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Project Eden

第2章 永遠の魂

1.オリオンは調和と愛に満たされた指導的な立場にある星

2.七色の光線の役割分担は絶対的なものではない

3.今の地球の時期は、全宇宙的に待ち焦がれて用意されてきた大事なとき

4.わたくしたちはみんな、永遠の命を持った神の子なのです

5.愛とは分かち合いである。他者の痛む気持ちをわが痛みとすること

6.ほんとうに守るべきは神性であり、神の子としての誇り

7.アナキン・スカイウォーカーはルシフェル、サタンの姿そのもの

8.愛が忍耐であるということをわたくしたちは学んでおります

9.サタンのトリックに引っかかるのは、地上の者がまだ学んでいないということ

10.無私な思いで愛の種を蒔く

11.易しい言葉で語ってこそ神理である

12.善悪の悪と呼ばれているものは自由意志の濫用

13.霊的な進化を遂げる追い風に乗ってきている水瓶座の時代

マイトレーヤー

今から約二億七千万年前、オリオン座の方向にある惑星より地球に招霊された魂である。
天上界において、エル・ランティの補助という立場で光の分光などの役割を担う。
かつて、アトランティス文明において、聖クザーヌスとして肉体をもち、神は理性的なものであると「理神論」を説いた。その後は地上に出ていない。
弥勒菩薩のことがマイトレーヤーと称されることがあるが、本書のマイトレーヤーとはまったく別の存在である。

1.オリオンは調和と愛に満たされた指導的な立場にある星

はじめまして。マイトレーヤーでございます。
みなさまにおかれましては、わたくしは、はじめての霊言となると思います。

前回出ましたときは、まだレムリアが立ち上げの初期にありまして、半分はこの者(アマーリエ)に今回の使命を告げること、自分自身のルーツを悟らしめること、そして、わたくしがアトランティスのときに、この者といっしょにどのような仕事をしたのか、それが現代の文明においてどのような位置づけにあったかということを、ポイントとしてお話させていただいたと思います。

お話の中でありましたように、わたくしは、マヌ、カイトロン、そしてこのアマーリエという者といっしょに、かつての昔オリオンからきた、そういう者でございます。

わたくしたちの星は調和に満たされ、愛に満たされ、芸術と人びとの間に、大調和というのを実現していた星でございました。

人が集うところには、当然それなりのトラブルと申しますか、問題があるのはどこでもあるのですが、神のお心というものが、その星の方針として、多くの人びとの心に調和し一体となっている、そのような星であったと思います。

そのような星におきましては、人びとの悟りの中において、それぞれが神と一体として生きるということが一般化されておりますので、わたくしたちのような九次元と申します者も、相当数おります。

星の指導者としての役割があるのですけれども、わたくしたちのような星になりますと、あの当時の地球のように、これから星としてスタートをし、一つの文明を、星としての使命を果たしていこうという、そのような修行場、修行過程にある、未開発といったらなんですけれども、そういう星への指導者として、指導的な立場にある星としての使命というものを神より預かっているのです。

それゆえに我々は、指導者、ないしは教育係として、いろいろな星に派遣されるという役割がございます。
オリオンは、美を体現した星でございましたけれども、感性だけではなく、やはり法、悟性というものをすべて含めまして、科学技術においても、そして芸術においても、法の極みにおいても、人の、神の子としての人倫の道において、法道徳と申しますか、それについても、それなりの進化を遂げた星であったとわたくしは思います。

ですから、わたくしの星オリオンから地球に招霊されたときに、まず、地球に科学を進めていかなくてはいけないということで、科学の部門から、九次元の悟りを開いたカイトロンという者を伴い、さらに、芸術、感性というものを通して悟りを開いて、九次元レベルになっておりましたマヌという者も伴って参りました。
そして、前回の大移住における、その計画におけるグループの責任者として、わたくしが立っていたのです。

わたくしは神のお心、神の法というものがどこにあるのか、それを伝えるための悟り、メッセンジャー、地球における仏陀の役割のように、オリオンにおける仏陀というふうな位置づけの、そういった役割があるのです。

みなさま方の意識を見ておりますと、オリオンというと、どうも芸術、感性ということだけが、突出した星であるというふうに、まあマヌの人気によって、あなた方は誤解なさっているところがあるのかもしれませんが、ひじょうに美的な部分、感性の部分、まあこの者もそうですが、感性というものを通して法を表現していますし、テレパシーというもの、普通の人間たちが感じる以上のものを、感性の中でとらえて、神のお心というものをキャッチしていく、それに優れた者たちが多いのも事実です。

しかし、科学の分野におきましてもとても優れておりますし、法を学ぶということ、あなた方が黄金光線と呼んでいる方たちが、おやりになっているようなことについても、究極的に極めた、悟りの高さをも持っているのが、オリオンであるということも申し上げておきたいのです。

その中で、この星における黄金光線的な役割にいて、何が法であるか、何が神のお心であり、何が神の望まれる道であるかということを説くために、わたくしは常にいるものでございます。

そして、オリオンからきた使命におきましても、教育者としての部分、新たなる星に行って、指導する役割を常に持っておりますがゆえ、ある一定期間、その星が、ある程度の段階になるまで協力をして、またオリオンに戻るなり、別の星から招霊されたなら、別の者たちを伴って、別の惑星に行って、その星を次元アップさせていく、成長させていくための指導者として、別の霊人たちを伴って移動する。
それをわたくしたちの星の使命としております。

だから、オリオンはリーダー的な星であるということは事実です。
そのようにお考えください。

2.七色の光線の役割分担は絶対的なものではない

わたくしたち九次元は、今は九次元には十人おりますが、それはみなさま方ご存知でしょうが、その中で、モーリャが赤色光線とか、マヌが緑色とか、そういういろいろな色づけというのが、ホワイト霊団であるならインマヌエル、ホワイト霊団は白というふうにみんな分けております。
しかしそれが宇宙の中で、光線をもって地球に招霊されたわけではないのです。
それは違うのです。

地球には、地球意識というのがございます。
地球という惑星をつくるためにその身を投げ出して、修行場として、その身を犠牲にしてわたくしたちに修行させてくださっている、九次元を超える十次元意識としての地球意識という方がおられます。
それに対する月意識、さらにその上に、太陽から出ている大日意識がおられるのです。
その上の世界から、光線が地球に降りてくるわけです。
それをわたくしは、エル・ランティの補助をしながら、それをプリズムに分けて七色の光線に分光していく役をしているのです。

そして、光というのは何であるかと申しますと、神のお心、神は光そのものなのです。
神は愛であり、愛は光です。
その愛のエネルギー、神の、すべての大宇宙をあまねく照らし、生かしむ、その愛の光が、この地球においても、上から降ろされてくるのです。

