top of page

Project Eden

第7章 無限の愛

1.愛の教えが、一番大事な法の根本であるということ

2.感謝ができない者は他の者を愛することができない

3.グローバルな愛の理念のみが、最終ユートピア建設のための共通理念

4.ただ愛のエネルギーの中に生かすということ

5.愛というものは、トータルなものであるということ

6.女性原理と男性原理が手をつないだところで、愛の完結を見る

7.行いがあってこその愛の使者、神の使者であるということ

8.自分を滅して他者を愛し抜く、そのトータルな献身的な姿を愛という

9.生きている限り、愛を表現する者であること

10.愛とは、裁かず、無限に赦しの中で、受け入れていくということ

11.思いからすべてがはじまる

12.愛はどこまでも無限に広がっていく

13.愛の中に条件づけをしないということ

14.何がゴールであるかを、しっかり認識する

15.三次元を縁とした、天上界、地獄界同時進行の大救世計画

エル・ランティ(高橋信次)

地球霊界九次元の中でも破格のエネルギーを持ち、エホバの神やアラーの神として知られている存在。
今から約三億六千五百万年前、ベーエルダ星から約六千万人を率いて地球に飛来した。
これが地球人類のはじまりとされている。
長い間、地上に肉体を持つことはなかったが、日本に高橋信次として転生し、正法神理を説いた。
現在は天上界にて「第三の計画」の最高責任者となっている。

1.愛の教えが、一番大事な法の根本であるということ

僕たちが伝えたかった愛の理念。

いいですか。宇宙の法につながっていく根本法として欠けていたのは、縦の法だけでなく、愛の法と呼ばれている、横の、人類全体を包み込むような愛の教えだよね。

それが、その愛の教えが、宇宙界まで、大宇宙まで貫いて、それを通して、宇宙の友と手を取り合う時代が来ている。そのことを僕たちは伝えたかった。

アガシャー系と、地球は言われているでしょ。愛がもっとも尊いということを理念に掲げた、それが地球人の本来あるべき姿――。アガシャー系、愛の霊団であるということを唱(うた)うのが我々の霊団の総称である以上、アモールが言っていた愛の教えというのは、一番大事な法の根本なんです。あれがすべてなんだよ。あれがすべてで、あとは現実的なものの中で応用していくということ。

それが、小さなものでは自分たちの家庭、家族から、地域社会から、組織から、一般社会から、組織の変革においてもね、大きいものでは大自然から、宇宙すべてに愛の原理が働いているということ。

その摂理、法則、愛の循環そのものが、大宇宙の神の御心なのです。
人類はそれを知る必要があった。
あれをーー、僕も話をしたかったし、僕も言いたかったけど、「やっぱりこの愛の教えは、アモールだろう、イエス様だろう」ということで、みんなしゃべりたくてしょうがなかったのを、アモールに譲ったというのが実情なんだけどね。

でも、じゃあ九次元がほかにいたら、他の教えが、別のものがあるかというと、根本はひとつです。
アモールが言ったことが根本なんだ。
その後に、僕たちは自分たちの立場でそれぞれの形で、九次元として語った。

だから、ひとつの文明の中に、九次元がたくさん出る必要はなかったんだよね。
だいたい、二、三人がチームを組んで出ていたという(ことだから)ーー。
言いたいことは基本的には同じなんです。

文明の個性に応じて、やはりその文明ごとの個性はあったけど、基本的には人類が悟っていくうえで、以後に、愛を学んでいくという、どれだけトータルな視野で、広い視野で愛というものを学んでいけるか。
それが、人類が学んでいく、究極の教えであるということね。

2.感謝ができない者は他の者を愛することができない

いいかい。悪というものは、本来はそんなにない。
悪は何かっていうと、善に対する、神に対する、部分的な一部のもの。
全体に挑戦している一部分の愛が、悪の正体かもしれないよ。
わかるかい。

一部分が全体だと言い張るとき、そこには寛容さもなにもなくなる。
一部分が言っていることも、ひとつの神の子のあらわれ方。
みんな、一部分の愛を与えられている。
それが、みんなで手を取り合って融合していくからこそ、全体としての愛の調和、愛の循環ができるのに、一部分だけが全体に勝ると主張し始めたときに、愛の循環は阻害されて、溜まりをつくり、影をつくっていく。
それが悪の姿。

でも、大きな宇宙の流れから見たら、まったくの絶対悪なんていうのはなくてね。
光のよどみ、愛の循環の滞っている部分--そういうものなの。
だから、悪だと言われているのは、大きな神の摂理、大宇宙の愛から見たら、ほんのちっぽけなものなんです。
彼らもともに神の子だということ。

いずれはひとつの流れのなかで、愛の循環の摂理に飲み込まれて、それでひとつの、大宇宙の響き、流れができてくるのです。

大宇宙は音を発している。
そのようなひとつの響き、バイブレーションのシンフォニー、コラボレーションがあってね。
その中においていろんな--、ドレミファソラシドって音があるでしょ。
それ以上の、あなたたちがわかる以上の音がある。
そのなかでみんな、ハーモニーを奏でているんだよ。

ドがドであるからすばらしい。
レがレであるからすばらしいんだけれども、ドが絶対であると、絶対にドだけがすばらしいと言い張ったら、交響曲でも音楽でもぶち壊しだろう?
ドもすばらしいけど、レもミもフアもソもラもシも全部すばらしいんだっていう、その寛容さ。
受け入れていくおおらかさ。
それが愛なんだ。

その寛容さ、トータルな視野、ものの見方、受け入れていく大きさ、忍耐力、優しさ、寛容さ、それを全部、ひとつの言葉で言うなら愛というんだ。

万物を、生きとし生きるすべてのものを受け入れ、赦し、育み、そして、それ自身の神の子としての命を生かしめんとして、愛というものは常に送り出されていく。
それが大宇宙の摂理であり、宇宙の神のお心なんです。

その中にいると、自分も生かされている気持ちが、アモールじゃないけど、あるんだよね。
自分だって生かされている、自分がもしドだったら、レもミもフアもソもラもシも、すべての神の子たちを生かすために、自分が努力しなければいけないだろう。
自分だって生かされてるんだからという、それがアモールが言ってた感謝だよね。

感謝の思いは、また他のものを生かさんとする、愛他精神になっていって、また愛を送り込んでいくんだよ。
感謝ができない者は、他の者をけっして愛することができない。
それを、感謝と愛はコインの裏表と同じだよということをおっしゃった。
同じです。

だから、僕が言っても、アモールが言っても、かたやモーゼが言っても、ゾロアスターが言っても、誰が言ってもみんな、愛を唱えたら最後は同じなんだ。
その中で、愛の大家でおられる、アモール、イエス様が、愛を美しい言葉で語られるから、この間、あのような力のある霊言になったと思う。

3.グローバルな愛の理念のみが、最終ユートピア建設のための共通理念

僕たちが今、人類に学んでもらいたいのは、愛というものの視点の大きさ、おおらかさ、懐の大きさ。
「自分を投げ打ってでも他を愛せ」とイエス様がおっしゃった。
それはなぜか。

自分を投げ打つことは少しも、他を生かすとき、恥ずかしいことでもなければ、損なことでもない。
損得で言うのは嫌だけどね。
自分自身を投げ込んで、全力投入して、自分の生涯そのものを投げ込んで、まわりを生かさんとする、愛に生き続ける。
そのときに絶対的な愛の爆発というもの、愛が、神の子としての神性が爆発する瞬間なんだよ。

