top of page

Project Eden

第3章 モーリャ:己心の魔とは何か

1.魔とは己心の魔、自らの中に潜伏している要因がある

2.プロセスにおいて反省することはとても難しい

3.昨日今日できたカルマで爪を引っかけられることはほとんどない

4.人の数分だけカルマはある

5.不退転の境地の者しか、これからはもう集えない

6.どの世界に行くのかを決めるのは本人たちの心境

7.今後は本気で腹をくくった者たちだけが集まって来る

8.反省とは客観的に自分自身を点検できるかということ

9.霊言のパイプをしっかりと死守し、世界に向けて発信せよ

10.魔と対峙することは念と念のぶつかり合い

11.祈りや反省は人前で行うスタンドプレーではない

12.神理の代行者であるのだという気概を持つこと

13.この地上の人の八割は易しい法でしか救えない

14.パイプが詰まったなら即座に霊言を発信することを中止する

15.問題の原因が何なのかを学ぶことが大切

16.けじめをつけて確実に前へ進んでいく

17.魔は波長同通によって自分たちが引き込んでいる

18.社会を根本から変えられるような実践的な法を残す

1.魔とは己心の魔、自らの中に潜伏している要因がある

平原: 今回の事件で、何度も魔にやられてきたということが最近になってよくわかったんですけれども、今後、これからも魔の攻撃はあると思うんですけど、そういう場合、どういう心構えでどのように対処すればよろしいでしょうか。ご教示ください。

モーリャ: モーゼです。あなた方がこれから積極的に、我々の言葉をこのように収録し、第二冊目、第三冊目の霊言集を出そうというふうな前向きな気持ちでいてくれることを、わたしはたいへん心より喜び、感謝しています。

今回の事件を見ましても、やはり次から次へと魔の攻撃というのが、襲ってくるのを見ておわかりだと思いますが、我々の目から見たらこのような事件がくるよいうことも、やはり想定していたことなのです。

かって高橋信次、エル・ランティがあなた方の前で申されていたように、魔というのは己心の魔であると、自らの一人ひとりの心の中に、爪を引っかけ登ってくるのであるということを、何度もあなた方に言って、G会時代の時もそれをいちばんの、魔に対するあなた方の心構えとして、高橋信次という方は教えを残されて、現象を通して魔とのあり方というものを伝えられていたのではないでしょうか。

しかし、時はたち、今もうちょっと高度な意味での魔とのつきあい方、魔のトリックの見破り方ということを、あなた方は学ぶ時期にきているのかもしれません。
相手に憑いているものが高橋信次のようにわかれば、一発で何にその人が誘導され、どのようにトリックの中で動かされているかということはわかるのですけれど、多くの人の場合はそれがわかりません。

わかる者がいたとしても、今回のようにこの者が、後ろにいる者がこういうものであるということを言って警告を発しても、それはこの者の作り話であるとか、相手を陥れようとしている、そのようにすり替え話であるというふうに、結果的に、言った者が悪者にされ、話がすり替えられていってしまうという、そのような危険性があるのです。

ですから霊視ができなくても、魔を見破ることができなくても、どのようにしていったら我々が、魔に侵されれているときに、自分がおかしいのではないかというふうに思う、そのような手がかりというものをわたしは少し、あなた方にお話ししようと思う。

そして、いつまでもこのような平和な状態というか、このような状態が続くのではなく、もっともっと格段と上の者たちが足を引っぱりにやって来る。それは神理の使徒としての宿命であると思ってほしい。

こういう方法論をモーゼであるわたしやミカエルが、絶対このようなことをしたら、絶対にもう魔には惑わされない、もう二度と魔の誘いなどこないなどということは、この神理の運動をやっていく過程においては、そんなことは絶対あり得ないのだということ。

逆に言うと、やり続ける限り、彼らのトリック、彼らのささやき、魔のささやきというものからは逃れられないのだと、逆にみんな腹をくくっていただきたいのです。ありとあらゆる方法で、魔はトリックを仕掛けてきます。

それは昨年末にしても、この間の、あちらのもうひとつの事務所ですか、あちらであなた方が集まっていた新年会の時でも言ってあるはずなのですけれども、わたくしたちのほうから見ると、ひじょうに危険な状況であったにもかかわらず、でもその中で、あなた方が学ぶことがまだまだあるであろうと思えばこそ、あそこで集うことも、あそこで聖母マリアがお出になるということも、神は認知されて、あのような霊言というのが降ろされたのです。