その愛のエネルギーにより、地球意識も、地球におけるすべての植物、動物、すべての生命体が、霊性、霊的なエネルギーというものを得て生きているのです。
それをまず分光する、最初のプリズムをしているのが、わたくしやエル・ランティなのです。

そして、分光したときに、七色の光線が分かれていくのです。
それは神の光の一つの役割、使命であります。
赤には赤の役割があり、黄色には黄色の役割があり、緑には緑の役割があります。
その役割をもって、この地球を豊かな神の愛の表現体として生かすよう、使命を果たすよう、七色に分光しているのです。
実は詳しく言うと七色ではなく、詳細に見るなら何十通りにも、神の光というのはバリエーションがあるのです。

ただ、大きく見たときに七色に分かれていくということ。
その七色が分かれていくときに、我々九次元十人がそれぞれ担当しているということなのです。
それぞれの個性に応じて、いちばん得意とする分野の指導を、自分たちが買って出ているということなのです。

今回は、地球の中において、法を地球の法として確立する。
それは、この仏陀とよばれている、エル・カンタラーといわれる方、いちばん地球の中で永い生命体でおられますので、その方が、地球の法とはなんであるかということを築き上げることにおいて、黄金光線、黄色の光線というのを、仏陀が担当されているということなのです。

そして、愛を説かれるインマヌエル、あなた方の言葉ではイエス・キリストと呼ばれている方が、ホワイトという光線のことを担当されておられる。
正義を説かれるモーリャという方は、ひじょうに力の強い、正義感のお強い方です。
その方が赤の、本来持っている赤の個性を、「じゃあわたくしが担当しよう」ということで、担っておられるということなのです。
また、緑やブルーは、ゼウス、マヌという方が、それぞれに分けたり、ひとつの個性をお二人で兼任なさっているということがあると思います。

ですから、じゃあ絶対にこれが変わらないかと申しますと、わたくしたちのような長い目で見た場合には、ときどき光線の役割は変わるときがあるのです。
わたくしも、本来であるならば、法というものを担当できる部分におりますので、わたくしがもし「黄金光線をやれ」と言われたら、やはり黄金光線をやるわけです。

ただ、地球の法として、どのような地球の法、オリジナルを確立するかという立場になりますと、地球にずっと最初からおられた、エル・カンタラーがおやりになるのが適切であるのではないかと、わたくしは思いまして、わたくし自身は法を担当する者でありますけれども、エル・ランティの補助という立場で、分光という作業をしているのです。

ですから、我々がもともと色のついた光線として神より創造されて、そしてその光線の中だけでしか使命を果たされない、というふうに思われるのであるなら、それはちょっと思い違いであるなと思います。

神はすべてのものに個性を与えられました。
そのものでなければ果たせないようなすばらしい能力というのは、わたくしたち九次元の十人でなくても、あなた方一人ひとりにおかれましても、すばらしい才能、能力をお与えになって、神の子としてこの地上に、いやこの宇宙に創造なさったのです。
ですから、あなた方自身の色、あなた方自身の個性というものを、どうか探して、探求して、ご自分の光を、光線を輝かすことを、わたくしは心より望んでおります。

また、わかりやすくというなら、あなた方が読まれた『太陽の法』におかれまして、あのような書き方をしているということ。
たまたま、地球の歴史の中において、我々九次元の十人が担当しているのであるということ。
そのことを思いおかれればよろしいと思います。

3.今の地球の時期は、全宇宙的に待ち焦がれて用意されてきた大事なとき

この地球におきまして、あなた方がどのように思われているか。
今の位置づけということを、諸霊人が出てこられて、あなた方に話しておられると思います。
しかし、あなた方が考えている以上に、今の地球の時期、今のポイントというものは、限りなく価値が高く、そして全宇宙的に見ても、地球が進化し、レベルアップするために、待ち望まれて、待ち焦がれて用意されてきた、大事な、大事なときであるということ。
そのことをあなた方に重ねてお伝えしたいのです。

神は永遠という時間をわたくしたちに与えてくださいました。
あなた方のように肉体を持っていると、地上におかれる百年足らずの時間がすべてであり、死したならばすべてがなくなると思う。
そのような短いスパンの中で考えられておられるのかもしれない。

そうではない。
転生輪廻をし、肉体はまた来世にもあるのだと、天上界に行けば命は永遠であるとわかっているあなた方であったとしても、わたくしたちがこの地球とともに歩んできた、気が遠くなるような、永い、永い連鎖の中で、この地球というものがどれだけ大事な時期にあるかということ。
それを、あなた方のように、正法を学んだ者であっても、今の重要性ということが、わかっておられないように思うのです。

理解しろというのが無理なのかもしれません。
それは肉体を持ち、地上に、三次元に生きているあなた方にとっては、当然なことです。
でもわたくしたち霊天上界から見て、この地球とともに永いこと歩んできた者といたしますと、地上におけるこの時期に、ありとあらゆる宇宙の法というもの、明かされるべき天上界の秘密というものを、できる限り地上に降ろし、そして多くの人びとの中に、神の子としての意識、魂の永遠性、神が愛そのものであり、愛のエネルギー、愛の法則そのものであり、それに同調することが、一人ひとりの神の子としての本来のあり方であり、その神の愛のエネルギーに、法則に同調することで、己自身の神の子としての光が輝きわたるのだということ。

それこそが、繰り返しわたくしたちが、霊人たちを通して言いながら、あなた方の心にしっかりと根づかせなければいけないことなのです。

4.わたくしたちはみんな、永遠の命を持った神の子なのです

神の子であるということ。
それをまず信じること。
そこが最初のキーワードであると思うのです。

多くの方がたは、人間は肉体だけであり、魂などはなく、来世もなく、死んでしまったらそれですべて終わりであるという、そのような価値観の中で縛られ、この地上において、お金だとか、名誉だとか、ものであるとか、様々な権力志向や、女性や異性に対する欲、そのようなものに奔走させられるのです。

ですから、永い、永いときの流れの中で、幾転生を繰り返しながら、自らが神の子であるということを、まず易しい言葉で、しっかりと、あなた方が根づかせねばなりません。

そのような永いときを与えられているなら、悪いことをして生き延びることよりも、たとえ殺されても、神の義というもの、正義というもの、神理というもの、愛のために生きて、そして殺されて死んでいっても、その者はますます輝き、我々の世界に戻ってきて、すばらしい役割を与えられていくのだということがわかれば、いたずらに肉体を守るためのつまらぬ争いをしなくなるでしょう。
それをまず、あなた方は、しっかりとわからせなければなりません。

多くの者たちにまず易しい言葉で、そこの原点を教えていくのです。
そうすると、いま世の中で起きているトラブルの、何分の一かはすぐに解決することでしょう。

この地上に生きているだけがすべてであると思うからこそ、つまらぬ財産やものにしがみつき、もののために多くの者たちと戦い合う、物質万能主義のような、信仰心など何もなくて、目に見えぬ神などないから、なくてもよいのであると、そのようにあなた方が思ってしまう。
根本的に物質主義に毒され、思考の基盤というものがなくされていくのです。
そこをまず打ち砕かなくてはなりません。