「それが神仏の使徒というのだよ」ということを、ゼウス様があなた方に言ったよね。
「神仏の使徒というのはーー、自分の人生を省みることなく、ただただ人類のために捧げ尽くす者のことを、神仏の使徒というんだ」ということをおっしゃってる。
ゼウス様が話すと、そういう言葉になる。

それはね、「自分自身のことを考えるな」ではなくてーー、結果的にそれは、原因結果の法則で、自分が「いらない」と言っても、自分に戻ってきてしまう。
それを考えたら、肉体も、すべて自分以外のものとして、自分が執着する必要がないものだと思ったのなら、あなた方は、すべての人生を、全身全霊をもって、神の子たちの、友人たちのために、文明のために、神の愛に報いるために、自分の人生を捧げ尽くしたとき、あなた方が神の子としての本来の使命を果たした姿になるのだと、それこそが、大宇宙の神が祝福する、愛の子としての、神の子としての本来の姿なのだということです。

それをあなた方に伝えるのが、エル・カンタラーの仕事であったということ。
その愛の理念。
グローバルな、ね、地球を愛の星にするための、グローバルな愛の理念のみが、この地球に最終ユートピア建設をするために統一される、共通理念だったということだよ。
それを持たなければ、地球を愛の星にするために、これだけいがみ合っている人類をまとめあげるなんてことは、不可能だった。

でも、イエス様がたった三年半の間に説いた言葉が時代の流れの中で、地球中の人々を救っていっただろう。
仏陀もやった、モーゼもやった、孔子もやった、いろんなことをやったけど、やっぱりイエス様の教え、キリスト教の教えが、ときの流れの中で多くの人々を救ったじゃないか。

だから、あなたたちから見たらありえない、そんなことはなしえないだろうと思うことが、ほんとうの意味で、神理を含んだ、力のある霊言なら、力のある教えならば、必ずや人類を動かし、最終的なユートピア建設のための、大きな、大きな理念として、推進力として、必ず行き届いて、人類を救っていく、そのような力になる。
それを我々は信じていた。

それをエル・カンタラー自らの力でやろうと、最後はそれで地球人類をまとめるのだというのが、我々の悲願だった。
それをあなた方に伝えたかった。
でも、あまりにも壮大なビジョンなので、やはり九次元を通して伝えられていく内容にしようと、そう決められたのです。

ですから、だめならば他の人が、ということにはなかなかできないけれども、霊言という形で、我々の言葉をあなた方にストレートに伝えてくれる、我々九次元の、まあ、この人(アマーリエ)が、っていうよりは、霊言を伝える巫女さんとして、僕らの言葉をあなた方に伝えてくれるというので、「では九次元の法を降ろしましょう」ということになったわけです。

だから、理念をほんとうの意味でーー。
「何だ、こんなこと知ってた」と思う人もいるかもしれない。
でも、ほんとうの意味で、これが法として降りて、社会を変革していく力になっていったなら、ほんとうにわかっている人たちが、地球にたくさんいたのなら、地球はもうとっくに変わっているよ。

それが、残念だけど、僕がさんざん転生輪廻のことを話したにもかかわらず、多くの日本人がーー、転生輪廻のなかで、過去世からの縁生で、現在の状況があるということ、過去世からの因果応報で現在があるということを思って、もっとみんなが手を取り合ってね、それで縁があることに感謝して生きていくーー。
そして、今回の人生にいたずらに執着することなく、自分自身の魂の縁生を考えた上で、現在を努力できるーー。
人を赦していくーー。
人に対してもっと優しく生きていくことができるーー。
神の子としての使命をしっかりと魂に刻みながら、今回の人生を一歩一歩、歩むことができたはずなんだよ。

それだけのことを、僕は語っていたと思うんだけれども、実際はほんとうの意味で腑に落ちていないーー。
霊道現象とか、そういうことばかりが目の前によぎって、霊道現象の高橋信次になってしまった。
悪霊取りの高橋信次になってしまった。

教えた内容を、ほんとうの意味で、三次元の日常生活に生かしていくということ。
そのことをあなた方も、以前学んだ者たちも、ほんとうの意味で実現できていない。
それが今日の姿であると思う。

4.ただ愛のエネルギーの中に生かすということ

だからいちばん大事なことは、現象をやることでもなくて、悪霊を取ることでもなくて、病気治しをすることでもなくてねーー。
大事な神の教え、神理、それを伝えるために、僕はこの地上に出たんだよ。
たまたま、悪霊取りとか、現象を通して、魂や、あの世があるということをみんなに伝えんがために、そういう現象をやったよ。
でも、いちばん大事なことは、魂が転生輪廻し、永遠であること。
それを伝えたかった。
過去世の証明をしたかった。
そういうことでしょ。

でも、それ自体が、教えとして、少しもみんなの生活に活きていない。
それが、今の日本の状態をつくっているのが事実なんだよ。
だから、いくら根本理念だけを言っても、地上で受け止めた者たちが、実際の生活のなかで具体的に何ができるかということを、行いをしてもらうことがなければ、神理をいくら聞いたとしても、「ああ神理はよかった」と言って、涙を流しただけで終わってしまう。
そんなものでは、地上の改革にもならないし、救世運動にもならないんです。

僕は生前、「この救世運動、救世というのは世を救っていく運動、地上をユートピアにしていく、愛の星にしていく運動だ」ということを、言ったよね。
言ったね。
それがどういう意味だったか。
それは、ユートピアにする、地上に仏国土を実現するためである、ということを言っているんだよ。

少しも、そこがほんとうの意味でわかってない。
上滑りだけの、霊道現象だけの高橋信次で終わってしまった。
だからそれが、今回の、まあ露払いといえば露払いであったから、役割的にはしょうがなかったんだけれども、露払いだけで終わらないためにも、具体的に、地上でどういうふうに愛の摂理、愛の教えというものを生かせばユートピアにしていけるか、それが叶うかとーー。
そのためにも、ぜひ、みなさん方にも力を貸してほしい。
これは、エル・カンタラーがやり残したことでもありますがーー、今、もう九次元総動員で出てきてますから。

地上に出ていった、あなた方のような、有能な光の天使たちが、力を貸してくださることで、この地上にね、最終的に仏国土を実現させたい、具現化させていきたい、そういう思いっていうのを持っています。

だから、あなた方、目新しい論理、目新しい神理だけを聞いて、それがおもしろいという、知的好奇心ではなくてーー。
摂理というものはそう難しいものではない。
法則にしても、原因結果の法則とかね、親和性の法則も聞いたでしょ。
自分たちの同類が集まってくるというね、そういうこととかーー。
法則っていうのは、そんなにたくさんあるわけじゃないので、それらを、ほんとうの意味でわかって、愛の中で生かしていくときに、神の御心に近づくということ。

今、気のエネルギーを使ってるけど、自分にこんなエネルギーがあるっていうことをみんな知らないわけでしょ。
はじめてでしょ、気っていうのーー。
でも、これを自然に使える人がいるわけだ。
こういうのを自然に使って、信じてーー、そういうエネルギーがあるから、こうやって霊言もとれてる。

これは、この人だけが霊言をとれるわけじゃあなくて、本来は、あなた方もみんな神の子である以上、自分の内在する力に気づけば、誰でもができることなんだよ。
そこのところが見失われている。

