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Project Eden

第6章 神と愛

1.すべてが神の子なのです

2.すべては愛によって生かされている

3.神の「思い」

4.愛とは赦しなのです

5.ときは無限にあるのです

6.魂は永遠なのです

7.愛は循環する

8.愛の姿そのものが神の子そのものの姿である

9.地球を愛の星にしていきたい

10.愛というのは分かち合いなのです

11.愛と感謝をこめて

12.自らも愛の通路となりなさい

13.神の叡智は無限

14.愛を与えきる

アモール(イエス・キリスト)

アモール(AMOR)とは愛を意味する。
今から約四億年前、愛というものを説くために、射手座の方向にある惑星より地球に招霊された九次元霊である。
二千年前、イエス・キリストとしてイスラエルの地に肉体をもち、愛の教えを説いたことで知られる。
アトランティス時代には、アガシャーという名の指導者として、愛を中心とする教えを説いた。
天上界では、白色光線(愛)を担当し、さまざまな指導方針を決定する役割を担っている。

1.すべてが神の子なのです

アモールです。今日は、みなさま方の前で、再び霊言を送ることができますことを、心より神に感謝申し上げます。いくつか質問がおありのようでしたので、わたくしがお伝えしたいこととまた別に、最初にお答えしておこうかと思います。

聖書にあった言葉についてですが、そのことは、これから話す内容ともひじょうに深く関連していることのように思います。

これからわたくしが話すことは、わたくしたちはみんな神の子であり、神の子であるのは、人間であるわたくしたちだけではない。動植物、地球という自然環境すべてが神の子であり、もっと広げていくなら、宇宙のすべての星々、星雲、大宇宙すべてが神の子であるということです。わたくしは今日、それを伝えたいと思ってきています。
それを、わたくしがいたナザレの時代、わたくしが叱りつけたから波が収まったとか、わたくしがいるのに、波が荒立つわけはないのではないか、と思われるかもしれませんが、そういうことは、わたくしをひじょうに買いかぶったものの言い方です。

わたくしたちは、一人ひとり、みんなつながった神の子です。神の子としての一体になって織り成す綾のように、ひとつの大きな絵巻物のように、大宇宙をつくりあげている、それが神の子たちの実態です。そうである以上、自然界においてー、自然界には精霊があります。海には海の、空には空の、そして山には山のー、そこに、自由意志をもって生き、己の魂を修行する、神の子たちがいるのです。

ですから、精霊たちの意志を無視して、わたくしがいるからといって、波が荒立たないなどということはありえないのです。海神の精霊によって海は荒立つもの。わたくしはあのとき神のメッセンジャーとして、多くの者たちに法を語り伝えようとしました。なぜ海に、船のほうに出たかというと、群集が押し寄せてきましたからー、ですから、わたくしは、距離をとるために船の中に入ったのです。そのとき、海がひじょうに荒れて、風も強かったので、「わたくしはこれから、神の使者としての話をしたい。だから波よ静まれ、風よ静まれ」と言ったのを憶えております。

でも、海には海の精霊が、風には風の精霊が自然界にはおりますから、彼らの意志により、吹かせていた波と風、そういうものがあったとしても、おかしいことではないと思います。 その場所を借りて、わたくしは、愛の言葉を、神々の言葉を、地上の神の子たちに伝えさせていただいたという、それだけのことだったのですから。

そのようにとらえていただければよろしいと思います。わたくしは当時、神の使者として、地上に神の言葉を伝える者としておりましたけれども、「神」ではございませんでしたし、あなた方と同じ「神の子」でしたから、神の子として、精一杯、神の使者としての使命を果たすために、多くの者たちに言葉を伝えていた者であると、そのような立場だったのです。よろしいでしょうか。

2.すべては愛によって生かされている

わたくしは、「アモール」(AMOR)という名前を神より授かっております。これは「愛」を意味します。あなた方の中で、愛ということは何であるか、長い歴史の中で問われてきたことでしょう。でも「アモール」というのは単なる恋愛や、家族愛というものではなく、今日ここで言われておりますように、愛、アモールの本質とは、宇宙を統べる神の本質そのものなのです。

愛というのは何であるか。それは、宇宙を貫く根本的なエネルギーです。神が、宇宙の中で壮大な摂理として行われている、法則そのものを言うのです。

多くの人々を、ただ無償の姿で、あるがままに受け入れ、相手を生かそうとするエネルギー、それを「愛」というのです。そのエネルギーが、宇宙に満ちています。

個人的な、家族的な、地域社会の中の愛を、わたくしたちは初歩的段階として学んできました。でも、ミクロ的な部分からマクロ的な部分に進むなら、我々太陽系だけでなく、銀河系、小宇宙、大宇宙という、大いなる神の体、その表現体として大宇宙が存在する、その根本原理に愛のエネルギーというものがあり、この宇宙の隅から隅まで内在し、生かしめている力であるということなのです。

そこで神は、あなた方が気づくはるか昔より、宇宙の中で、地球に対して恒星という太陽をもたらし、太陽の恵みをあなた方の地上に与え、酸素や、オゾン層をもって、人類を、生物を、神の子を守ってこられたのではないでしょうか。これは、ほかの宇宙においてもそうなのです。

そして、それに今、わたくしたちがやっと気づいて、生かされているということに気づきましたが、何億年も昔から、神はただ無私に、愛ひとすじに、見返りを求めず、無心のエネルギーで、大宇宙の生きとし生けるもの、神の子たちを育んでこられた。これが神のお心そのものであり、神の摂理なのです。

あなた方は、愛について、見返りを求めたときに愛は死ぬということを学んでいますね。愛というものは、ただ相手のあるがままを受け入れ、無心に与える一方になって、与え続けていくものです。そこに、愛の本質がある。そのことを、大宇宙の創造原理を通し、この宇宙の中において、神は表現されているのです。

もし、この地上から太陽がなくなったら、と考えてください。あっという間に人類は凍え死んでしまうでしょう。酸素がなくなってみたら、と考えてください。あなた方は10分と生き続けることはできないでしょう。オゾン層が破壊されたら、あなた方は紫外線にさらされ、いろいろな宇宙線の影響で、あっという間に死んでしまうことでしょう。あなた方がそのことに気づくはるか昔より、神は語らず、無心に愛を与えあなた方を生かしむために、愛のエネルギーであなた方を守り続け、育んでこられたのです。