次の時代に行くということは、この物質科学万能信仰の中に、愛の原理というものを流し込んでいくということです。
愛とは何であるか。
神であり、神そのものの姿であり、わたくしたち一人ひとりの根源的な姿が、愛の表現体の一部であるということを、悟らしめることにあります。

まず高橋信次、エル・ランティがこの日本に出られて、物質的に凝り固まったところから、人びとを霊的な魂の中に導くための根本的な法を降ろされたのです。
つまりは、高橋信次、エル・ランティがおっしゃられたことというのが、原点の中の原点であったということです。
それがほんとうの意味で今の日本に、世界に広がっていったのなら、今のような暗たんとした現実というのはなくなっているはずなのです。

しかし、広がっていない。
現実に人びとはまだまだいさかいをし、争い合い、苦しみ合っているのです。
だからまず、基本的なことを--。
人にいきなり難しいことを言ってもわからないのです。
あなた方が認識しておられるようなことを、いきなり多くの方がたに言ってもわからぬのです。

ですから、まず伝えてください。
魂は永遠であること。
死ぬことは少しも怖くないということ。

幾度も転生を繰り返しながら、人びとは学び、いくつかの過ちを犯しても、過ちがあるからこそ人間であるのだと、過ちを、その人の欠点をも含んで、神は愛されているからこそ、永遠の命を与え給うているのであるということ。
それほどに神の愛というのは、慈悲というものは、深く大きいものであるということ。
我々はその大いなる神の愛に生かされている、神の子たちであるのだということ。
そこにまず気づきなさいということを、あなた方は言わなくてはなりません。

永遠の流れの中で、わたくしたちは神の愛により生かされている。
永遠の命を持っている神の子であること。
そこがしっかりと認識できたのなら、多くの人生観が変わっていくのです。
いたずらにものに執着することもなくなくでしょう。
いたずらに学歴や地位や、そしてそのほかの権力欲、自分が幸せになる以上の所有欲、そのようなものがひじょうにくだらないものであると--。

5.愛とは分かち合いである。他者の痛む気持ちをわが痛みとすること

愛とは分かち合いであり、自分たちの同胞に対して愛を分け与えていくことが、自らの愛の心というものを満たし、自らの根本、基盤であるということ。

愛というのはむさぼることではなく、分け与え、分かち合い、自分の同胞たちの、神の子たちの、仲間たちの幸せを願う姿、そのことこそが、愛であり、自分の神性として、神の子としての心がもっとも喜ぶ姿であるということ。
それがまた、大いなる神の喜ばれる道であるということ。

ならば、多くのものをむさぼるため、自分が、多くのものを、人を殺してでも所有したいと思うところからは解放されて、自分がより多く持っていたのならば、持っていない者たちに分け与えていく、分かち合っていくということができたならば、この地球上には飢えたり、悲しい思いをしたり、ものが無いといって死んでいく者たちはなくなることでしょう。

それくらいのものを、すでに地球は生産しておりますし、神は与え給うているのです。
一部の者たちが独占し、抱え込むから、片方の部分で飢えていく、死んでいく者たちがいるということ。

以前誰かが申し上げていたと思いますけれども、もし、他人というか、自分の同胞たちの、神の子たちの痛みや苦しみや悲しみが、自分自身の悲しみや苦しみであると思う愛の心があったのならば、そこに分かち合いがあり、協力があり、助け合っていこうという優しさがあれば、その中において、不幸な者はいないし、飢え死にしていくような者たちは誰もいなくなるし、結果として、大調和という神のお心の姿が、この星の中にあらわされ、大調和というものにおいて、この星がすばらしい段階に達していく道が示されるのです。

悟りというものは、あなた方はとても難しい、難しい言葉のように、思われておられるかもしれないけれども、わたくしに言わせれば、ただ神の懐に還っていくこと、神の懐とは、愛そのものの道のことです。
愛というのは、さっきから言うように、分かち合いであり、他者の痛みをわが痛みとすることであります。
そのようなことさえわかっていたならば、それを頭でわかるだけでなく、実行できれば、即そのまま、この地球は神の星、ユートピアになるのです。

そのことをあなた方がほんとうに理解されたときに、この星は、難しい難解なお経を読まなくても、難しい修行をしなくても、修行修行と明け暮れることがなくとも、そのまま、この地球に住んでいる者たちすべてが一定の愛の水準に達し、神の星ユートピアヘと、一挙に、一躍跳入、愛の星になるのです。

そのことを難しくして、知的に優秀な者たちだけが、神のもとへ悟っていけるのであると、いつの間にかこの地球系神理を、ひじょうに難解なものにしてしまったのではないかという反省を、わたくしは多少持っております。

難しいことはいらぬのです。
難しいことばかり頭に詰め込むと、一番肝心なことが見えなくなるのです。
いちばん肝心なことというのは、さっきからずっと言っていることです。

それは宇宙を見渡しても、多くの進化した星の中で、多くの方たちが愛のために、愛により、愛という神のお心を表現して、ただそのままで生き続けている。
みんなでできることを、互いに手を取り合って、ともに助け合い、役に立ち合い、自分の星が調和されたなら、自分たちの家庭が調和されたなら、他の未開の土地に行って、その星にも愛を分け与えてこよう。
別の星、別の銀河に行って、神の愛というものを表現するため、そこに達するためのお手伝いをしにいこうという、そのような気持ちにまでなっていくのです。

愛というのは、そこまで分かち合っていくことです。
彼らは、分かち合うために、義務のように、ノルマのようにやっているのではないのです。
少しでも、この神の愛の感動というものを、多くの方がたにわかっていただくという、そのお手伝いをするということ。

そのこと自体を、自らの喜びとして、自らが感動する生き方として、自分自身がその生き方を望むからこそ、誰に強制されるわけでもなく、多くの方がたに、はるか何億光年もかけた遠い惑星にまで行って、お節介のように愛を分け与え、惑星の進化のお手伝いをして帰ってくるのです。

わたくしたちのような星は、そういう意味でたいへんお節介な星かもしれません。
でも、愛というのは基本的にはそういうものなのです。
自分自らが幸せであるのなら、少しでも不幸せな人を幸せにしてあげたい。
そのお手伝いをさせていただきたい。
そのように望むものなのです。

そしてその方たちがにっこり笑って、神の子としての自分たちの使命に気づかれ、輝くような笑顔で、幸せな顔を見せられた時、「自分たちはいっしょに生きて、この方たちといっしょにお手伝いをさせていただいて、なんて幸せであったのであろうか」と、「神よ、ありがとうございます。わたくしたちをつくり給うて、ありがとうございます」という感謝の中で、わたくしたちは喜びをもって、自らの使命を果たしていくのです。