自分自身の無限の可能性に気づきなさい。
自分の無限の力に気づいていきなさい。
すべてをすばらしいものにするのは、ただ愛のエネルギーの中に生かすということ。
自分自身のエネルギーと個性を、最大限に活かすということ。
愛の花を咲かせるために、自分自身のエネルギーを全力投入して生きるということ。
そうしたら、何をやっても、そんなに間違ったことはないよ。

5.愛というものは、トータルなものであるということ

いいかい、自己限定することはない。
さっき、天上界での自由、それがどういうものかっていうことをお尋ねになっていたけどーー。
あなた方、天上界行くと堅っ苦しいんじゃないかってーー。
いつも、以前の団体で学んだ名残が後遺症になっているんだよ。
試験、試験で、勉強で、上に行けば行くほど大変だから、上に行きたくないとか。

天上界に行くと、楽しいかわいいおねえさんもいないし、お酒も飲めなくなるし、とか。
そういうふうに思ってるから、天上界に行くと自由がないんじゃないかと思うんでしょ?
かわいいおねえさん欲しいしね。
おいしいものも、うまい酒も飲みたいっていうのが、気持ちの中にいつもあるからね。

天上界行くと自由がなくて、つまんないんじゃないかと思って、それなら、上よりちょっと下のほうがいいかな、なんて裏のほうがいいかな、なんて思っちゃうんでしょ、すぐね。
そうじゃないんだよ。
上は楽しいよ。
自由ですよ。
それを証明するために、ゼウス様に出ていただいたり、マヌ様に登場してもらってるわけですよ。
どうも、人類の見方が、天上界に対しても偏ってしまった。

まじめなことはいいんだよ。
お坊さんたちが一生懸命、一途に法を学ぶ姿。
それは尊いし、人類における、精神文明のリードは、常に彼らの功績によって支えられてきた。
そのことばすばらしい、ありがたいことだけれど、それを追求せんがために、どうしても、一部分が絶対であるという、愛の偏り現象をつくってしまったかもしれないよ。
愛というものはもっとトータルなもの。

いろんな部分が神様の中にあって、一部分だけが極端に肥大化すると、どんな良いものであっても、偏りがあったら、愛と呼ばれなくなるときもあるんだよ。
母親の愛でも、子どもを愛するあまり、すべてを犠牲にして、その子どもを縛るような思いでやったときは、母の愛も、どれだけ世話をしたからといっても、それが子どもにとって悪になってしまうこともあるでしょ。
それと同じだよ。

だから、何でも行き過ぎればなんとやらってところがあって、偏ってしまうといけない。
お坊さんたちの思いも、行き過ぎていってしまったら、それを本来は法の道のためにね、一途に神の仕事を果たすためにーー。
人類に、男性とか女性というものだけで、初歩的なところで、何もわからない者たちに、「女性と遊び暮らしたって、地獄に堕ちないんだよ」って言ったたら、むちゃくちゃなことも起きるような、そういう原始の、古代の時代というのがあったわけですよ。

その中で、ひとつの秩序の中で、神の愛の理念を伝える、メッセンジャーたちに限ってのみ、女犯の罪というか、女性とあまり触れないで、一途に信仰に生きる姿が、宗教のプロであるお坊さん、宗教者という者の中に義務づけられて、その中で一途に信仰の道というものに努力してもらった。
その姿が、仏陀サンガーにおける、坊さんたちの姿でもあるしね、神職とか、キリスト教の中でも、一部の神父さんとかもそういう姿でしょう。

それは、やはり混沌とした時代の中で、神の使者としての役割を果たすために、やはり多くの人々が欲を絶って、神仏に一生を捧げたという、美しい姿があるんだ。
その姿自体が間違ってたということではない。
それで人類はリードされてきた、精神史がリードされてきたという時代がある。
しかし、ある程度の爛熟期がきたとき、犠牲としてきた一部分が、まるで悪であるかのようにみなされてしまったということ。

神というのは、大きな意味で、トータルな、大いなるバランスの中にあるんだよ。
陰があり陽があり、すべてがあって、手を取り合い、陸み合っている。
それが、大宇宙の調和の中で、愛という摂理、原理としてまわっている。
だいたい宗教者というのは、男性が多かったから、女性に対する罪悪感が、長い間に埋め込まれてしまった。
女性がまるで神の摂理から嫌われるもの、女性に触れたら、まるで、自分は神の使徒ではないかのような錯覚を植え込んでしまった。
だから、本来なら、陽の意識に対して、陰の意識という神の、神の子の一部として女性の意識は尊いものなんだけど、それがいつの間にか罪悪視されてしまった。

6.女性原理と男性原理が手をつないだところで、愛の完結を見る

それが、今日ここまできたから、神の使者としても、今回はすべて在家の法でいきなさいという大号令が下っているわけ。
だから、みんな結婚しなさいねということをーー。
巫女さんたちなんて「嫌だ、嫌だ」って言いますよ。
坊さんも「あんまり結婚したくないな」と言います。

芸術家の人たちなんかもう、結婚すること自体が怖いんですよ。
物質的なものにまみれるのがすごく怖いんです。
日常的な義務感を背負うことが芸術家にはすごく重荷だし、それで生きていけるのかという不安感があります。
恐怖心があります。
だから、生まれていくときも、「えぇーっ」ていう思いがあった。

「でも、今回出る以上は、在家の法ですよ、結婚しなさい」とーー。
それは、女性原理と男性原理が手をつないだところで、ひとつの魂の集大成を見る、愛の完結を見るということもあって、「あなたたちは結婚をしなさいよ」ということを、救世運動にかかわる光の天使たちは、その使命が義務づけられて出てきているんです。

だから、お坊さんも、尼さんも、巫女さんも、神父さんも、今回光の救世運動で出る人は、結婚するという義務があった。
だから、今の時期になって、男性原理と女性原理が、ほんとうの意味で手を取り合っていく。
そうしても、けっして自分の魂を汚すことにはならなくて、最終的に、愛の原理をトータルな原理として、受け入れて完成していく、愛を完成していく原理においても、必要な部分であるということ。

そのことをあなた方に教えるため、「在家の法」が打ち出されてる。
「在家の法」という原理があるということを、あなた方知ってるでしょ?
聞いてますよね。
でも、どうしてもお坊さんたちは、まあここ、ぱっと見ても、過去世、神職や、神様系の仕事やってきた人が多いから、結婚して家庭を持つということに違和感のある人たちが多かったですよね。

「結婚したくないなあ」って、しても、「しぶしぶしたなあ」みたいな、そういう人もいますよね。
でも、そこでこそ、ほんとうの意味で愛の基本原理を学べるんですよ。
子どもがいるとかいないとか、それはまた別です。
子どもはいずれ巣立っていくものですよ。
いいですか。

育むという愛の中では、もちろん大いなる愛を学びます。
でも、最後はこの間言われていたでしょ。
男性原理と女性原理とはまったく異質のものです。
それが出会って、手を取り合って、互いに何が愛であるかということーー。それを学ぶのは、基本は夫婦という、男女というペアなのです。
そこに、ひじょうに大きな魂の学びがあるということなんです。

女性が女性になっていき、男性が男性となっていくということです。
男性がほんとうに男性となるには、愛する女性を守ってこそ。
そこで、男性原理というのは花開くんだよ。
愛が、自分の中にあるほんとうの意味での男性としての愛に火がつくんだよ。