これが愛の根本原理です。愛というのはそういうものです。それを、神が、宇宙というこのお体を通して教えくださっている。

3.神の「思い」

最初に「思い」がありました。
神の、ご自分の愛の表現としての地上を、宇宙を創造される、最初の「思い」がありました。最初に言葉ありき、最初に「思いありき」なのです。

その「思い」で、ご自分の愛の表現形としてのこの大宇宙を、ビッグバンとともに創造されたのです。だから、その愛を「宇宙」と申しますし神は最大の芸術家であるとも言われるのです。愛の中から、この宇宙すべてが生まれているのです。

隅から隅までの星々、恒星、衛星、星の上に息づくすべての動植物、鉱物に至るまで、すべてが、神の愛の摂理と、愛の思いで生まれた、神の子たちなのです。愛の思いをこめて、神はすべてを創造されました。それを育み、保持し、生かすために、それに気づこうと気づくまいと、愛を注ぎ、すべての大宇宙を生かそうと、無償の愛ですべてを今日まで育んできたのです。

地上における、神の子たちの修行場として与えるため、地球も存在しております。そうなるように生まれたのです。神の叡智、摂理としてー「原因結果の法則」は、あなた方はもう知っているでしょう。自分がしたことは自分に戻ってくる、そういう摂理があります。そして「親和性の法則」があります。

同調するもの同士が引き寄せ合うという法則があります。そのような摂理の中、神の無限の愛が、この宇宙を隅から隅まで貰いている。わたくしたちを生かしているのは、神の大いなる慈愛の思いであるということ。愛のエネルギーであるということ。そのことを学ぶ時期がきたのです。

地球は、神の子のひとつの惑星として誕生しました。その使命を持たされて、この宇宙に存在しています。わたくしたちは、さまざまな未熟な段階で、自らが何であるかということを学ぶために、神の子としての意識を磨き、自らを神の通路として、神の表現形として発散するためにこの修行場を与えられたのです。

4.愛とは赦しなのです

愛とは何か。それは、古今東西数々の議論の中で聞かれてきました。ひじょうに幼い段階では、自らの家族、恋人、という、身内のことだけで凝り固まってきたかもしれません。しかし、本来わたくしたちはみんな、神の子です。

それを、はっきりと、高橋信次、エル・ランティという方を通して、言い渡されたのが、今回の大救世運動の口火でありました。

「神の子」です。「罪の子」とキリスト教では言われてきましたが、「罪の子」ではない。わたくしはそんなことを言った覚えはないのです。罪の子であるとは言っていない。「神の子」なのです。

「神の子」とは何を意味するか。それは「愛の子」ということ。
神の意識が愛そのものである以上、わたくしたちは愛の意識、愛のエネルギーの表現形なのです。自らに内在する神性を見つめ、自らの内を反省とともに開いていったなら、神の子としての、溢れるほどの愛が出てくるのです。そして、わたくしたちは大いなる神の愛の意識につながっていくのです。

どんなに自分がみすぼらしいと思っていても、自分は誇り高い神の子であるという意識に目覚めたとき、人は何に気づくでしょう。自分が神の愛の一部であったと気づいたとき、自然界も、憎しみ合う友人たちも、敵も、すべてが自分と同じ神の子である、一体であるという、その意識に気づくのです。

あなた方が敵だと思っていた人は、実はあなた方の兄弟である。あなた方が戦争を仕掛けていた相手は、あなた方と同じにつくられた兄弟であったということに気づく。そのためには、まず、己自身に内在する神の子としての神性に気づかねばなりません。

それを高橋信次は、エル・ランティは、はっきりとおっしゃられたのです。
「神の子である」「神の子であり、愛の子である」と。
愛とは何でしょう。愛とは「赦し」です。

自らのカルマや、他者のもつ罪、さまざまな苦しみそれをすべて赦して、無限に赦し続ける。その慈愛の思いが愛そのものです。愛そのものがあなた方、神の子です。
無限の愛の中に永遠を見る。それが神のお姿そのものであるということ。
それが宇宙の摂理であり、根本原理です。

あなた方は、今肉体の中にあって、傷つけられたら自らの肉体が危険だから、地位が、名誉が、立場が危ないと思うから、戦いをするのでしょう。何を守ろうとしているのでしょう。ほんとうの意味で魂が永遠であるということがわかれば、自らが愛そのものの化身であることがわかっていたなら、あなた方は、たとえどんなに傷つけられても、相手を赦し続けられるはずです。

愛とは赦しなのです。ですから、赦していって、最後、あなた方が究極に気づくことは、大いなるもののため、愛の摂理のために、自らを投げうち、神の愛の通路として、神の道具として神性をきらめかせようとーー。使命はそこにしかないと気づくこと。
それが、究極の愛の摂理であり、悟りの極致なのです。

わたくしは、それをあなた方に伝えるために、神より派遣された、アモールという愛の天使なのです。

愛は人を裁きません。自らも裁きません。あるがままに愛を受け入れ、愛し合っていく、それが愛です。条件付きのものは愛とは言わない。見返りを求めるものは愛ではない。

愛というものは、ただただ相手を受け入れ、相手を赦し、自分自身を受け入れ、あるがままに生かし、そしてともに進化成長し、無限の進化を遂げていこうとする、それが宇宙の根本原理であり、神のお心なのです。宇宙の創造原理は、その法則の中に貫かれているのです。あなた方はそれを知らねばなりません。

5.ときは無限にあるのです

わたくしのような者、高級霊と呼ばれている指導霊、救世主界にいる者を、「神」と呼んではなりません。わたくしたちも、また、無限の進化の過程にいる、自らも修行の過程にある神の子であり、修行の身なのです。それを理解したなら、自らの宗教の救世主のみを絶対視したり、宗教戦争で、地球上の神の子たちを排他的に傷つけ合うことは、二度となくなるでしょう。