あなた方の、あなた方と言ったら失礼ですね、わたくしも地球の神ですから、この星がある程度の水準に達したとき、そこまでにはまだまだですけれども、あなた方には、「中学生レベルになりなさい」というふうなことを、言われているかもしれません。

でも、この地球が進化を遂げ、中学、高校、大学、そして大学院レベルになっていったときに、地球から他の惑星に行って、進化のお手伝いをするための、教育的なグループが組織されていくことがあると思います。

いろいろな惑星の人たちからひじょうな援助を受けて、あなた方、今この地球があるのです。
その恩を、その愛を、他の惑星にお返しに行けるような、そんな地球になれれば、そんなふうに進化できていったら、なんて地球は幸せであるか、わたくしたちは幸せであるかとーー、その日がくることを夢見ながら、今の地球進化のためにがんばっているのが現状です。

6.ほんとうに守るべきは神性であり、神の子としての誇り

愛という観点において、自らが、夫婦愛とか、隣人愛とか、他国に対する愛とか、そのようなものすら築けず、家庭は地獄のようになり、夫婦は離婚をし、人殺しが横行し、そして自分たちの地域、共同体においても、孤独死していく老人を助けることもいとい、そしてもっと言えば、自分の国は愛してもほかの国は愛さない、国境意識、民族意識という偏見。

さらに、自分たちの宗教こそ、自分たちの神こそがすべてであるといって、いがみ合い、殺し合っている。
それが地球です。まだまだ野蛮なレベルなのです。

そこにメスを入れていくには、まず一度愛のもとに戻ろうとーー。
愛という大調和の中に戻っていこうとーー。
愛というのは分かち合いであり、助け合いであると、そしてその愛こそが神のお心すべてであると、そのことに気づかねばなりません。

制約された肉体だけの数十年がすべてであると思うから、刹那的になり、生きているうちに、すべてのもの、すべての快楽をむさぼりたい、それこそが悔いのない人生ではないかというような、大きな誤解をしてしまう。
しかし時の流れははるか何億年という、もっと昔の意識を持てるものであるのならば、何兆年という、そのような深い深い意識まで、わたくしたちは記憶を持っていくことができます。

逆に言うと、今逃げたとしても、死んで、自殺して逃げたとしても、人生というのはそれで終わりになってくれるほど甘いものではないのです。
肉体が終わったからといって、それで自分が逃げられるかといったら、それは逆で、あちらの世界に帰ってから、自分のしたことは、因果律の中において、何倍もの苦しみとなって、すべて自分に戻ってくるのです。
結果は、すべて自分が引き受けて、自分で乗り越えていかなければならない課題となります。

その因果律を考え、では、今この肉体のあるうちに、あなた方は何をするべきなのか。
人のことを悪く言ったり、人のことを憎く思うことよりも、ただ、何かを守るために、人はそのように悪の心に身をゆだねるのかもしれないけれども、でも、守るものなど本来は何もないのです。
肉体が殺されるから、相手を殺すのか、そこが究極かもしれませんが、それなら殺されればいいのです。

肉体がなくなっても、もしそれで愛する者との別離があったとしても、それは一時の別離なのです。
そのために自分が殺人者になってはいけません。
他者を傷つけてまで守るほど、肉体は価値があるものではないのです。

だからといって、むやみに自分から殺されればいいのかといったらそれは嘘です。
感謝をもって、肉体を修行の大事な舟として、肉体舟として大事にしなくてはなりませんよ。
ですけれど、ほんとうに守るべきものというのは、自らの神性、神の子としての愛、けがれのない神の子としての誇りです。

そのことをほんとうにあなた方がわかったのなら、今肉体を持っているこの三次元において、あなた方は何をなさいますか。
どのように一瞬一瞬を使われますか。
そのことを考えて生き抜けばよいのです。

何かを守るため、家、屋敷、財産を守るため、果ては愛する妻を、愛する子どもを守るためといって、正義のように語られた多くの美談があります。
でも、子どものため、妻のため--、守らなくていいというのではないですよ。
男なら守るべきであると思う。
正義という名のもとに守るべきであると思います。

ほんとうに大事であるのは、神の子として、わたくしたちの使命、何をやるために命を張るべきなのかということ、それをしっかりと見つめることなのです。

ですから、肉体を、お金を、世間的な地位を、職業を守るために、他者を傷つけたり、他者を憎む気持ち、憎しみを持つのであるなら、それは取り返しのつかないことになるのです。

7.アナキン・スカイウォーカーはルシフェル、サタンの姿そのもの

余談ですが、昨日この(アマーリエ)家の者たちは、『スター・ウォーズ』を見ておりました。子どもたちもみんな喜んで見ていたのを、わたくしは脇で見ておりました。

映画の中で、アナキン・スカイウォーカーという者が、ダース・ベイダーになって闇に堕ちていく、その過程を見て、この家の子どもたちはひじょうに興味深いディスカッションをしていたのですけれども、あのように力のある者が、闇に堕ちていくとき、それは何ゆえに堕ちていくのか。そこを強く描いた作品であったと思います。

最初から悪人だから闇に堕ちていくのではないのです。母親が殺されたことに対する怒りであったり、自分の妻を殺されるかもしれない、妻を守りたいと、そのために彼は力を欲しいと思ったかもしれない。大事な国の平和ということもあるのだけれども、でも、いちばん大事なことは、何を守るにしても、神の子として、どんな道を歩むことが、本来の生きるべき姿であるのかーー。

神に与えられた、地上の者たちへの教えに「一念三千」があります。心の針というものが、天上界に向く、地獄界に向く、人間であるならばそれは一日中クルクルといろいろな方向を向くものなのです。そこに自分の使命をかけたとき、神の子の誇りをどこに向けて生きようとするか、選択していこうとするか。

たとえ、自分の愛する子どもや妻を守りたいと思っても、それが本来の道であるのかと、ましてや地上の肉体においてーー。

戦闘系の者たちは死ぬことを怖がりません。肉体を捨てることに対して吹っ切れている者たちが多いのですけれど、やはり肉親の情というものは絶ちがたいものがあるのでしょう。しかし、神の子として神の星を建設するにあたって、何を最優先にするべきか、情のために、神の子としての気高い神性というものを売り渡してはいけない。そのことを学ぶためにあの作品はあるのです。

そういうメッセージの込められた、ひじょうに奥の深い作品であるとわたくしは思います。
あれはキリスト教的な背景があると、昨日も話しておられましたね。そしてアナキン・スカイウォーカーが、ルシフェル、サタンの姿に見えるということをこの者(アマーリエ)も言っておりました。

ルシフェル、サタンというものが、なぜ、いまだに消滅されずにこのようにーー、サタンという名であなた方もひじょうに苦しめられているのを見ておりますけれども、神がおられるなら、なぜあのような者を野放しにし、神の子たちを、そして今回の第二回目まで、神の子たちの大救世の計画が潰されるのを放っておかれるのかと、いろいろなところから怒り、不満が沸き起こっています。