ものごとには両面あります。あのような、今回のようなことが起きないほうがいいということも事実なのです。神理の運動においてはね、スムーズにいくというーー。でも、では起きたら、起きてしまったということが、すべてにおいて全くマイナスであっただろうか。そのように考えていただきたいのです。

今ここで聴いている、質問者であるあなたはお医者様でしょう。いかがでしょうか。病気という症状が出るまでには、それなりの長い間の不摂生とか、何かしらの要因というものが積み重ねられた結果、ある時期がきたときに病状として発現するのではないかと思うのです。

原因が長いこと、潜伏期間があればこそ、ある一定の時期がきたとき、癌細胞などでも、それが癌化してひとつの表面で、病気という形になるのであってーー。
じゃあ、その、なった時点だけが悪いかというと、実はその前十年、二十年がかりで癌細胞をつくってしまったという、そういうこともあるのではないかと思う。それが我々から見る魔とのつきあい方、そして、魔に落ちていくときの我々の反省の仕方でもあるということなのです。

その時点だけを見て悪いと思うのではなく、たとえばあの上野ですか、上野の事務所に移ったからすべてが悪いのではなくて、上野に誘導され、そして、上野を通してあのような、膿出しのような、とんでもない大トラブルが発生したということ。

それには、それまでに至る経緯として、その潜伏していた要因というのがすでにあったということなのです。それはEさん自身にもあったしね。そして、それをあなた方がまだ学んでないという意味において、レムリアの仲間すべてにもやはり、そこに要因があった。

もしほんとうの意味で、それがわかっていたのならば、あのような事態を引き起こさなくて済んだかもしれない。もっと以前の段階でEさんを止められていたかもしれないし、Fさん、Aさんという者たちにおいてもそう。でもやはり彼らは、Aさんにおいても、Fさんにおいても、もともとそういう要素は持ってうた方たちなのです。

2.プロセスにおいて反省することはとても難しい

それがその、今回のような、神理の仕事をしていく、時間をかけていく中において、やはりそれがいいほうに出ていけばーー。たとえ腫瘍でも、良性腫瘍になるか、悪性腫瘍になるかっていうことと同じで、そういう細胞が変化を遂げても両方に変わる場合があるでしょう。そのときに悪性腫瘍になってしまうのか、良性腫瘍で終わっていくかっていうことは、それはどちらかになるターニングポイントがあったということ。

それは精神状態においても同じなのです。人間は完璧ではないから、その個性、個性に応じて誰でも素晴らしいところもあるし、間違ってしまうような悪い、もろいところは誰にでもあるのです。あなたにもあるし、この者にもあります。それゆえに個性というものがあり、人間というものが神に許されて生きている姿というものがあるのだから。

でも、そこの欠点というか、個性の短所において、やはりそれを多くの意味で、自分を欺き、他を欺き、神を欺いていったという、その積み重ねの中で、その他者を裏切っていった、傷つけたっていうマイナスの実績、思いというのが積み重なっていったときに、単なる良性腫瘍になれるか、それとも悪性腫瘍と変化してしまうかというのが、その積み重ねた年月分、人を傷つけた分だけにおいて、悪性腫瘍になるかならないかが決まるのである。

だから今回において、最後とどめがあって、いきなり変質したように思うけれども、それは彼らの中にもともと蓄えてきたもの、そういうものがあったということ。そして、それが今回の事件が引き金になって、彼らが間違いなく悪性腫瘍に変化してしまったということ。

そういうことがあるのだと思って、あの上野に行ったから、そして、あそこで、レムリアで間違った指導を受けたからいきなり癌化して、彼らがあのような姿になったというふうに思ってはいけないということなのです。

それを魔に対する、魔とのつき合い方という方法論に置き換えてみたときにね。あなた方がどれだけ、その自分の中にあって、自分の短所における部分において、自分自身においても、周りの他者に対しても、知らず知らずのうちにどれだけ傷つけてしまって、人びとの反感を買っていたかということ。その点検というものをいつもしながら生きていきなさいということなのです。

なるべく腫瘍をつくらないこと。良性においても悪性においても、反省行というものを通して、その思いというのを清算していったならば、そういうものはなくなるのです。
みんな八正道というものを通して反省すれば、Bさんの時もそうですけれども、自分はこれだけ反省している、Eさんもこれだけ反省しているから自分は十分反省はできていると思っていあるかもしれないけれど、反省ほど難しいものはないのです。