そのような戦争は、愛の摂理、根本に反しています。愛の摂理に反するものは、宇宙の中に存在できないという原理があるのです。

あなた方自身の中に、赦し合い、愛し合い、生かし合い、分かち合う、そういう思いが出てこなければ、地球が存在することが、この文明が存在するということ自体が許されなくなる。それくらい、神の体である大宇宙に、愛の根本原理、摂理が行き渡っているということなのです。それを理解せねばなりません。そこがわかれば、あなた方が、隣人に対して、どのように接しなくてはいけないか、家族に対してどうしなければならないかが、わかってくるはずです。それは、各人が各人の環境で学び取ることです。だから、地球は修行場と呼ばれるのです。修行を堅苦しく考えてはいけません。

修行というのは、不本意な理由で、不本意な努力の中で苦しんだり、自分が望まない方向に努力を重ねることではありません。よろしいですか。あなた方は、みんな神の子なのですよ。神の子ということは愛をそのまま表現している愛でできているということです。愛の子、神の子が、本来の姿になっていく道、ただそれだけのことなのです。

自分を取り戻し、神から与えられた自らの個性で、愛を表現し、愛の通路となるため、愛の表現形となるために努力していく。それを、修行という言葉を使ってあらわしているだけなのです。

いいのです。わからなければ、ときは無限にあります。
自分に与えられた時間がわずかだと思うから、人々の心に焦りが生れる。愛とは忍耐であり、期間を限定してあなた方がカツカツすることではない。忍耐であるとは何か。わたくしたちも、永遠のときの中、人類を指導するために、数々の文明を興してきました。であるならば、あなた方も、もっともっと忍耐を学んでください。忍耐というと、苦しいことのように思われるかもしれない。違うのですよ。苦しいことではない。なぜならときは無限にあるからです。ときは永遠にあるからです。永遠のときの流れの中で、あなた方は生き続けていくのです。

ですから、今世だけを思うと、恨みも悲しみもあるかもしれません。それは、あなた方が一時的な条件を抱きしめすぎたーー、それは「執着」と呼ばれるかもしれない、抱きしめすぎた結果による苦しみなのです。人に殺されても、自分が悪いことをしていないなら、肉体を置いて、わたくしたちの世界に帰ってくればいい。それを地上では「死」といいます。

わたくしは、三年半しか法を説かなかった。いつの時代でも、生き長らえようとして、それほど命を長く持ったことはありません。なぜなら、地上にいるとき、わたくしは精一杯、使命を果たすためのみに、自らの生涯を使っているからです。肉体の幸福を追求することよりも、与えられた大いなる使命、果たせるかどうか自信がないくらいの使命の中にいたのです。

その使命を果たしたなら、売られ、十字架に架けられても、それも良しとしてーー。肉体を置いて、わたくしは、天上界の、仲間のいる世界に戻ってこようと思い、何の執着もなく、人生が短かったからといって、いたずらな悲しみを生むこともなく、喜びをもって天上界に帰ってくることができたのです。

あなた方も、そのことをぜひ考えてください。地上は一時のものです。実在界と呼ばれる天上界にこそ、あなた方の本体のエネルギーがあるのです。あなた方は永遠の時をそこで過ごすことができたにもかかわらず今回の救世の法が説かれるということで、ひじょうに倍率の高かったこの日本という場所に、この地上に自ら出たのです。

出た理由は何だったのでしょう。それは、この救世の法を通して、地上を愛の星として光らすための大実験場としての今回の機会に、ひとつの役割を果たしたいと、命がけで、この地上に出られたのではないでしょうか。人生八十年といいます。わたくしたちのときはもっともっと短かった。この地上に生きる長さの中で、葛藤の中で、苦しみを持つ必要はありません。やるべきことをやったなら帰っていらっしゃい。

6.魂は永遠なのです

あなた方が、失うことを怖れているものは何ですか。
地位ですか、名誉ですか、権威ですか、お金ですか、または家族ですか。家族であったとしても、あなた方が神の子として神性を開き、天命を全うして帰られたのならば、あとで家族が天上界に帰ってきたとき、「わたくしの父は、母は、このような神命の中においてよくやってくれた」「わたしの娘は、すばらしい思いでがんばってくれた」と、誇りに思われることでしょう。

地上だけの観点で考え過ぎるから、苦を抱きしめすぎるのです。悲しみをつくり過ぎるのです。仏陀は「生・老・病・死」と言われました。「生・老・病・死」の中で、病というのは何であるかと、もうレムリアでは言われているでしょう。

寿命、病は、病ということだけを言うなら、過去世での大量のカルマの清算という場合もあるでしょう。魂を穢したくないから早く帰ってきたい、と設定した場合は、何かしらの病を設定しなければ帰ってこられないので、病があるのです。

だからそのようにとらえたなら、病は別に何も怖がることではありません。必要以上に病むことはないのです。病を引き起こしている原因が、もし自らの心の中にあるのなら、その心を反省すればよいのです。そして、病はただひとつだけの原因によって、起こることではないことさえわかれば、病と闘うことなく、病と寄り添って生きていけばいいのです。

そして老いていくということ。いずれ、誰でもが実在界に帰ってくるのです。この地上の数十年の命がすべてだと思うからこそ、老いも苦しい。死も苦しいのです。病も、すべてを抱えて、苦の原因をつくってしまうのです。

でも、あなた方に言います。あなた方はすべて神の子です。永遠の命を持っています。苦しみを握りしめることなく、執着を捨てることにより苦しみの大半は消えていくのです。

握っているものは何ですか。怖れているものは何ですか。地位や名誉、財産、家族も、肉体も、一度離してごらんなさい。この地上で、何が苦しみでしょう。いちばん怖れるべきは、神の子としての神性に目覚めないことです。地上の神の使者としてあなた方が目覚めた現状があるなら、そこで精一杯神の使者としての仕事をしていけば、何も怖れることはないのです。

もしそれで命を奪われるようなことがあったとしてもーー、火あぶりにあったような者たちも、わたくしのキリスト教の弟子たちにはたくさんいました。それでも、喜び勇んで天上界に帰ってこられたのです。神の使者として、光の使者として迎え入れられてきたのですよ。魂にとって、栄光ある歴史になったのです。
あなた方も、そのような神理の価値観を持ってください。