理屈だけで言っていても、愛というのは語れない。
愛は日常の行いの中で、人生の中で、自分の人生を切り刻んで捧げていくもの。
献身していく姿の中にある。
女性だけに愛の献身があるんじゃないよ。

男性だって、自分の人生をねーー、ほんとうのこと言ったら、いつもお経ばっかり、経典ばっかり書いていたいけど、でも娘たちのためにがんばらなきや、とかね、いろいろありますね。
嫁に出さなきゃいけない二人も、と思って、一生懸命働かなきゃいけない。
ほんとうだったら、仏典の編集だけやっていたいけど、仕事もしなくちゃ出世もしなくちゃ、先生たいへんだっていうのがあるんですよ。

でもこれが実際の愛なんです。
自己本位に、自分だけが自分のやりたいことだけをやっている姿、そこに愛はないんだ。
自分がやりたいけれど、自分が愛する者、守る者のために、男性ならば、愛する者のために、自分の人生を削ってでも、愛し、育んで、捧げていくという姿、そこあってこそ、男性が男性として光り輝いていく、男として頼もしくなっていく、それが基本なんです。

子どもがいなくったって、愛する妻を守り、妻が夫を支え、捧げ尽くしていく献身的な姿、それだけでも十分に学べる。
それをあなた方に学んでほしい。
理屈ではないということ。

7.行いがあってこその愛の使者、神の使者であるということ

そのために、あなた方は、こちらの世界にいたときに、愛の原理というのは、たくさん学んでるんです。
あなた方くらいだったら、もう十分学んでるんです。
でも、「じゃあ地上に出たときに、その七次元で学んだ愛の原理をなせますか」ということが、あなた方の試験ですよ。
やってますか?
愛というのは、漠然とした人類に対する愛じゃないんですよ。

日常のささやかな一コマのなかに、生きた愛の姿をなしていくということ。
行いの中になしていくということ。
ミクロ的には夫婦や、家庭の愛から、マクロ的には、人類に対する愛として広がるんです。

身近な人、親を大切にしたりとか、愛する妻、愛する恋人をね、夫を愛せない者が、愛する娘たちを本気で愛せない者が、人類は愛せないんだよ。
そこを、あなた方は勘違いしちゃいけないよ。

神職にある者、神の使者にあった者たちは、どうしてもそういう抽象的な、漠然とした観念の中で愛を唱えたがる。
でも愛というのは違うよ。
マザー・テレサが言ったように、理屈ばかりを言って、排斥する他の宗派の者たちに対して、「私は忙しいんです。あなた方、私を非難するなら、そこに座って私を見ててください」と。
それで、マザー・テレサは何も言わず、黙々と病に苦しむ患者たちの世話をした。
そのうちに、他の宗派の人たちは黙っていなくなった。
それくらい愛というのは、語るのではなく、行いの中で、日常の一コマ一コマで、全身全霊で捧げ尽くす、その姿、行為を通して、自然に人に語られ、人の心を動かしてくるものなんだよ。

だから、その愛を、単なる理念だけで言ってははいけない。
それはあなた方の人生をもって、その後ろ姿で、あなた方が示していくことで、救世の大運動というものが、ほんとうの意味で広がっていく。

マザー・テレサというあの小柄な女性ひとりが、ここまで世界を変えたじゃないか。
やり続けたじゃないか。
それは彼女が語った言葉かい?
彼女はけっして雄弁な人ではなかった。
語る言葉に関してそれほどーー。

「マザーの言うことは、言わなくてもだいたいわかります」というのが、みなさんの言葉でした。
彼女はそれほど説教のうまい人ではなかったからね。
でも、彼女は、全身全霊をもって自分の人生を、まあ、キリストといったけど、神そのものに捧げてた。
病に苦しむ患者、街で死にかけている子どもたち、食べるあてもなく子どもを抱えたご婦人たち、貧しい子どもたち、すべての中にキリストを見たと言った。
神の子として、神の姿を見たんだよ。

自分の使えるキリスト、神のお姿を、一人ひとりの弱き者たちのなかに見たとき、彼女は全身全霊で、自分の愛する神のために、彼らを助け続けた。
その行いを通して、あんな小さな女性のやった行為が、世界中の者たちの感動を誘い、世界中の人々を神のもとに立ち戻らせ愛というものが何なのか。
神の使者というものは現実にいるのだと、この地上にいるのだという深い感動を与え、世界中の人々を動かしたんじゃないのかい?

行いがあってこその愛の使行、神の使者だということ。
理屈を言うだけなら、いくらでも言えます。
それは、僕自身が愛を、法を語ったのに、それを実際に具現化する、具体的なことを社会に広める時間がなかったから、教えだけでしか残らなかったーー。
教えを具体化できる弟子たちに期待をしたけれど、それが具体化しなかったから、高橋信次なんて何を伝えたのかとーー。
闇に葬られようとしている。
そういう状況になってしまった。

教えの内容は、はっきり言って恥ずかしいものではないと思ってるよ。
僕の残した教えは恥ずかしいものだとは思ってない。
十分、根本法として通用すると思ってる。
でも、それがほんとうの意味で、生き様の中で、人類にその後ろ姿をもって伝えられていかなかったら、どれだけ九次元の根本法が地上に降りたとしても、少しもそれは世の中に広まっていかないということだよ。

マザー・テレサは、九次元の根本法なんてなんにも知らなかった。
単なるカトリックの修道女、一修道者にすぎなかったけど、全身全霊をもって、愛の行いの中に人生を生き、捧げ尽くした。
その姿をもって、神の懐の中に戻っていけたし、神のお姿そのものをこの地上にあらわすことができた。
まさに愛の通路として、愛のチャネラーとして、神様の愛の道具として、地上に降り立った光の天使として、彼女は存在しえたということ。

「愛の通路となりなさい。愛の道具となりなさい」とアモールが言いました。
その姿を、あなた方一人ひとりがやったら、ここに、何人のマザー・テレサが誕生すると思う?
その、あなた方の神の子としての本来の神性に火をつけるために、我々はこうやって地上に降りてきて、あなた方に直に話をしている。
九次元の話を、直で毎回聴ける者はいないけれど、天上界においてもあまりいないけれども、それでも、僕たちは話をしている。

あなた方が肉体を持っているということは、それはある意味で、半分、目が見えないのと同じ状態であるけれど、そのうえであえて肉体を持ち、これだけの覚悟で、レムリアに集まっているということをもって、あなた方に第二第三のマザー・テレサになってほしいと、そう心から願うから、こうやって、毎回出てきてるんです。

いいですか。
愛というのはーー、自分の身近にいる者をほんとうに愛しえたときに、愛のほんとうの意味を知るんだ。
だから、愛を単なる空理空論のものとして、言葉だけ、便宜的に使ってはいけないよ。

8.自分を滅して他者を愛し抜く、そのトータルな献身的な姿を愛という

まず、身近な者をほんとうに愛する。
そして、愛溢れる仕事をする。
愛溢れる使命を果たす。
その日常の行為、人生のさまざまな行為の連続の中に、最終的に、愛の通路として、愛のチャネラーとして、いいかい。
愛の道具として花開くときがくる。
そのときこそ、あなた方の小宇宙が、あなた方の神の子としてのーー、みんな神の似姿につくられている、ひとつの宇宙だと思いなさい。
「あなた方の体こそが神殿である」ということをアモールはおっしゃった。

