなた方の思いを感じ取り、涙を流している母がいるのだということを、いつでもあなた方は思い出していただきたい。

そして、わたくしを思い起こし、わたしの胸に抱かれ、わたくしの思いを受け止め癒され、また活力としていただきたいのです。

あなた方に幼子のような心があれば、わたしはいつでもあなた方に語りかけましょう。
今日このように語りかけているように、あなた方の心に貼られている、そのシールドのようなスクリーンを外してくだされば、わたくしは一人ひとりに、この者だけでなくあなた方にも、いつでも語りかけることができるのです。

ですから、あなた方もご自分の心を、どうかわたくしたちに向けて解放していただきたいのです。
そうすれば、わたくしはあなた方をいつでも導くことができるのだということ。

あなた方は一人ではない。
どんなに苦しい時も絶望しないで、わたくしたちの心の中に、そして、愛の中に生きているのだということを、常に自信と希望の原理として頑張っていただきたいと思います。

今日はたいへん長時間になりましたけれども、この時期ではということなのです。
これ以上、わたくしはあまり言いたくないので申し上げないこともあるのですが、どうか、お一人おひとりの覚悟の中に決められ、今という時の中で、あなた方のできる最大限の人生のきらめきの中で、この苦境を、状況を改善するために、精一杯の努力をしていただきたいと、ただただお願い申し上げます。

では今日は、これにて失礼させていただきます。
ありがとうございました。

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