地上は、実在界で修行したことの試験場であるということ。そして、あなた方が神仏の使者として地上に降り立ったとき、この地上を、地球を修行場として、神の愛の星として光らしめるための使者として、神の代行者として地上に生まれたという、そのことを思い、今何をやらなければならないか、何を悲しむべきか、何が苦しみなのかとーー。もうその境地に達しなければいけません。

今までのような初期の苦しみ、初期の悲しみを抱えるような人類であってはならない。人類は魂の奥から解放されていくのです。たとえ死にたいと思っても、自らの魂の記憶をストップさせたいと思っても、肉体が死んでも、それをストップさせることはできないのですよ。死んだとたんにまた別の意識が芽生え、魂の永遠性を実感することになるのです。

魂は永遠です。神が無限の修行の中で、わたしたちに無限のときを与えてくださる中で、永遠の中でわたくしたちは進歩発展し、自らの神性を開花させていくというそのような立場に、その場所を神は与えてくださっている。それは地球だけにとどまりません。ほかの惑星に行っても、同じ修行が続行されるのです。

であるならば、地上においてあなた方が抱きしめようとする、守ろうとしているものは一体何ですか。地位や名誉、プライドとは何ですか。あなた方の文明の中では意味があるかもしれない。しかし、ほかの文明の中ではまったく価値のないことかもしれないのですよ。

それは神の子としてのほんとうの意味で、あなた方の魂を、あなた方の価値を高めるものになっているのでしょうか。それをもう一度考えてください。神の子としての誇り、生きがいを守るために、あなた方があえて守ろうとするものなら、それは価値のあることでしょう。でも、そうでない、それ以外のことに目がくらんでいるのだとしたら、それは単なる執着で、魂の進化を遅らせているだけかもしれません。地球人類は、もうそのことに気づかなくてはいけない。

魂が、この地上における命だけで有限のものであるという認識を、あなた方は捨てねばなりません。そして、愛というものが何であるか、自らが神の子であるとわかったときに、神が宇宙の愛の根本原理であるということをわかったときに、自分が愛の化身であり、愛の分光であるということを理解したときに、あなた方が、愛をなさなければ何の意味もない存在である、ということを学ぶでしょう。

7.愛は循環する

何度も言いますが、愛は、条件付きのものではありません。まわりの環境の一切のものを我が痛みとして、分身として感ずることにあるのです。

であるのなら、一見あなた方を誹謗する、敵であると思われる者たちも、神の子たちなのです。ただ迷い、苦しみ、自らが進むべき方向がわからないゆえに、あなた方を非難しているのかもしれません。

でもそのときにー、あなた方も今まで間違ってこられたのですよ。自分が神の子であるということに気づかず、神が宇宙の中で、無限のときの中で、黙って酸素を、太陽の光を与えて、わたくしたちを育んでくださったことに、まったく恩知らずだったではありませんか。

それにもかかわらず、神は、無償に愛を投げかけ、あなた方を育み、進化発展するための環境を整え、祈りをもって、あなた方を生み出してくださった。その恩知らずなわたしたちであるならば、あなた方を誹訪中傷する敵を赦すことで、神への恩に報いるとしても、よろしいでしょう。

それをわたくしは言ったのです。「汝の敵をも愛せ」と。「右の頬を打たれたのなら左の頬も差し出せ」とも言ったかもしれません。それは、極論であったかもしれないけれど、敵である彼らも、同じ神の子である、仲間である、兄弟であると言いたかったのです。

「汝、人を裁くことなかれ」ということも申しました。裁くことなくー、隣人を裁くということは、己自身を裁くことになるのです。愛の摂理の中で行なったことは、必ず自分に戻ってくる。そのことを思って、あなた方は同胞を愛しなさい。自分の友を、自分の敵をも愛していくことが、巡り巡って、原因結果の法則によって、あなた方が多くの方々から愛されるという結果になり、幸福を生み出すのです。それは、根本的な宇宙の法則に則っていることなのです。

愛は循環します。与えた愛を、その人からだけ返してもらおうと思うから、苦しみが湧くのです。他の人たちを赦しなさい。あなたの愛を求めている人は、あなた方の身のまわりにいるはずなのです。

できることからしなさい。無理はしなくていい。無理をする必要はありません。あなた方がやれる些細なことはたくさんあるはずです。毎日、行き交う人ににっこりと笑って、「おはようございます」「こんにちは」と言うことも愛の一歩でしょう。難民の子たちに五百円のお金を送ることも、その子たちが教科書をもち、食べるものを得、井戸の水を掘ることができたら、それもまた愛でしょう。それ以外にも、あなた方のように、我々の言葉を直接、出版物にし、多くの人々に対して愛の言葉として直接的な伝道をする。そういう仕事をするということも愛でしょう。私生活の中でも、職場においても家庭においても、できる限り、愛を与える存在になりなさい。

愛はむさぼるものではないのです。愛は与えられると思うから怒りがこみ上げるのです。愛を批判するものとして、批判されることに対して怒りを持つから、苦しみになるのです。あなた方を苦しめているものは、わたくしも知っています。

わたくしが法を説いた時代にも、数々の法敵はおりました。身の危険もありました。命を狙われ、わたくしは毎晩毎晩いろいろなところを渡り歩いていたのです。寝ることすらままならない。いつ命がなくなり、神理の仕事ができなくなるかと、弟子たちとともに逃げ回っていたときもあるのです。

あなた方は殺されることもなく平和な現代で、人権というもので守られています。ジャンヌ・ダルクと呼ばれる方も、火あぶりになられたとおっしゃっています。わたくしの弟子たちも数々火あぶりになり、わたくしが十字架に架けられたので、彼らも十字架に架けられてしまった、不幸な悲しみを負っているのです。そして、あなた方がお話ししている、明治維新の方がたも、命を張って、正義のために、現代の日本を実現するために、刃のもとに命を散らした、若い命を散らした、その覚悟で、今日の日本をつくってこられました。

あなた方は今、命を狙われることはない。最低限、命を狙われることはないのです。だから、守るということより、愛というのは与えきりに与えるものであるとー。見返りを求めるものでなく条件付きの愛は愛とは呼ばないということをもう学んでいただきたい。勇気を持っていただきたい。