確かにそうでしょう。一生懸命、命がけでやろうとしてきた者たちが、サタンたちの惑わしに遭って、次々と救済の計画が潰されて、「天上界で、もしほんとうに神がいるなら、高級霊がいるなら、なぜあのようなことを許しておかれるのか、答えてくれ、神よ」「わたくしはもう神など信じない」と言って、去っていった者たちも多くいます。
彼らの、真剣であったがゆえの怒りもわかります。

でもどうかわかってほしい。ルシフェル、サタンも、けっして悪人であったから堕ちたのではない。その本来の姿をわかっているからこそ、ミカエルが必死で守ろうとし、彼に対しても、本来の光の天使である姿に戻ってきてほしいと、そう思って、必死に耐えて、愛をもって、救世しようとしているのです。

アナキン・スカイウォーカーという者を見ていると、ほんとうにルシフェルの姿そのものなのです。彼は美と知性の天使といわれました。美しく、気高く、その思いも、知性もすばらしく、九次元を凌ぐくらいのものを持っていました。力も強く、その姿は神々しいまでの美しさだったのです。しかし、力があるゆえに、自らが神になりたいと、思いがいつの間にかすり替わっていったーー。

初期においては、彼がいたベーエルダにおいても、気高い意思ーー、メッセンジャーとして協力するための、気高い神の子の意識をもって、この地球に赴任してきていました。そして、数々のすばらしいことをもって、地球を指導したことも事実なのです。

ルシフェルが堕ちていった過程は、まさに映画に描かれていた状況と似ているのです。けっして悪者であったから、悪人であったから、ダークサイドという闇の中に堕ちていったのではないのです。人間ならば迷いがあります。肉親や情や正義感や、そういうものにおいて、人の心というのはほんのわずかなかけ違いで、神の心から悪の心に、瞬間にして切り替わってしまう。力あればこそ、瞬時に変わったときに、下の者につかまったときの反作用というのは大きい。本人が抜け出そうと思っても、反作用の大きさに身動きがとれなくなって、捕まってしまうのです。

わたくしたちも、一生懸命ルシフェルを説得し、救出しようとしました。しかし、永遠の時の流れの中で、彼自身がその苦しさを身をもって知り、彼自身が理解する、その過程を経なければ救出は無理なのです。

8.愛が忍耐であるということをわたくしたちは学んでおります

答えだけを与えてわかるなら、わたくしたちはいつでもあなた方に答えを与えます。
でも、問題集でただ答えを与えるだけで、あなた方に実力がつくでしょうか。
心の底から理解して、わたくしたちのもとに、ともに神の星をつくるために、喜んで協力してくれるでしょうか。

違いますね。
人というのはどんなに答えがわかっていても、心の底から納得しなければ、同意できなければ、何の努力もできないし、何の意味もありません。
だから、間違うことでは、神は、神の子たちを裁きません。

そのための慈悲として、神は永遠のときをあなた方に与えているのです。
この永遠の繰り返し、転生輪廻という過程を通して、自ら傷つき、自ら悩みながら、数々の人生のテーマを持ち、「人びとよ、神の子たちよ、一つひとつ学んでいきなさい。しっかりと魂の底から学んだことだけが、あなた方の魂の力になるのですよ」と言って、神は、永遠の修行として、転生輪廻という過程を組み込まれたのです。

だからわたくしたちは、間違うことを恐れて臆病になるような、自分だけが正しいとして他者の非をなじり合うような、そんな愚を犯してはなりません。
あなた方は今、すばらしい正法の中にいると思われるかもしれないけれど、過去世でどうであったかはわからない。
過去世において、間違いをしていない者など皆無です。
でも、それでいいのです。
それだから人間なのですよ。

様々な感情、複雑な、正論ばかりでいかない悩み苦しみ、そのような感情を持てばこそ、真の愛が何であり、真の優しさが何であるかということーー、その体験を通して、他者に対する真の愛の表現を学べるのです。
それが神の子の姿です。
わたくしたちはその過程として、この地上の修行を受け入れねばなりません。

この肉体、この地上にあるあなた方ならば、八十年足らずの時間をどのように生きるか。
その結果を、それぞれが選択できるはずなのです。
やり残しても良いのです。
来世があります。
学び残したなら、わたくしたちの世界にさえ戻ってくるなら、その先を学ぶことができるのですよ。

でも、現世で学べなかったからといって人を蹴落として、自分はここにいたいからといって、心を暗黒面に売ったとしたなら、帰っていくのはわたくしたちの世界ではないのです。

だから、たとえ仕事が途中であろうと、肉体、財産、さまざまなことがあろうと、肉親がたとえ殺されようと、神の子として、純粋に愛の方向へ向かった、神の子としての誇りある人生、それを貫き通さねばなりません。
そういうベクトルさえしっかりと固定されていたのならば、永遠の時の流れの中で、焦らずとも、いくらでもあなたたちは進歩発展できるということなのです。
下に墜ちるのではなく、上に、光のもとへ歩み続けていけばいいのです。

前回、エル・ランティが出られたときに、愛とは忍耐であるということをおっしゃられていたと思います。
わたくしたちはそれを学んでいるのです。
目の前で苦しいことがあったら、「神よ、この苦杯を取り除き給え」という願いを、地上の者たちは祈りますね。
病が苦しいから、苦しい貧困があるから、「わたくしたちを幸せにしてくれ」という、どちらかというと自分の欲から出たような祈りが、たくさん、たくさん、わたくしたちのもとにやってきます。

でも、もしその苦い杯を取り除いてしまったならば、あなた方の人生の中に、成長と鍛錬はあるのかと、あなた方にとって真に意味のある人生を生きるきっかけはあるのかと、そこを思うからこそ、すぐにでも取り除いてあげたい、病気でも何でもすぐ取り除いてあげたいと思っても、わたくしたちは沈黙をもって答え、すぐにはけっして病を取り除かないのです。

なぜなら、病を通してしか、その者が人生の意義というものを学べないということだからです。
それを計画しているご本人のことを思うのならば、絶対にその病を取り除いてはいけないということもあるのです。

貧困の中で愛を学ぼうと思って、出てこられている方がたもおられます。
ならば、安易にお金を天から降らすことが、神の愛ではないということです。
そのことをわたくしたちの立場から申し上げておきます。

9.サタンのトリックに引っかかるのは、地上の者がまだ学んでいないということ

それなら、あなた方の人生を、これからどのように生きていったらよろしいのか。
そしてルシフェル、サタンに対してわたくしたちがどのような思いでいるのか。

ルシフェル、サタンが戻ってくる日を、わたくしたちみんな待ち望んでいます。
彼が悟り、気づき、戻ってくるならば、この地上にいる者たち大半の者たちが気づき、帰ってこられる。
そのような星になれる。
そのときまで、あとどのくらいかかるかわかりません。