あなた方を、ひとつの小宇宙と呼ぼう。
神の姿の宇宙が、そのままにあなた方の肉体を通してあると。
そこに、神の子としてのすばらしい愛の光が宿っている。
その光をビッグバンのように発信しなさい。

あなた方が、この地上に確かに生きたのだという証を、愛の爆発の中で、光を作裂させていきなさい。
そうすれば、必ずや多くの人々が、神の子としての光に、爆発した愛の光の衝撃によって、自らの神性に気づいていくことでしょう。
その神性に気づかせていくということが、光の使者、神仏の使者の仕事なのです。

この人(アマーリエ)が「私は、多少治せても、病人の治療とか、ほかのチャネラーみたいな仕事ですね、よくテレビとかで出ている、ああいうものに興味がない」って言う。
好きじゃないとーー。
これが神仏の使者の証です。

神仏の使者は、この地上に神仏の教えを伝えることをもって、使者としての仕事をなすのです。
だから、病気治療や加持祈祷、悪霊はずし、そのようなものは、神の理念を伝える者とは、また違う立場にいるわけです。

この人も混同していて、意味がわからないようなので、はっきり言っておきます。
あなた方は病気治しや、悪霊取りをするためにきたんじやない。
我々の言葉を教えとして、神仏の愛の理念を伝えるためのメッセンジャーとして、この地上にきたのだと思いなさい。
そのためにレムリアの仕事はあるのです。

だから他の、ヒーリングは多少やることはあっても、ほかの、霊言を伝えている団体の中にも、ヒーリングなどをひどく嫌がって、神仏の言葉だけを、チャネリングだけを優先して、伝えているところもあるでしょう。
ですから、キリスト教系のシルバー・バーチとか、あるはずですよ。
レムリアは、天上界の計画を地上に降ろすため、神仏の、僕たちの言葉を、教えを降ろす出先機関であるということ。
その期待を担っている、神仏の使者の中で、最も尊い位置にあると思いなさい。

法を管理している場所だからね。
宇宙の法を降ろしている場所であるということです。
そのことは、病気治療や他の霊媒がやっているような、悪霊はずしなんていうのとはまったく次元が違うということ。
高級な理念を理解する、認識力のあるあなた方のところにしか、法は降りないということです。
認識力がなければ、「豚に真珠」になってしまう。

僕たちが語る愛の摂理、愛の教えが、あなた方の心に深く染み通っていく。
それだけの準備期間を、あなた方は、人生の中でつちかってきた。
だからわかるのです。

何も準備のない者に、この教えを言ったとしても響かないでしょう。
それは、あなた方の人生、一コマ、一コマを誠実に生きてきた、その証である。
ある意味で、この状態にいるというのはご褒美なんですよ。
そう思ってください。

いちばん大事なことは、神の基本理念を、法を、地上の者たちに伝えられること。
そして次は、地上に降りた法を、地上の人たちに、具体的な行動として、日常の中に表現して見せることです。
表現なしの愛など何の意味もない。
愛の言葉など意味がない。

愛とは、自分を滅して他者を愛し抜く、トータルな献身的な姿にあるのです。
その姿をもって愛というのです。
我が身かわいいと思っている気持ちがある以上は、まだまだ、だめなのです。
愛の姿がほんとうにわかったとき、その人は、ひとつの宇宙として、ひとつの神殿として、光り輝いた神の化身として地上に降り立つのです。
それを、マザー・テレサが見せてくれた。

マザー・テレサと同じことをやれとは言いません。
マザーはマザーのやりかたでおやりになったのです。
あなた方も、あなた方の姿を、あなた方の意志と心からの思いで、ご自分の個性を通して、光の使者として最大限に光り輝きなさい。

9.生きている限り、愛を表現する者であること

結果はいいんです。
生きているうちの評価などどうでもいい。
それは、時間の流れの中で、振り返って言われることでしょう。
人の評価など気にしなくていいのです。
己の良心、神の子としての神性に照らし合わせて悔いがないか。
自分自身に悔いのない一生であったか。
愛を生きることができたか。

そこをもって、神の子としての修行の集大成が行われるのです。
いいですか。
今回のテストは、今世の修行は、集大成なのです。
トータルな意味で、愛を学ぶ最終的試験であるということ。
試験っていうと、また帰りたくなくなっちゃうかも知れないけども、それは別な意味でね、あなた方自身が、自分に課してきた課題だということだよ。

この地上で流されて終わるか。
自分のカルマの癖で、理念だけで終わってしまうか。
それとも、地上に、三次元に降りたのだから、「努力して、人生光り輝かせていきます。
救世運動の中、大いなる活躍をします。」と、約束して出てきているーー。
誓った内容をなせるかということ。
そのことが問われている。

いいかい。
この今、語っているときから、今日から、一日も無駄にしないこと。
生きている限り、愛を表現する者であること。
愛すること。
愛というのは理屈ではない。
自分の愛する者を、トータルに、いいところも悪いところも含めて受け入れて、愛し抜く。
これが愛の基本です。

それがわかったのならね、他の人類、他の国の人、他の人種、身分が違おうと、宗教が違おうと、文化が違おうと、あらゆる人たちに対して、トータルにありのまま相手を受け入れ、愛するということを学ぶことができるでしょう。

それを学ぶのが愛なのです。
それが人類にできていなかった。
それを学ぶ段階にきたのです。
ありのままに受け入れて、ありのままに愛し返していくということ。
相手を生かすためにがんばる。
それを愛の摂理というのです。

そうやって、あなた方は大宇宙の神に生かされているのですよ。
そうやって、僕たち天上界の者たちに指導されてきたということ。

あなた方の中から、七次元、八次元と上り、九次元が出ることを期待しています。
この理念の中で無限の努力を積み重ねていくうちに、地球系の九次元が出てくるのもそう遠くないと思っている。
九次元がどんどん誕生してる星もあるんだよ。

でもあなた方は、まだーー。地球系で九次元まで行った者はないからね。
九次元の者が出てほしいなあと、僕たちは思っている。
九次元になるのは、そんな難しいことじゃないんだ。
愛をちゃんと学んだなら、地上で実現することができて、無限の愛を持つ、無限の愛と赦しを持てること。
それが、究極の神に至る道であるということ。

ただ、それを知って、行える者であるという、それだけなんだよ。
専門的なことを何でもかんでも知っているかというと、そういうわけではない。

10.愛とは、裁かず、無限に赦しの中で、受け入れていくということ

愛が無限の赦しであるということ。
そして、無限に生かす愛であるということ。
それを理念だけではなくて、実生活の中で行うことができ、生き様としてあらわすことができる、そうなったときに我々から見たら、ルシフェル、サタンを赦せないなんてことはない。

彼もほんとうに、いたずらな、いたずらっ子ないとしい息子でしかないんだよ。
私から見たら、いとしい、いとしい息子。
他の九次元から見てもそうかもしれない。
僕にとっては、特にそういうところがある。

いちばん出来が良くて、いちばんきかん気があって、美しい、優秀な息子だった。
その息子が、父親に刃向かっている。だからといって、刃向かって、姿を変えてるからといって、父親が息子を切り捨てるかい?