8.愛の姿そのものが神の子そのものの姿である

あなた方の姿を見て、真の神の子とはどういうものか、神のお姿というのはどういうものかということをー、地上に降りた光の天使の姿から、人々が神の臨在を、実在を知るのです。わたくしが、あの時代に神の言葉を伝えた、その生き様を見て、人々が神というものを感じたように。近年なら、マザー・テレサという方が、ただただ与えきった貧民の中にわたし(キリスト)の姿を見ると言った、その姿をもって、神の愛というものをその行為で伝えられた。マザー・テレサとその一門のシスター方、ブラザー方の姿を見て、「ああ、やはり神はおられるのだ」と、多くの人々は感じたはずなのです。

神の子とは、究極的には愛の通路として、神の光の通路として、おのが神性を光輝かせた者の姿を、愛の化身と呼ぶのです。愛の姿、愛の化身が神の子そのものの姿です。

先ほどの質問にもありましたね、愛の究極の姿は何か。わたくしたちは神ではありません、神の子です。地上に降り立った光の天使ならば、愛そのものが何であるかということ。天上界の神より、天上界の意思をもって、神意の代行者として、自らを愛の通路とし、地上における神の臨在を、自らの器と個性を通して、精一杯に表現した、その姿を神の使者と言い、神の子と言うのです。究極的にはそこを言うのです。わたくしたちもすべて同じです。九次元、八次元、七次元―、すべて同じなのです。

上に行けば行くほど、自分の意識の中の、愛として懐に抱えるものの度合いが違ってくるだけのことです。七次元からは、自らの悟りだけではなく、他者を愛するということに尽きてきます。他者を愛することは、自らの人生をもって他者を愛することによる、奉仕の姿になる。奉仕は苦しいことではありません。簡単なことなのです。

自らの中にある愛、神の子としての部分を、家族、兄弟たちを愛するために分かち合うだけのことなのです。その姿を奉仕と言うのです。自分のためにだけに愛を使おうと思っても、愛は循環しなくては流れていきません。すべてが神の子である、すべてが兄弟、隣人であるのですからー。自分の肉親だけを愛しているうちはまだまだなのです。

血がつながっていようと、つながっていまいとー、たとえば、地球の裏側で泣いている子どもたちがいます。飢えの中で、涙をいっぱいためて、水がない、ミルクがないと言って、戦乱の中で逃げ惑っている親、その親ともはぐれて、ひとりぼっちで生きている子どもたちがいます。その子たちを、別の国に生きているから、自分たちとは違う環境にいるから、ましてや、自分と血がつながらない、我が子でないからといって、彼らの悲しみを、彼らの苦しみを我が苦しみとしないようであっては、愛の子とは言えないのです。

あなた方は、潜在意識、神の子であるということで、深層心理で、一体になってつながっているのです。 現在のスピリチュアリズムでは 「ワンネス」という言葉を使っているのかもしれません。 そんな難しい言葉を使わなくてもいいでしょう。 あなた方は神の子であり、神の子としての意識の中において、あなた方は一体です。

そして、日本を、世界を、地球を、地球の裏側に至るまで、あなた方が考えておられる以上に、地上にいる動物、植物、鉱物、自然霊と呼ばれている、あなた方が知らない、海を治める海神たち、竜神たち、山の神、空を治めるものたち、大気を守っている、空気の精霊、花の精霊。 みんなすべてが神の子であり、つながっているのです。

神の子たちみんなが手をつなぎ合って、地上を、大宇宙を、絵巻物のように紡ぎ上げている それが、神の交響楽のように、シンフォニーのように、この大宇宙に鳴り響いています。

これこそ、神の愛そのものであり、神が望んでおられること。 神が大宇宙を創造し、ご自分の愛の思いを、大宇宙を通して表現なさろうとしている。 そのために、わたくしたちは分光して、分けられてつくられた神の子なのです。 その姿を、その位置を、知らねばなりません。

永遠の時の中で、自らの神性の可能性というものを修行する、そういう立場にわたくしたちがいるのなら、永遠に、無限に進化発展していく中で、あなた方は隣人たちを愛さねばなりません。 分かち合わねばなりません。 幼い、砂漠で飢えている子どもたちに対して、無関心であってはなりません。 彼らとあなた方はつながっているのです。 彼らの意識も、あなた方の意識も、織り成す糸の中において必ずつながっているのです。 だから、彼らに対して親切に、愛を与え、隣人に対して寛容でありなさい。

愛は与えるものです。 見返りを求めてはいけません。
与え続ける中に、そして赦し続ける中に、愛の根本原理があるのです。 そうやって、わたくしたちは大宇宙の神により、生かされ守られ、今日まで生きてきたのではないでしょうか。

9.地球を愛の星にしていきたい

その感謝の思いがあるなら、あなた方は、それを自分たちの隣人たちに分け与えていくべきでしょう。 その認識を、単なる家族や身内だけではなく、この地球全部に、人類に広げてください。 地球人類すべてに広げられたとき、その次に出てくるのが、今はまだ息を潜め、愛を与えるときを待っておられる、宇宙の友たちです。 そんな時代がきます。

宇宙の友たちは、大宇宙の中で、自分たちが神のお力で生かされているということを、すでに知っておられる仲間たちです。 その者たちが、やっと地球人類がここまできたということを、手を叩いて喜び、そのときを待っていらっしゃる。

愛を与えたくて、でも今の段階で優れた科学技術などを与えてしまったら、進化の法則、発展を阻害することになるので、与えたい愛を必死でこらえて、見守ってくださっているのです。 わたくしたちも愛を与えるときが、ほかの惑星の人々に対して、受けた愛を返す時期がもうすぐくるのです。

愛は循環し、分かち合い、与え合い、それが大宇宙を巡って、自分に返ってくるものなのです。 そのことを、この地球だけの規模で考えていたかもしれない。 違うのです。 宇宙の友は、はるかに離れた宇宙に行って、人助けをしています。