でも、やるべきことをやりながら、永遠の忍耐をもって、サタンがルシファーと呼ばれる前に、ルシフェルと、エルと呼ばれていた、神の光の天使と呼ばれていた彼が戻ってくる日を、わたくしたちは待ちわび、彼を迎え入れていきたいと、彼が戻ってきたときに抱きしめてやろうと、そのような思いで、九次元の者たちは待っているのです。
それが神の愛なのです。

彼によって我々の計画が、何度も何度も潰されてきました。
今回の文明だけではなく、アトランティスにおいても多くのむごいことが起きてきたのです。
でもそれを通してわかったのは、そのサタンの策略に、トリックに引っかかる地上の者たちにとって、それはひとつの学びの姿であったということ。

もしトリックを仕掛けられても、それによって、神の子としてどのように生きるべきかということを、地上の者たちが学んだのなら、サタンが何をしようと、何の意味もないことなのです。
効力もないでしょう。

でも、次から次へと策略に陥れられていったということは、地上の者たちがまだまだ、何が神の意思であり、神のもとに自分が何をしなくてはいけないのかということを、学んでないということだったのです。
つまり、我々はまだまだ地上の者の修行ができていないということ。
だからこそ、サタンの動きを封印しないのです。

ですからあなた方は、神の姿を見てもじれったく、神も仏もあるものかと、よく呪いに近いような言葉を言いますけれども、どうか苦しみに負けないでください。
苦しみも、わずか地上に住む数十年です。
苦しみの中を通してしか学べぬこともある。

先ほど聞いておりましたら、ヘレン・ケラーと呼ばれている、美しい女性が出ておられましたね。
三重苦の中で、彼女はどれだけ苦しかったことでしょう。
何も聞こえず、何も見えず、何もしゃべれず、一切の外界とのコミュニケーション手段を遮断された、真っ暗な孤独の淵の中で、しかし彼女は、己の神性を輝かしきったのです。
あのような肉体の中においても、燦然と神の子として光り輝くことは可能なのです。

あなた方はどうでしょう。
五体満足で、他の方以上に知性も教養も持っている方がたです。
そして神の使者としての使命も言い渡され、この場所にいて、毎週毎週、わたくしたちの言葉を聴くことができるのです。
ならば、ヘレン・ケラーに比べて、あなた方は、何十倍、何百倍も光り輝いてよいのではないでしょうか。

できないことの言い訳を探すのではなく、できぬ自分を恥じて、できる限り、残された数十年の命の中で、その肉体の中で、今の環境の中で、最善に光り輝かせるということ。
その道を選ばれること。
それこそが、地上に出たあなた方としての、実りあるすばらしい時の使い方ではないかと、わたくしは思うのです。

言い訳をすれば、いくらでも言い訳の種は見つかるものです。
でもこのような状況で、我々九次元の言葉をこのように毎週聴ける方がた、そして理解し、素直に受け入れられる方がた、そのような方がたはここにいるあなた方ひと握りでしかないのです。
わたくしたちの世界から見たら、ひじょうにまれな幸せの中にいるあなた方ならば、今回の転生を大事に、大事になさられーー。

10.無私な思いで愛の種を蒔く

具体論はあなた方一人ひとりが探すのです。
そこまでの手取り足取りを神に望んではなりません。
一人ひとりの地上の修行があるのですから、できることを探す。

そして、あるというのは目先だけではないのです。
人生を通して、行動を通して、愛を表現していくことをもってこそ、愛の意味がわかり、神の子が愛の表現体であるならば、愛というものを行動の中で、人生の中で、あなたなら何を表現するのか、何を生きるのか、何をしようとするのか、オリジナルのものを工夫して出さなければ、そんなことまで口を開けて、神から棚ぼたのように霊言を待っているのであるのなら、そんなものは何もあなた方の修行にならない。
先ほど言った、「苦しいから病を取り除き給え」「苦しいから貧困を取り除き給え」というのと同じなのです。

あなた方はもっともっと、光の天使として、自らに厳しくあらねばなりません。
わたくしたちはそういう意味で理念を降ろしているのです。
その理念の中で、今あなたが何をしなければいけないかがわかったならば、地道に足元を固めながら、やるべきことをやりながら、その上で、個人においては、自らの個性を、自らの仕事を持っているのですから、それを通して具体的に何ができるかということから逃げてはなりません。
それを考えるのが、あなた方個々の悟りであるということ。
そこから逃げて、一人ひとりの神の子の悟りはないのです。

仏教者の中には、悟りというのは阿羅漢になり、ボサッターになり、数々の修行、難行苦行をやったり、経典を読んだりとか、難しいことを学んで、目先だけで愛を語り、目先だけで法を説き、目先だけで宗教を、神というものを語ることが修行の課程であり、悟りであるというふうに誤解されているかもしれない。
しかし、そんなことはないのです。

当たり前の人生の中に、当たり前に積み重ねる日常の中に、あなた方の悟り、人生の進化が問われているのです。
だから、学ぶことはしっかり今学んで、自分の人生の中で何ができたかという結果のみをもって、修行の結果というものが出てきて、それが自分自身の悟りの高さとして問われるのです。

どれだけ言葉を学んでも、どれだけ目先で偉そうなことを言っても、どれだけ立派な教団をつくって帰ってきても、その行い、行動の質において、ほんとうの意味で他者の痛みを、他者に対して愛を分け与え、指導していく立場になかった場合には、それは本人だけが良いと思っていたことであり、天上界においては誰も評価しないし、その者にとっても少しも評価としては返らず、まわりから軽蔑されるだけなのです。

目先だけではいろいろなことを言っている者がおります。
嘘八百を並べながら、人を先導している者がいるのです。
でも、その者たちを怒ることはひとつもないのです。
放っておけばいいのです。
宇宙をあまねく貫く因果律の中で、自分のやったことは、今度は自分の元に何百倍にもなって返ってくる。
それが法則としてあるから、あなた方が裁く必要はないと、前にもほかの霊人がおっしゃられていたと思います。

その法則の中にあるあなた方も同じです。
愛の種を蒔けば、何百倍にもなって、自分に戻ってきます。
無私であれというのはそこなのです。
見返りを求めず、無私な思いで愛の種を蒔いていったのならば、いらないと言っても、その何百倍もの幸せとなって、あなた方の人生の中にかえってくるのです。

今世死ぬまでに「あの人はあんなに神のために人のために生きたけれども、少しも人生の中でいいことなかったじゃないか」と、言う話も聞かれるでしょう。
でもそれは、この肉体の数十年だけを思うから、何もないと思われるだけなのです。
必ず、ほかの人の幸せのために努力なさった方は、今回の人生を終えて、こちらの世界に戻ってきても、そして来世においても、すばらしい祝福となって、愛として、本人に戻るのです。
それは法則なのです。