反省するには、こういうふうな事態が起きてみたときに、こういうふうに大きく表面化してみんなに非難されたときに、ああ、やっぱり自分の中にあったものが、明らかに間違っていたと、申し訳ないというふうな境地になれてこそ、これは真の反省であるというのかもしれない。表面化していく過程の中において、やはりプロセスにおいて人は、反省することはとても難しい。

でも今回のように表面化して、明らかに悪性腫瘍になりかけて、みんなからいろいろ言われたときにこそ、反省のチャンスであり、自分が今まで間違った方向にうっ積し、ため続けてしまった、そういう方向性を自分で認識する、大きな神より与えられたチャンスであるということ。

そのことを、もっと一人ひとりが認識し、それの、こういう地上における体験、そういう行動における結果をもって、自分の中で、自分というものがどういう、いいところもあるけれども、間違ったことをするのかということ。

そのことを、しっかり真摯に受け止めて、自分という魂を反省し、矯正し、そして、本来の光の方向にもっていく。そういう素晴らしいチャンスが与えられている。そういうふうに自分の魂というものを研さんしていく。

そういう姿がわたくしなどのような者から見たら、逆に言うと、悟りの段階論であり、神理を求める光の使者たちの研修の過程であるというふうに、仏教徒とは違う立場でわたしは思うのです。

3.昨日今日できたカルマで爪を引っかけられることはほとんどない

なぜならば、そのような自分でも気づかぬうちに、人びとの悪意や反感を買い、ためてしまった。Eさんを見ていてわかりませんか。自分が人を傷つけていること、人が自分をどう評価しているかということに、ひじょうに疎い人なのです。

明るくて楽しい人です。とても愉快で、光を見て一生懸命生きようとする、ひまわりのような人であるということは、それは我々がよくわかっている。それはまた素晴らしい長所であり、個性であるのです。

しかし、逆に言うと、自分のその自分勝手な、自己本位な思いの中で、どれだけ周りの人たちが自分の言動により、特に女性たちが傷ついてきたかということ。そのことにひじょうに無頓着なのが彼なのです。その無頓着さの集積された、集合された念というなものが、今回の腫瘍の原因になっているのです。

それが最後あの女性、ご婦人ですか、あの方の出現によって、しっかりとそれが表面にポコッと腫瘍のように浮き出て、それが彼女の入れ知恵と周りの反応によって、そこでどっちを取るかということで彼はーー。
逆に言うと、人生の最後の個人の修行において、彼は試されていたわけです。そのときに、やはり正しい判断ができなくなっていった。

その瞬間、できていた彼自体の魂が抱えこんでいた、まあ、仏教で言うとカルマみたいな部分もあるのですけれども、それが良性腫瘍であったものが、悪性腫瘍のようにポコッと変質を遂げた瞬間、彼自体の人格までがガラリと変わり、そこのところに、やはり通じて来る魔界の者というのが、ぴったりと寄り添ってしまったと、そういうふうなのが現状なのですね。

だからそのような、魔とつき合うひとつのメカニズムというのを考えると、みんな、たとえばBさんなら何で落ちていく、Aさんなら何かっていうことを考えると、昨日今日できたカルマで、彼らが爪を引っかけられるということはほとんどあり得ないということ。

逆に言うと、過去世からね、引きずってきているようなぐらい長い、ひじょうにロングスパンで蓄積されてしまった、その人の魂のひずみみたいな部分、そこにおいて、やっぱりマイナスのエネルギーを呼んでしまうものというのが形成される。そこに爪が引っかかるという理論があるのです。

だから今回の事件を見ていて、ひじょうにたいへんで、体制を整えるということがたいへんなことであるのが、わたしは見ていてよくわかる。よーくわかるけども、でも逆に言うと、このような事件が起きたことによって、逆に言うと、ぎとつの膿出し効果というものがはっきりとして、お互いに相手をしっかり見ることもできたし、自分たちの中にもまた、そのような思いというのがあるかもしれないという大きな学びになったのではないかと思います。

魔というのは全く知らないところから、いきなりサタンがやってくるのではないのです。自分たちの魂のゆがみ、自分たちの魂の否定的な、マイナスの想念の集積のところに、まず魔というのは突進して来る。

だから女性問題でいつも問題を起こしている人、そういう人たちであるならば、やっぱり女性問題に気をつけるということ。そこから逃げないで。
「楽天的な」というのは、いい意味では楽天的であるけれども、わたくしのようなシビアな者から見たならば、それは一種の逃げであるしかないというふうに思うようなとらえ方のときもあるのです。