わたくしたちも最初に呼ばれた者たちは、はるか遠い宇宙からやってきているのです。 この地球という磁場を、少しでもすばらしい星にするために、わたくしたちは努力し、今日まで人類の修行場として発展させてきました。 これを次にステップアップさせることで、無限の進化の過程における、地球意識のレベルアップをもって、また別の生命体の修行場としていきたいのです。

そして今度は、地球から外へ出て行く形で-、今まで数々の宇宙の友に助けていただいたのですから、今度はそれをお返しする立場になる。 そのような進化ができるような惑星に早くしたいと、愛の星にしたいと、わたくしは心から願っています。 そのために、多くの魂が、宇宙の高級神霊が招雲されて、この地球を修行場にするために、この地球に来ているのです。

かつて、オリオンのことをあなた方は聞きましたでしょう。 彼らは自らの星を愛の星とすることに、高度なところまで到達しておられるがゆえに、その溢れんばかりの愛と、神の叡智を、後進的な星に行って、愛を分かち合うために、愛を伝えるメッセンジャーとして、多くの星に分かれて行っています。 それが星の進化なのです。

わたくしたちは、まだまだ自分の、地球という中で、戦争という野蛮なことをおこない、争い、奪い、傷つけ、戦争で、自らの文明を何度でも滅ぼしている、幼い次元の星なのです。 それをそろそろ卒業し、小学校から中学校にと、この間言われたでしょう。 愛の星として、宇宙船地球号の乗組員として、みんなで手を取り合うのです。

「国境なんて本来はいらない」、「わたくしたちは、神により生かされている、愛により生かされている神の子なのだ」と、最低限のことを知り、「自分がやったことは自分が始末をするのですよ」と、それは、幼い子にお母さんが教えていることでしょう。 「自分がやったことの結果は、自分が責任を取る」、それを、わたくしたちは伝えているのです。

10.愛というのは分かち合いなのです

転生輪廻というものがあって、地上にいる間だけがすべてではなくて、転生輪廻の中で、今回の人生が駄目でも、執着や苦しみをつくらないで、次、来世があるよ、とーー、 そして、今世は今世でしかできないことを精一杯やって、学んで帰っていらっしゃい。 握り締めてはいけないよ、とーー、 人々の執着を晴らすために、転生輪廻の教えを伝えています。

あなた方は、もうそこを総合的な意味で、仏教だからこう、神道であるからこう、キリスト教だからこう、イスラム教だからこう、ということを統合し、根本的な地球神理をもう学ばなければなりません。

根本的な地球神理を通して、地球だけではない、宇宙を貫く愛の摂理、愛の神理を学ぶことにより、互いに傷つけ、憎み、悲しみ、苦しみにおいて、自らの魂をおとしめるようなことから、離れなければいけません。

愛というのはーー、何度でも申しましょう。
愛というのは分かち合いなのです。 母親の愛を見てください。 自分の子どもが、頭が良かろうが悪かろうが、姿形が美しかろうが醜かろうが、運動神経が良かろうが悪かろうが、才能があろうがなかろうが「かわいい」と一心に抱きしめる。 それが母性でしょう。 神の愛とはそのようなものです。

だから、あなた方が優れているから、優れていないからといって、神が差別されることはないのです。 なぜ悪人を生かし、自分のように一生懸命がんばっている者が不本意に苦しむのかと、よく祈りの中で言われます。

でも、わたくしたちから見たら、悪党と呼ばれている、人を苦しめる者たちこそ、気づいてほしいと思う。 できの悪い子どもを抱えた親のような気持ちなのです。 ですから、地獄にいる者たち、魔王と呼ばれる者たちも、本来はすばらしい光の天使、神の子であったろうとーー。 神の子として、わたくしたちの世界にもう一度戻っておいで。 神は無限の時を与えておられる。 わたくしたちはあなた方が帰ってくるときを待とうと。 一切の裁きもなく、とがめもなく、ただ迎え入れるときを待つのです。

無限の赦しの中、彼らを抱きしめたいという、それは神の子ということではなくて、わたくしたちの仲間を待ち望む、ただ一介の友だちであるということをもって、彼らがわたくしたちの世界に戻ってくるのを待っているのです。

わたくしたちが上だから、下の者たちを迎え入れるという気持ちではない。 わたくしたちが上だから、あなた方より偉いというものでもない。 わたくしたちが、たまたまその役割に当たっているけれども、たとえ天国の、天上界といわれている、そのいちばん上にいるからといって、地獄のいちばん下にいる者たちに対して、優れているということではありません。

彼らは、たまたまそのような苦労のある、修行している身であって、彼らもわたくしたちの友なのです。 仲間なのです。 神の子としてともに手を取り合う、円いテーブルでともに手を握り合う者として、わたくしたちは彼らを見ているのです。 けっして、彼らを下であると思ってはいない。 だからこそ、無限に待ち続け、彼らが気づいてくれるときを、祈りながら、努力しながら、迎え入れる日を待ちわびている。 それが、わたくしたちの姿なのです。

もし、わたくしたちに彼らを裁く気持ちがあったなら、彼らは一瞬にして罪人になるのです。
あなた方地上の者たちは、「善・悪」という二元論で、自らの友人を、自らの環境自体に、裁きを与えているのです。 その中に、愛と赦しは存在しえない。 すべてに修行があるからこそ、わたくしたちの成長があり、学びがあるのです。

愛というのは、相手のその姿をそのままに受け入れ、「ああ、どうかいつか気づいてほしい」と祈り、その方がわたくしたちと手を取り合えるときを待ち続けるということ。 そのことに意味があるのです。 今、あなた方を傷つける者たちを、むやみやたらに引き入れろということではありませんよ。

その方たちといつか手を取りあえるときがくることを、ただ祈りながら、使命を果たしていきなさい。 焦ることはありません。 ときがきて、彼らと、必ずや手を取り合うことができるでしょう。 彼らも一生懸命やりたかった。 でも、理解できなくて、迷ってしまっただけなのです。

11.愛と感謝をこめて

あなた方が神の子である以上、宇宙を貫くすべての太陽―、太陽には霊太陽というものがあります。 愛そのもので、生きとし生けるものをこの地上に生かしている力があるのです。 この物質界だけではなく、すべての生命の中に神の愛が流れている。