そんなことはないだろう。
神が永遠の命を与えてくれた以上、私は彼が来るのを待っている。
もう一度父親と呼んでくれて、手を取り合って、彼といっしょに歩んでいける日を待っている。

ミカエルも待っている。
みんな待っている。
誰も彼を裁かない。
彼がやっていることも人類にとって、私たちにとって、大いなる学びであると思っている。
そういうふうに、彼を見守っている。
エル・ランティの意識として、彼を見守っている。
そういうところがあります。
誰も、彼を悪だと決めつけ、悪を赦さないとか、そういうふうには思わない。

彼が撹乱しているせいで、ひじょうな迷惑をかけているのはわかるけれども、でも、そこから学んでいくのも、人類の英知の、ひとつのあらわれかもしれぬ。
彼によって撹乱されてしまうということは、ほんとうの意味での神理、愛、法が根づいていないということだから。
そう、僕は思う。

「彼自体のことも、ある意味で、すばらしい教材である」と、マヌ様がおっしゃった。
私もそのように思う。
そのように、他の九次元の方がたから見てもらえることをとても喜んでいるし、もともと私か連れてきた者だから、責任も感じるけれど、彼のことを、このようなことになってしまったゆえに、深い愛の思いで彼を見守って、待って、受け入れていきたいという思いーー、それは、前以上に深いものとして、彼に対しての愛が強くなっているのだと思う。

だから彼を裁くことなくーー、裁くことはたやすい。
裁くことは何の意味もなさない。
逆に、彼がいてくれたおかげで、私も、愛が何であるかということを深く学ぶことができた。
今回の件で、エル・カンタラーも、愛が何であるかということを深く学ばれることでしょう。

だから、この失敗は、一見、あなた方の世界から見たら、不手際と思われることかもしれない。
でも、永遠から見たなら、それも、魂の修行の段階であったということ。
ほんとうに学んでいたのなら、たとえば、あなた方がほんとうの意味で、高校生になっていたなら、掛け算、九九を間違えろと言っても、間違えられないでしょう。

でも間違えちゃうということは、それは、まだーー、掛け算は、―の段から言っても九の段から言っても、ひっくり返しても言えるように、みんなやるじゃない。
2年生に習うっていっても、3年生、4年生だとまだときどき間違えちゃうかもしれないけれど、中学生、高校生、大学生になって「九九を間違えろ」って、言うほうが無理だよっていうぐらいに、こなれてくるでしょ。
それと同じだと思う。

ルシファーが、ルシフェルが、多少のことを言っても、そのトリックにかかって、人類が文明を失敗してしまうのならば、ほんとうの意味では習熟していなかったということでしょう。
だから、「失敗したら、復習しよう」と、何度でも復習してきたのが人類の文明なんです。
、でも、やっぱりいつまでも小学校にいてもしょうがないよ、中学校に行こうというのがーー、次はもっと、ピタゴラスの定理や二次関数、そういう、もうちょっと学問らしいものにいこうよと、九九は卒業しようと、そういう状況かもしれない。

だから、サタンが悪いとか、地獄霊が悪いって、エネルギー的にも引っ張られちゃうところはあるけれど、彼らを責めるのではない。
彼らが、自分の足腰を鍛えてくれるのだと思いなさい。
自分自身が学習していなかったところを気づかせて、学ばせてくれてると、足腰を強くしてくれるんだと思って、彼らを愛の思いで赦してあげて、彼らが愛の中に、光の天使として戻ってきてくれるときを待とうじゃないか。
それが、一切裁かずに、無限に赦しの中で受け入れていくということ。
受容するという、本来の神の大愛、自分たちが光の子として輝く道なんだよ。

けっして人を裁いてはいけない。
裁いたら、さばいた物差しで自分が裁かれると、イエス様もおっしゃっている。
裁くのでなく、彼らの苦しみを、彼らの位置を、彼らの状況をほんとうに理解して、赦して待つということ。

彼らの姿が見えたなら、もう二度と、あなた方は彼らのトリックに引っかからないでしょう。
それがわかるくらい学びなさいということなんだ。
それができれば、ルシファーたちのやることは終わっていく。

彼らも、反抗に使えるのは、ほんの一部の者だけであるということを学んでいくだろう。
多くの人々が彼らのトリックに惑わされなくなれば、彼らもエネルギーを失って、本来の姿に戻れるようになる。
そのことを私は思っています。

11.思いからすべてがはじまる

彼ら地獄界に、無限のエネルギーを供給している人類がいる限り、彼ら自体が悟ることは遅れてしまう。
人類一人ひとりが理解して、彼らに撹乱されず、地獄にエネルギーを送らなくなったときこそ、神の子として、みんなで上がっていけるんです。
この地上を浄化できる。
それをもって仏国土ユートピアが実現するということ。

だから私は生前、「人の心というのは、エネルギーに満ちている。人びとの心がすべてをつくっていくのだよ」ということを言いました。
思いからすべてが発する。
思いを愛のチャンネルに変えていかなければ、この地上の闇は、地上の闘争と殺戮の歴史は永遠になくならないのです。

個人個人の思いを、愛の思いに、覚悟を決めることから、すべての人類全体を変えていく、大ルネッサンス運動がはじまっていく。
だから、九次元から根本理念を、愛を中心に降ろしているんです。
九次元が、たとえどんな九次元が出ようとも、基本的に、伝えることはそれに尽きるのです。
その教えが、人生の中に、さまざまに応用されていくだけです。
それを今、伝えている。

七次元の卑弥呼、日向さまもお話ししてた。
尊い教えだと思います。
私たちは、九次元だから偉いなんて思っていない、九次元だからって上でふんぞり返ってるわけじゃない。
彼女たちも、七次元だから低いなんて思っていない。
彼女たちには彼女たちの誇りがあります。
七次元として生き抜かれた誇りをもって、同等にお話する。
私たちは、彼女たちに対して、敬意を払って礼を尽くすのです。
彼女たちに対して頭を下げ、彼女たちの、神仏の使者としての仕事のすばらしさに、神の姿を見るのです。
それは九次元であれ、七次元であれ、八次元であれ、六次元であれ、何ら変わりはないのです。

ですから、縦のピラミッド構造で、上が下を見下しているような、そのような思いは天上界にはない。
それどころか、上に行けば行くほど、我が身の小ささを、自分のエネルギーの至らなさを感じるのです。

そう考えれば、自分の中で手かせ足かせになっていたものが、すべて外されていきます。
すべてがなくなったときに、自由になってくる。

12.愛はどこまでも無限に広がっていく

上に行けば行くほど、何も持たないありのままの姿で、神の愛の通路として、愛の表現体としてだけ、存在するようになるのです。

そうなってきたときに、ほんとうの意味で自己限定がなくなる。
自由になるということです。
その姿が自由なのです。
愛の創造原理、宇宙の創造原理はとても自由なのです。
惑星意識になられた方は、ご自分たちの愛の表現形としての惑星、修行場としての、表現としての自由意志を与えられるのです。

惑星意識は、陰陽合体の中のエネルギーにおいてひとつの惑星を育むという、使命を与えられるのです。
私たちのさらに上の、惑星意識になられた方ですよ。
その方には、惑星を修行場とするために、自由意志が絶対的に与えられるのです。
自分の身を犠牲にしているように思われるけれど、それは、私たちが犠牲という言葉を使うだけであって、ご本人は、喜んで自分の体を、自分のエネルギーを捧げるんです。