ですから、自分が一生懸命人のために行ったことを、もったいないとか、無駄なことをしたなんていうふうに思うことは、少しもないのです。
心根において、ただただ無私な思いで、他者を幸せにし、自分の愛を分け与えていくことに生涯をかけていきなさい。
それこそが光の天使であり、それこそが神の子の本来あるべき姿です。

その神の子たる本来の姿に、地球の一人ひとりすべてがなったときに、この星は誰も殺し合いをしたり、他の者を中傷したり、陥れたり、飢饉や、子どもたちが死んでいくような貧困や、悪想念が満ち満ちたところからくる病ばかりが流行るような、そういう事態は終わりを告げるのです。

そして、大調和の姿としてこの地球が愛に包まれ、神のもとに戻っていったときに、地球は神の国ユートピアになって、人びとは幸せに満たされることでしょう。
そのことをもって悟りというのです。

11.易しい言葉で語ってこそ神理である

悟りというものを難しい難解なものにしてしまった罪は、我々指導者にもあるかもしれない。
多くの人びとが、小さきもの、弱きものの幸せのために生きる姿、それこそを宗教は目指し、神は、宗教を様々に興しながら、地上の者たちを指導してきたのです。

神の子たち、あまねく神の子たちを、幸せに生かしたい。
神の子本来の姿に戻していくことにより、大調和の中、この星を祝福された愛の星にしていきたいと願うその姿こそが、神のもとへ導く道であり、悟りの階梯なのです。

はき違えてはいけません。
いつの間にか、悟りのはしごを昇っていくことが、まるで自分の地位や、位を上げていくかのように思ったり、悟りを、難しく難解な、一部の者たちだけのものにしたり、ハードな修行、難行苦行を通した、一部のエリートたちだけの、苦行の姿であるというふうに、誤解させてはなりません。

すべての者たちが、心を切り替えていったならば、すべての者たちが、一躍跳入、神の子の、悟りのボサッターの境地になっていけるのです。
簡単なことなのです。

「自分を愛するように他者をも愛せ」と、インマヌエルが、イエス・キリストがおっしゃられた。
それを実行するだけーー、心根において、思うだけーー、それで、神の子の愛の姿に戻っていける。
それほどに簡単なもの、難解なものではないということ。
それをわたくしは、法を預かる立場の者として、語っておきたいと思うのです。

インマヌエルは、イエス・キリストは、ナザレの地におかれたときに、易しい言葉で、自然に、娼婦たちにもわかる、当時何の学問もない者たちにもわかる易しい言葉で、神の愛の法を説かれたように思います。
易しい言葉で語れるのです。
易しい言葉で語ってこそ神理であるということ。

座礁してしまった計画の後始末部隊として、あなた方はご苦労をされているのですけれども、法の再編纂、霊言集の確立、理念の確立、天上界の青写真を地上に降ろし、次の者たちへ引き継ぐという、大使命があられるのも事実です。
それができたのならば、今度は神の法というものを、根源的なところで、易しいところでまず唱えなさい。

難しいものを難しいとして言い立てることは簡単なことです。
難しいところまで高まっているものを、簡単な言葉に絞って、万人にわかる言葉として、エッセンスを出していく。
それこそがほんとうに実力のいることなのかもしれません。
そして、その易しい言葉で神理が伝えられていったとき、地上の二割の、難しいことがわかる者より、八割の、難しいことのわからぬ神の子たちを救っていけるのです。
八割の者たちが救われなければ、この地球は愛の星にはなりません。
八割の者たちも神の子たちです。
その者たちにわかるように伝えるのが、神の慈悲でもあります。
神のお心でもあります。

仏教の最高峰としてエル・カンタラーが、法の高みというものを降ろされるご使命がありましたから、高みをひじょうに難解なものとして降ろされたこともあるでしょう。
しかしそのあと、無駄な難解さに陥って、道を誤ってしまいました。
高みを出しだのなら、次は広がりが必要なのです。

広がり、大衆伝道に出していくには、法の高みにあったものを、ポイントを絞った愛のエッセンスにして、易しい言葉で伝えていく、その作業に当たらねばなりません。
それが、もう少したったら、あなた方に対する使命として出てくるのです。
次はそこにくるのです。

数々の書籍が出て、多くの人びとが手にとり、違和感なく、我々の霊言集や、神の語る言葉が、人びとの心に染み入っていくときをもってこそ、人びとの中に、霊言ブームと申しますか、レムリアの書籍によって、多くの方がたが連鎖反応的に救われていくという事態が起こるのです。
難しいものを難しいとして出さないでいることは、巷の霊媒師と同じであると思われるということもありまして、ある程度難しいことも申しております。
しかし、わたくしが思うには、法というものは元来が易しいものであるとーー。

あなた方は、一度オリオンからの通信を受けたことがありますね。
オリオンの、この方(アマーリエ)の母上からきた通信です。
彼女の言葉には、大きな愛とやさしさが満ちています。
彼女の言葉、「難解なものはいらないのだ」と、「神の子として、あなたらしさを、あなたの愛を表現して帰っていらっしゃい」と、母親としておっしゃっていたでしょう。
その姿に尽きているのです。

けっして難しいことばかりを、頭でっかちに言っていることが、進化した証ではない。
愛のレベルの高い星ではないのです。
愛の思いにおいて、愛の感性において、すばらしい感受性の中において、愛というものを抱きしめて生きている。
そのように表現して生きておられる。
その質の高さ、その感性の豊かさ、それこそが、進化した星の方たちの愛の姿なのです。

法の極みを管理するものは、その時代の最高の知者、賢者という者たちが頂かることは実際にあります。
しかし、みんながみんな難しい顔、しかめ面をして、難しそうな言葉で、難解な哲学的な議論をしなければ、愛というものの価値が高まらない、高度な星にならないと思うのは、大きな間違いであるということ。
わたくしは法を管理するものとして、あなた方にお伝えしたいのです。

大多数の者においては、自分自身が神の子であるということーー。
愛の化身であるということは、単なる情実に溺れた愛で、情念だけで愛を捉えるのではなく、やはり、他者と分かち合い、他者の幸せを願う、その愛の心こそが、本来の愛の尊さであり、それがすべての宇宙をあまねく照らす、神のお心であり、神そのものであるということ。

そこに至るのが、神の子としての使命であり、方向性であるということ。
それをしっかりと認識することが大切なのです。

12.善悪の悪と呼ばれているものは自由意志の濫用

この地上においては、二元論的に善悪というものーー、「スター・ウォーズ」という映画におきましても、ダークサイドとフォースというのを預かる善なる者との戦いという、二元論的に、キリスト教社会では描かれていると思います。