「スフィア」と呼ばれている、霊の流れ、愛の流れがあるからこそ、すべての生き物が生きているのですよ。 地上のもの、草花一本一本においても、神の愛が宿っているのです。 鉱物においても同じです。 水においても同じですよ。

すべてに精霊が宿り、すべてにおいて、神の愛、神の霊が存在しているのです。 わたくしたちは人間という姿をとっていますけれど、根本的に、動植物、鉱物と同じである、同等であるという意識を持たねばなりません。 そうしたら、彼らに対する、いたわりや優しさ、感謝というものが、自然に生まれてくることでしょう。 身のまわりにある草花、花一本に対しても、「こんなに美しく咲いて、わたしたちをなぐさめてくれてありがとう」という愛の思いが、感謝の思いが湧いてくるでしょう。

自らが愛の化身であるということを理解したとき、あなた方の心からただただ湧き出てくるのは、感謝の思いであるはずです。

この方が、いつも文章の最後に、必ず使うでしょう。 「愛と感謝を込めて アマーリエ」と、必ず書きますよね。 易しいように思うけれども、愛は、感謝と表裏一体なのです。

愛を理解した人は、自分が生かされている、愛されていると気づいたのなら、それは感謝という思いで、他者に対する愛として、発散されていかなくてはなりません。 それによって、愛が大宇宙を循環していくのです。

さきほども言いましたが、自分が愛を与えた者からだけ、もし百万円貸したとしたら、その人から返してもらわないとだめだ、と思ってはいけないのです。 その人は返してくれないかもしれない。 しかし、その人を赦しなさい。 そうすれば、ほかの方から返ってくる。 それが法則です。

だから、何も怖れることはない。 何も掴むことはない。 苦しむことはない。 他者を裁く必要もないのです。 他者に大きなマイナスを与えた人は、別な形で、それを償わなくてはいけないのです。 だからこそわたくしは申し上げたのです。 「汝、人を裁くことなかれ」と。裁いてもしかたがないのです。

裁くのは愛の摂理、法則の中、大宇宙に生きる者は、すべてが摂理に支配されています。 その中で、その人は、必ず代償を払わなければならないのです。 だから、あなた方は少しも怖れることはありません。

あなた方が裁きをするのではなく、神が、その摂理が裁いてくださるのだから、「ただただあなた方は人を赦しなさい」とーー。 「無限の赦しを与えなさい」「赦して、その執着を離した瞬間に、愛の循環によって、別のところから、愛の恵みがあなた方に戻ってくるであろう」ということを、わたくしは申し上げたのです。 それが、宇宙の愛の摂理であり、愛の法則です。

12.自らも愛の通路となりなさい

わたくしは、宇宙の法則における愛の意味、神の子として、神の愛が大宇宙の中に、法則に叡智において、どのように循環するかということをお話ししました。
(中略)
わたくしたちがあなた方より上にいるから、愛を与える位置が高いということではないということを申し上げたのです。
愛に高さは関係ないのです。
愛は、豊かさだけが意味をなすのです。
どれだけ多くの者たちを愛することができるか。
それだけで、七次元、八次元、九次元となっていくのであり、上下関係ではないのです。

他者に対する愛、自分を愛する愛がひじょうに狭いことである、ということは申し上げました。
それに対して、自分以外の者たちに奉仕し、愛するという、七次元以降の愛、それがやっと、愛の循環の、外に向かって流れ出していくという、摂理の根本なのです。

奉仕しなくてはならない、という思いがある愛。
それは、まだまだ認識として、段階が幼いということ。
それはなぜか。
奉仕せねばならない、という思いには、エゴがあるからです。

ただ自分が神により創造された神の子であるということ。
「愛の通路」となるのです。
この者を見てください。
霊言をとる者に、自分の意志が入っていると思われますか。
自分の意志を抜かなくてはいけない。
わたくしたちの意識に、天上界の意識に、自らの感性、言語機能を与えきる。
この姿を見て、愛の通路とは、まさにこの者の姿であることを、あなた方は学ばねばなりません。

ひとつでも、自らの思惑が、自分の思考が入ってばならないのです。
巫女という仕事はそういうもの。
ただ与えきり、ただ、神の意志に自らを投げ出す。
天上界と地上界のパイプになるために、愛の通路となり、我々の言葉をダイレクトにあなた方に伝えていく。
そのことを通して天上界の愛が、わたくしたちの天上界の叡智が、地上に伝えられていくのです。
これを奇跡と言わずして、何と言いましょう。
これを今人類にもたらしている、この姿こそ「愛の通路」と言うのです。
あなた方も、愛の通路となりなさい、と申し上げているのです。
それを如来界と言おうと、何界と言おうと、どうでもよいことです。

みんなが違う個性、可能性をもつように、光の度合いにおいて、神は、期待を込めて、あなた方一人ひとりをおつくりになられたのです。
神の子とはそういうものなのです。
ひとりとして同じものはない、代替のものはないのです。

貴重な、たったひとりの、かけがえのない神の子としてつくられているのです。
であるのならば、愛の通路として光らせなさい。
あなた方の持っている光線を最大限に光らせて、多くの人々のために、愛を分かち合うために、愛の通路として神の子として、そして究極的には神のご計画のために、愛の星にするための、この救済の大計画のために、自らの光を、可能性を、個性を光らせなさい。

それは、あなた方の役割なのです。
この者は巫女として、救世の通路として、神の道具として、目の前にいるではありませんか。
あなた方は、この者とは違う個性と才能を与えられています。
ならば、あなた方の人生、あなた方の個性で、どのように愛の通路となりますか。
どのように輝きますか、ということ。
それを、あなた方は地上の課題として持っているということなのです。

あなた方が口を開けて、棚ぼた式に「やることを教えてくれ」というようなことではいけない。
そのような者は、神の使者として修行を果たす力を、少しも持っていない者と見なされるのです。

あなた方は今、わたくしたちの言葉を直に聴いておられる。
自らの神性に気づきなさい。
神の子として、自らが愛の表現形であるという、愛の塊であると、愛の光そのものがあなた方であるということを、わたくしたちは再三伝えています。
宇宙の根本法則に従って、人を裁くことなく、愛を与え、与え、与えきり、赦し、赦し、赦し続け、それによってもし危害が加えられたら、何でも差しだしなさい。
いかなるものも握ることなく、あなた方の神性をきらめかし、本来しなければいけないことのために光輝きなさい。