その中において、神は最大の芸術家と言いますがーー、惑星意識になられた大霊が、どのような思いで、愛の修行場として、自分の惑星をつくっていくか、役割を果たそうとするか。
それは、役割において、大いなる自由意志で、惑星に生まれる万象万物の母となり、父となるエネルギーになるということです。
それはすごく大きな自由意志で、自由の発散であり、クリエイティブな、創造的なエネルギーの表現となるわけです。

だから、九次元よりも上に、惑星意識があって、愛の思いを、自分で表現していこうという、私たちのさらに上の修行があるのです。
上に行けば行くほど、全犠牲的になって、献身的になるから、犠牲が多いから不自由で、すごく大変だなあと思う、それは、あなた方の考え違いです。

自身が、愛の表現として、愛の光としてーー、自分の思いを、物質世界の中に、大宇宙の中に、表現形としてあらわす惑星の意識ーー、惑星はたくさんあります。
恒星も、彗星も、いろんな星がある。
あなた方の知らない星がたくさんある。
そこであなた方の考えもしない文明が興っている。

それが、神に自由意志を託された、創造原理に基づいているものなのです。
すべてが、愛の根本的な理念に支えられていることを、あなた方は知らなくてはいけない。
上に行けば行くほど、自由意志は無限に広がっているということ。

そして、創造性、愛の表現形として、大いなる力を与えられていく。
それが権威づけのものでなく、支配的なものでなく、ただ愛として存在するという、あなた方の聴いている「存在の愛」というものの中で、万象万物を育み、そこに、惑星意識の大霊の個性があるのです。

みんな個性がある。
ほんとうに神はいろんな光をおつくりになったと思う。
そのくらい多様な惑星が生まれてきます。

そこに、惑星意識の大霊、恒星意識の大霊が、自分を表現していくのです。
大宇宙の中に少しもゆがみのない、大調和の姿です。
愛の表現形として、精一杯表現すればするほど、交響楽、シンフォニーのように、ますます光り輝いていく。
それはけっして不調和なものではない。

一部が全体の中で愛を表現するとき、それはけっして、全体を阻害するものではない。
愛の思いの中、神の子として、神のために生きようとする、献身的に生きようとする。
最大限の受身、最大限の献身の姿が、最大限の能動的な姿となってくるのです。
個性が発現するエネルギーとして光り輝くのです。

恒星意識と呼ばれている方の場合は、自分だけではなく、それが照らすあらゆる惑星を生かそうとする、大きな愛になるのです。
愛はどこまでも無限に広がっていく。
愛の認識という壁を取り払いなさい。
愛はどこまでも無限に広がっていく。
どこまでも愛し続けることができる。
あなた方が考えている以上の、大いなる愛が広がっている。
それは受け入れられるか、受け入れられぬかということ。

自分で壁をつくり、自己限定し、認識力に柵をつくってしまったら、愛するものを受け入れることにすら限定ができてしまう。
その柵を取り除きなさい。
大宇宙のすべてが神の子であると、受け入れていったとき、すべてを受け入れるエネルギーが、自分の中に見方として入ってくる。
それを、自分という通路を通して発現させる。
それが、大いなる大霊に近づいていく悟りの道です。
それが愛の原理なのです。

愛の表現形というのはそういうことをいう。
単なる道具として、ひとつの通路になるだけではない。
大いなる愛を、無限の愛を、あなた方の意識の中で広げていくとき、それは、無限の赦しの姿であるということ。
赦しの中で、無限の愛を生かす姿になっていく。
それを受け入れていくのです。
最後に、最大限の感謝という思いが出たとき、あなた方の通路を通して作裂するのです。
それが愛の表現形の姿なのです。

イエス様がおっしゃった話を、もうちょっと、大宇宙の根本原理にもっていくとそこに行きつくのです。
どんどん広げていけば、以後、惑星意識、衛星意識に、さらに、恒星意識になっていく。
自ら光を輝かせていく。
愛の純度、大きさ、広がりが、どんどん万象万物を生かしたいという思い、そこまで広がっていったとき、恒星意識になるということです。

九次元ごときは、まだまだ、愛を学ぶにはまだまたたなあと、そのように思いながらも、愛というものを地上にいる者たちに少しでも伝えたいと、そういうーー、まだちょっと執着がありますから、そのようなことが私は好きですから、地上にいる人類のために、あっちの星に行ったり、こっちの星に行ったりしながら神の愛の思いというものを伝えていく。
それが、私の役割でもあります。
でもいつか、私も、惑星意識、恒星意識になりながら、愛というものを表現したいなと思っています。

13.愛の中に条件づけをしないということ

でもそれは、私たちだけの特権的なものではなく、あなた方すべてが、惑星意識になりうるんです。
ときの流れの中、精進していくなら、遅かれ旱かれ、その道は開かれていくとーー。
自由になる道だよとーー。
あなた方は、自らが、こうならなくては幸せになれないんじゃないかーー。
社会的地位がなければ、お金がなくてはーー、いいですか、結婚しなくては、子どもがいなくては幸せになれないと、己に限定をして不幸の種をつくっている。
でも違うよ。
もっと自由なものなんだよ。

愛し合って、今の生活に感謝して、神様の仕事を精一杯やって、神の愛の通路として光り輝くのなら、気づいたら、こんなにも自分は自由だったーー。

自己限定をなくすこと。
それを別の言葉で言うと、執着を外すといいます。
宗教なら執着を取るといいます。
それが悟りの段階として、仏教の中で特に言われてきた。
でもそれは違う。

愛という柵、垣根を取り払いなさい。
こうならなくては幸せになれない、病気だったら不幸だという。
そうですか?
病気になったから、過去世の因縁を晴らせるんでしょう?

肉体に感謝しましょう。
病と闘わなくていい。
病とともに生きることで、成功をおさめるのだと発想できたら、けっして不幸ではないでしょう。
悲しみでもないでしょう。
そういう思いを自分の中で学ぶことです。

愛の中に条件づけをしないということ。
「もし何々だったらーー」
これはサタンの言葉と言われています。
もしこうだったら、もっと幸せだったのに。
そう言って、今の不幸の中にうずくまっている。
言い訳をして、努力をしない。
これがサタンの原理といわれている。

私たちの世界での言葉があるけれど、わかるでしょう。
「もし」をつけない。
今、あるがままにあることを感謝しなさい。
あるがままあるということが、愛の姿そのものであるということ。
それ以上愛豊かに生きるには何がなしえるかと考えなさい。

すべてのものに感謝し、受け入れて、次なる愛を生み出す通路となる。
循環の過程の中に自らの人生を投げ込んでいく。
それを広げていったときに、愛する枠をどんどん広げていったとき、あなた方は、もっともっと深い愛の中で大いなる自由を勝ち得て、そしてあなた方自身の愛も、無限大に広がっていくのです。
そのような意識になれば、地球系の、九次元でも何でも出てくるでしょう。

地球をそのような星にしたいから、そのような思いにしたいから、今回の救世の大運動があるということ。
あなた方はそれを伝えていかねばなりません。
それを伝えるのが、本来の救世主の役割でした。
伝えていきなさい。

今、レムリアにこのような霊言が降りているということを。
ぜひとも伝えて、公開していってほしい。
次の時代を担う者たちとともに、手を取り合って、この地球に、地上に広めていっていただきたい。