なぜ二元論的なところで出しているか。
それはまだ地球が未開発の、小学校レベルの星であるからこそです。
未熟だからこそ、二元論がまかり通るのです。

大宇宙に二元論はありません。
日本神道の方がおっしゃられるように、光一元になっていくのです。

闇というものは、ダークサイドというのは、そのように未発達の、神の子としての神性を悟らぬ者たちが多く住んでいる星で、人間が神より与えられた、創造性という自由意志を乱用した姿の、影の部分として、ダークサイドが出ているのであって、大宇宙を照らす、大いなる愛の法則、愛のエネルギー体から見たのならば、ほんのわずかな一点の、小さな、小さな影の部分にすぎないのです。

圧倒的な光、圧倒的な愛の荘厳な旋律の流れる大宇宙で、愛のエネルギーを湛えている圧倒的な愛の量からみたのならば、悪といわれている、善悪の悪と呼ばれている者たちが放つエネルギーなどは、ほんのわずかな点にも満たぬのです。
そして、これは地球だけではなく、ほかの星でも、未発達のところでは、そのような段階にあるということは事実です。
それは発達段階としてあることなのです。
自由意志の濫用です。

神は神の似姿をもって、神の子たちを創造されました。
神自らが、創造されるということを、天地を創造されたという創造するエネルギーを持たれているゆえに、わたくしたちにも自由意志で、創造する力を与えられております。
それをすばらしい方向に使っていくのか、そしてダークサイドのほうにくるような、悪想念としてのエネルギーをつくることも、それはわたくしたちが修行過程として与えられているものなのです。

ですから地球という星のレベルの低さによって、このような陰の部分が、人間の自由意志においてつくられているわけであって、神のお心が、神が地獄界を創造されたのではないということ。
そのこともわきまえていただきたいのです。

この地球自体が浄化され、小学校レベルから中学校レベルになり、傷つけ合ったり、殺し合うことが、結果的には自分自身のためにならぬのであるとーー。

人の幸せを願うことがめぐりめぐって、自分の幸せにもなるのであるということがわかってきたのならば、暗黒面の部分、地獄界の部分というものは、自然に抹消され、消滅していくのです。
そのときを、悠久のときの流れの中で、我々は待ち望んでいるのです。

地球意識がお苦しみになっておられるその姿を、ほんとうに申し訳ないことであるとわたくしたちは思うけれども、「どうかどうか、地球人が、神の子たちが、迷いながらも学んでいる最中であります。
もうしばらく我慢していただけないか。
もう少し学んで、彼らが脱皮するときまで、お待ちいただけないか」というふうにお願いをしながら、地球という場所を修行場として、お借りしているということが事実なのです。

地球意識も相当お苦しみであられます。

13.霊的な進化を遂げる追い風に乗ってきている水瓶座の時代

そのことを考えると、もうそろそろ脱出していかなければなりません。
いつまでもこのようなことをしていたら、がん細胞のようになって地球意識が苦しまれているし、地球人としてもあまりにも進化発展がなさすぎるのです。

大きなターニングポイントとして、今回の救世の大計画が降ろされているということ。
そのために、九次元が何人も何人も降りてきて、天上界が総力を挙げて、このような異例の通信を送っているのです。
そうでなければ、過去のような単なる修行場だけで、次の文明を降ろせばいいということであるのならば、とっくにこの文明はなくなっているでしょう。

でも、このチャンスを、ここまで進化させるのに、わたくしたちは数千年という時をかけて、この文明をつくってきました。
数千年、数千年といいながらも、アトランティスのときからみたら、また数万年というときを考えながら、ひとつの大きなローテーションの中で、わたくしたちは地球を進化発展させているのです。

このチャンスを逃したならーー、アクエリアス、アクエリアンエイジ、水瓶座の時代と呼ばれている時代の中で、このひとつのバイブレーションの中で、霊的な進化をとげる、ちょうどいい追い風に乗ってきている時代なのです。
このチャンスを我々はちゃんと使って、地球の次元を上げていきたい。
そのためにも、思想的な意味でも、この計画の続行というものを、ひじょうに無理な形かもしれませんけれども、あなた方にお願いしながら、今日引き継ごうとしているのが実態であります。

わたくしたちにはわたくしたちの世界でしか言えぬもの、言えぬ、考えて苦しんでいることというのがあるのです。
あなた方には、無理なお願いばかりを申し上げて、申し訳ないと思っているのです。
この者(アマーリエ)におきましても、あと何年これをやっていけるかわからないけれども、最後のときまで、わたくしたちの言葉を伝える通信塔としての使命を、果たしていただきたいと思っております。

この者は、オリオンにいたときから、このような特殊な能力を持っている者でありました。
アトランティスのときは、わたくしはこの者とともに、使命を果たしたものでした。
ですからこの者が、どのような力をーー、自分を信頼しないで、自分の使命から逃げようとしておりますけれども、この者がほんとうの力を出したときに、今回の計画の、いちばんの適任者であるということを天上界で判断して、この者に使命を降ろしておりますので、その分ちょっと自分にも甘いところがこの者はありますから、どうかみなさま方で盛り立てて、助力していただいて、逃がさないようにしながら、使命を果たしてくださるようお願いいたします。

愛というのは無限なものです。
あなた方の心に湧いてくる、ふつふつと湧いてくる愛の思い。
神の子としての愛の思い。
それは永遠に無限に出てくるもの。
しかし、それは自ら自身を信頼することからしか出てきません。
自己を否定して、自分の現実から逃げたときには、神がお与えになった、あなた方に本来つくられた、能力も、才能も、愛の力も、出てこないのです。

ですから今回一度っきりの人生、今の瞬間を生きるのは一度だけです。
今というこの瞬間に、神の子として最大限、あなた方の尊厳と誇りをかけて生き抜き、愛の心を発信し、輝きわたらせ、一条の光として、あなた方が立派に使命を終えられ、わたくしたちの世界に戻られることを、お待ち申し上げております。
そのときこそ、天上界の者たちはあなた方を、拍手喝采をもって迎え入れることでしょう。

地上で富や財産や、地位や名誉を手に入れることよりも、神の使者として、地上で、すばらしい人生を生き、天上界に喝采をもって戻られる、そのことをあなた方が、本来の自らの幸せであると思っていただけるならば、わたくしたちのためにも、地球のためにも、神のためにも、そしてあまねく神の子たちのためにも、愛の存在を光り輝かせ、戻って来られることをわたくしは望みます。

少し長くなりましたけれども、マイトレーヤーとしての話をさせていただきました。
わたくしの法の話は、多少仏陀とは違っているかもしれません。
でも、星を越え、どんな立場をも越え、法を預かる者は、神の思いを伝えるところに使命があります。
わたくしが説く法、マイトレーヤーとして説く法も、エル・カンタラーとして説かれる方の法と根本においては同質です。

これからも、あなた方から要請されるならば、法の輪郭について、お話しできることはさせていただきたいと思います。
どうかわたくしをこれからもお呼びくださることを望みます。

今日はありがとうございました。
失礼させていただきます。

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