それが、愛の通路として、神の子として、あなた方が愛を表現し、愛の光としてこの地上に輝き渡ることになるのです。
それを、六次元、七次元、八次元という差別で、段階論で語ること自体、愛の根本原理から離れていると、わたくしは思っていました、そのことをあまり、彼がいるうちに申すのは何だと思いましたけれど、愛の根本原理において上下関係はないのです。

13.神の叡智は無限

さっきから言うように、道端の草花一本、タンポポひとつ、葉も、その上にいる青虫ひとつも、星々の輝き、その草原を吹き抜けていく風、風が吹き抜けなければ草原は、地上はどうなるかと考えれば、すべてに役割があることがわかるでしょう。

四大元素と呼ばれるものにも精霊が宿り、使命があるのです。 すべてが神の子なのです。 この地上に肉を持たなくても、竜神と呼ばれている自然霊たちも、みんな神の子であるのですよ。 その者たちすべてに感謝しなさい。 感謝しなければ、あなた方が今地上に生きていくことすら、かなわないのです。

愛は感謝です。
そのことに気づけない自分自身がいたことを深くわかったら、今気づけた自分に、多くの者からに対して感謝し、そして気づけない友人たち、同僚たちがいるといって、隣人たちが気づかないからといって彼らを責めないこと。 なぜなら昨日の、昔のあなた方の姿ではありませんか。 そうでしょう。 あなた方は気づけた。 彼らはまだ気づけない。 しかし、あなた方も以前は気づけなくて、同じように人を裁いていたかもしれないのですよ。

だから、彼らのことも赦してあげなさい。
「彼らもいつか気づき、神の懐に、神の子として戻ってこられますように」と、心からの祈りで、神々に対して祈り、自らやるべきことをして、愛深く、彼らが神のところに戻ってくる日を待ち続けなさい。 それが愛です。 わたくしたちは少なくとも、そうやってあなた方を指導し、見守ってきました。

愛の中に無限があるのです。 永遠のときがあるのです。 永遠のときの中で、わたくしたちは無限に進化していきましょう。 成長していきましょう。 ともに。
あなた方の上にいて、上から下にものを言った憶えは、わたしにはない。 あなた方とともに、手を取り合い、進歩していこう。 愛の中で、ともに地球を、この宇宙をすばらしいものにしていく仲間であろうと、わたくしたちは、天上界から常に声をかけ、あなた方に呼びかけていたのです。

少なくとも、神の根本原理、愛を伝えるために、わたくしは、宇宙の神より命を与えられ、その使命をもってつくられた魂です。 その光なのです。 そのことをもって、今日みなさまにお伝えしました。

段階論は、成長したり、目標とするためには必要かもしれません。でも、それによって差別をつくってはなりません。他者を裁くため、自らを優越感の中に置くための判断材料とするなら、そのようなものは何の意味もないのだ、と知ってください。神の叡智はただただ無限で、その愛の中に育んでおられます。

進歩した惑星の中で、難しいことを言う者はいないと。 寺院をつくる者もなく、ただ生きるその生活、人生そのものが愛の化身であり、感謝行が人生のすべてであるとき、宗教などは存在しないのです。 神を祀ることも、仏像もないし、神殿もいらないのです。

惑星そのものが神の神殿そのものだからです。 大宇宙そのものが、神殿ではありませんか。 そこに遍在する神の愛がある中、なぜ神殿など必要なのか。 なぜ神の宮などが必要なのでしょう。 究極的には、あなた方の肉体そのものが神の神殿ですよ。

そうであるのならば、あなた方の隣人も、神の神殿そのものなのです。 その方の、あなた方を非難、中傷する敵の、その神性に対して手を合わせ、神の子として、神そのものであるとして礼拝しなさい。 そうすれば、あなた方が苦しみや争いをつくることはないでしょう。

14.愛を与えきる

マザー・テレサがスラム街に毎朝いかれたとき、病で苦しんで、道路に転がっている人々を見ておっしゃった「キリストの姿を見ている」という有名な言葉があります。 すべての生きとし生けるもの、それは神の子であり、神の神殿であるとそういうことなのです。 それはキリストという言葉ではありません。 神の子としてのその姿を見るならば、そこに神の宮そのものがあるということなのです。

特別な神社仏閣をつくることはない。 そこに宗教を持ち込むこともない。 あなた方のまわりにいる弱き者、あなた方に救いを求めて手を差しのべている者の姿に、神を見るのです。 聖書の中にもあるでしょう。 「弱き者、隣人たちを愛しなさい」と。 そこにわたくしの姿があるということを言っているはずなのです。

あなた方は、救いを求めている者たちに、あまりに冷淡なのではありませんか。 自分とは関係のない者だと思うから、そこまで冷淡になれるのです。 しかし、あなた方の分身であり、神のお姿そのものであり、神の子であり神の神殿である者が、あなた方に救いを求めているということがわかったら、あなた方は冷淡でいられますか。 どうか愛を与えてください。 愛は見返りを求めてはいけないのです。 与えきりなさい。 愛の循環の摂理で、必ず、あなた方に幸せの原理として、戻ってくることでしょう。 わたくしの言葉を信じてください。

それが、わたくしたちの三次元だけではない、大宇宙の根本を貫いている愛の摂理そのものであるということを、わたくしは今回あなた方に伝えているのです。 そこを考えれば、この三次元の中であなた方がどのように生きなくてはいけないか。 おわかりになるでしょう。

それを応用し、現実の生活の自分一人ひとりの人生の中で、どのように生かすのか。 それがあなた方の課題なのです。 テーマです。 そのことまでは、わたくしたちは申し上げられません。 でも、そのことは、ひとりの人に通じたから、ほかの人に通じないということではないのです。 今日の話をそれぞれの人生に応用したとき、地球人類の人生の中で必ずや、実りある、お役に立てるものと存じます。 では今日はこれにて失礼させていただきます。

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