そうすれば必ずや、新たな世紀がーー。
救世主がいなくても、地上の者たちが力を合わせれば、救世主以上の仕事がなしえたと、そう言える時代が必ず来るでしょう。
そのようにして、レベルアップしている星もあるのです。
救世主ひとりに頼ることはない。

14.何がゴールであるかを、しっかり認識する

ただ、根本法に関してだけは、救世主界のほうから降ろしています。
それを受け入れること、地上に降ろすことができるようになっている。
今、この奇跡があるということは、地上に救世主がいるのとほとんど変わらない。
あなた方がみなで手を取り合って、リーダーシップを取ればいいのです。
救世主だけがすべてをつくったのではない。

イエス・キリストが三年半語られた、そのあとは、十二弟子の献身的な伝道作業があったから、イエス様の三年半の教えが、世界中に広まっていったのでしょう。
だから、根本法が降りた後は、あとは地上の天使たちの、献身的な、命がけの努力があるかどうかということなのです。

ぜひ、この地上に献身的な姿で伝えてください。
愛の根本原理を伝えていただきたい。
そうすれば、この救世運動は成功するでしょう。
私たちはそれを心から願っている。
最終的にはそこのゴールに行くということを思いなさい。
G会だのK会だの、そんなものは、そのうち消えていくものです。

最終的にレムリアが行き着こうとしているところ、そのゴールを、しっかり見据えなさい。
ゴールをしっかり見据えれば、今のプロセスにおける、種々雑多なあぶくのようなものは、いずれ消えて流れていくものだという、達観した見方ができるようになります。
そのような、大局的なものの見方、それも愛と同じで、大局的なものの見方が、上の次元の者の、物の見方だと思う。

小さなことに右往左往しない、大局的なーー、それには何がゴールであるかということをしっかり認識することが不可欠でしょう。
ゴールがわからなくては、大局的なものの見方はできないと思う。
だから、あなた方は、大局的なものの見方をしていただきたい。
私たちと同じ視点に立っていただくということ。
そのことをお願いしたい。

15.三次元を縁とした、天上界、地獄界同時進行の大救世計画

このように九次元から話が出ている、ここを中心にして、すり鉢状に、天上界に広がっています。
そして、ここから下のほうにも、ずっと地獄界にも通じているのです。
この地上、三次元を縁にして、天上界にも、地獄界の方にもこの話は流れている。
救われたいと思う地獄の者たち、そして天上界の中でも、このような話を聞けない者たち、その者たちが耳を澄まして、群集のように集まってこの話を聴いている。
毎週毎週、どのような話をするのか聴いて、学んでいこうとしている。

地獄にいる者たちもこの話を聴いて、心ある者は、自分自身の至らなさ、なにゆえに間違っていったかを、ひとりで学ぼうとしている。
地上の磁場、この場所を通して、天上界から降りている霊言を通して、天上界にいる者たちの大いなる学びと、地下にいる者たちの大救済計画というものが同時進行で進んでいる。
それを理解してほしい。

自分たちが、ただ霊言を聴いているという、それだけのマニアックな喜びに浸っているのではなくて、あなた方がここにいることで、天上界も地獄界でも、救済運動をしていると、その現場にいると、そういう磁場をつくっているのだということ。
そういうことを、どうかわきまえていただきたい。
そのように使命を果たしていただきたい。

ただ聴いているだけで何もしないというのではなくーー、これだけのエネルギーを下に降ろすには、エネルギーに耐えうるだけの磁場が必要なのです。
だから「十二人集めなさい」と言っていたのも、地上にこれだけのエネルギーを降ろすには、それだけの人数が必要だったということなのです。

今、法を聴いている者たちの思い、本来は、地上に生まれてきたかったけど生まれられなかった、日本に生まれてこられなかった者たちの思いまで含めて、あなた方は、この地上で、代表者として聴いているということ。
聴くことで、言葉を地上に降ろしているのです。

九次元から三次元からまで降ろしてくれば、途中の界の者たちはみんな聴けるのです。
九次元が八次元に行って、話をすることはあります。
七次元に行って、話すこともあります。
でも、六次元、五次元に出てきて話をすることは、ほとんどない。
私たちの姿も、名前すら知らぬ者が多い。
六次元、五次元を越して、三次元にダイレクトに話を降ろすということは、途中の界の者たちはみんな聴けるということです。

三次元にいちばん近い地獄界の者たちは、三次元を縁として、その光、その話に触れるチャンスがある。
だからこそ、三次元を通して、大救世運動が計画されるのです。
三次元に、九次元がどんどん降りて、根本法を、救済の法を降ろした。
G会のときにも降ろした。
O・R氏が降りて、仏陀自らが降りて、九次元の法を伝えた。
それがどんな意味を持つのか、あなた方はまだわかっていなかったと思う。

これは、地球の表面にいる、人類だけをターゲットにしたものではなくて、三次元を縁にして、天上界全体、地獄界全体の救済にまで向けて、ふだん語りきれない、伝えることのできない階層の人たちに対しても、根本法を伝える、愛の教えを伝えていくーー。
そのような地上のえにし、縁を通して、我々は、三次元に、定期的に救済運動をするのです。

今回は、それの集大成である。地球系の神理の集大成であるということ。
その救世運動のクライマックスに、あなた方はいる。
このあとどうなるか。
私たちも努力をし、あなた方も最大限の努力をしていけば、必ずや、宇宙の神の愛の思いに通じて、地球はすばらしい愛の星に生まれ変わる、地球ルネッサンスに至ると、私は心から信じているから、私たちはこのように努力しているのです。
あなた方もそう思って、この仕事をやっていただきたいと思う。

けっして軽んじて、慣れてしまわないように。
この間も言われていましたね。
霊言を受けることが、おもしろいもの見たさになっていくような、そんな思いであってはいけない。
一回一回、天上界で学べない者たち、地下にいる者たちに対しての学び、私たちの言葉よ届けと、そいう思いで、この場に集ってほしいのです。

私たちの言葉を届けるメッセンジャーであっていただきたい。
それが、光の使者として、神仏の使者としての仕事です。
そのために生涯を捧げてほしい。
けっして無意味な仕事ではないと思う。
あなた方は今回の転生を誇れる、そのような時代が必ず来ると思う。
魂の中にも、そのような歴史を残せると信じるから、ぜひとも、あなた方の力をお借りしたいのです。
今日、聴いた話の思いを、どうか伝えてください。

インターネットを縁にして、本を出すことを縁にして、我々の言葉を聴く者も多くなることでしょう。
そうやって、私たちの言葉が広がっていく。
それを、受け入れるか受け入れないかは、その者たちの自由意思です。
しかし、知ることがなければ、触れることがなければ、気づくきっかけもなかったことになってしまう。

五次元、六次元の者たちは、わたしたちの根本法を聴く機会はほとんどありません。
聴けないのです。
光が強すぎて、九次元は彼らの世界に行くことができない。
日蓮あたりが一生懸命、光を落としながら行ったり、七次元の者たちが一生懸命行く。
それですら、目がくらんで話が聞けないのです。
九次元の言葉を何度でも聴くことができる。
それは、肉体を持った者だからこそ耐えられるということなのです。
そう思って、私たちの言葉を受け入れることを厭わず、話を伝えていただきたいと思います。

ちょっと長くなりましたけれど、気持ちは伝わったでしょうか。
すべての疑問には答えられなかったかもしれませんけど、今日はこれにて失礼します。
ありがとうございました。

bottom of page