客観的に、冷静に、事実を見つめてみるのなら、明らかに、まあ、聖母マリアがおっしゃられていたように、「罪は罪である」ということを正面から受け止められてこそ、その上での明るさ、楽しさというものも意味があるのであって、そこを、臭いものにふたをして、見ないようにしてケセラセラで生きることを、けっしてそれは明るい仁徳のある人とは言わないということなのです。

逆に言うと、こういうふうに表面化したということ、それをもって彼は孤独さの中に落ちていくかもしれないけれども、そこでほんとうに彼が唱えるような反省行というものをね、それを反省道場のようなところであるというよりは、こうやって人生の一つひとつで、大きな出来事を通して、仲間を失ったり、人びとときついことを言い合った、その中で学んだこと、そのことを大事にしながら、自分の人生をもう一度、振り返り、自分の個性というものを真摯に反省したとき、そのことをほんとうの反省行という。わたくしはそう思うのです。

4.人の数分だけカルマはある

そのために、その時期が、悪想念が満ちて、こういうひとつの現象化し、まあ、魔の誘いもありますけれども、そこのところに魔が誘いに来て、このような、膿がバーンと破裂するような状況でね、周りに自分の恥部というものを見せていく。

そのようなことが起きたときに、「ああ、ありがたい」というふうな、「自分も知らなかった自分の欠点が吹き出たのだ」と、「ありがたい」と、「これで反省をさせてもらったのなら、膿を全部出してもう一度、原点に戻ることができる」というふうな、そのような思いであなた方はもっと生きてほしいと思うのです。

だから逆に言うと、普通に生きていてもさまざまなトラブルが、艱難苦難が降ってくるのが人生でしょう。であるならば、このような神理の最前線にいればね、ほかの人びと以上に多くの試練が、艱難というものが降ってくるのです。

それを通してひじょうにーー、このレムリアでの時の流れというのがひじょうに早い、密度の濃さに比べて、時間の流れというのがひじょうに短い間に多くのことが起こるのです。それはある意味であなた方、二転生、三転性分ぐらいの濃縮度として、あなた方は学ぶチャンスの中にいるということ。

そのことを考えたらのならば、これを通して、仲間たちのこういう膿出しを見ながら、「ありがたい」と、「こういうふうに生きていかなきゃいけないんだ」と、こういうふうに生きていったら、何が間違っていたのかということを、毎回一つひとつに事件の中で反省をし、学び合い、後世に対して、こういうときにはこうしたほうがいいのだということを、生きたなまの現状から、経験から学び出して、あなた方が書物に残していくこと。それこそがほんとうに生きた、やはり魔との対峙方法であり、あなた方が後世に残せることだと思うのです。

方法論、理論書でね、いくらでも魔はこういうものだから、こういう時はああしなさい、こうしなさいーー。高橋信次だってけっこう残していると思うのです。でもそれを読んでいた、さんざん見ていたBさん、何ひとつわかっていなかったし、亡くなったあの高森さんという人においても、そして、Eさん自体も、実際問題あれだけ何百巻、何百本というテープを見ていて、本は理論書で読んでいたにもかかわらず、実際問題、魔を前にしたならば、体が固まって何もできないで動けなかったという、それが現状なのです。

だから逆に言うと、こういう事態を越してくると、平林さんだって何回か、これをもう見てきているわけでしょ。それ、もうレムリア始まってから、どれだけ同じようなことが起きているかわからない。こういうものを通してね、そのうちに次の世代がきたときに、もう、彼らがまた同じ課題で足をすくわれて、悩みだしたときに、もう、この者がよく言ううように、「こんなのはよくあることなのよ」、「ほんと、いやになるぐらい同じことの繰り返しなのよ」と、いつも言ってるように、ある意味で、魔というのはワンパターンなので、その出所を、どこに爪が引っかかっているかが最後わかったならば、ある程度、対処方法というのは、もう、ひとつのパターンに終わるということなのです。

だから、人の数分だけカルマというのはある。
それを逆に、カルマと悪い否定的な思いで見るよりは、ひじょうにプラスで考えれば、その分だけ、百人いれば百人分の個性があるというふうに考えて、そのときに誰でも短所を持っているのだからと許し合う気持ちでね、自分も、全員が短所を持っているのだから、自分だって爪をかけられても致し方ないのだというふうに謙虚な思いで、ほかの仲間のアドバイスというものを、ちゃんと聞いていくということ。それをしていく。

ほんとうの信頼関係というのがあるならば、毎回、毎回、このように深く傷つけ合うこともないのかなというふうに思うのです。
たまたまそのときに膿がたまり、飽和状態になり、ちょうど病気が発現する時期に、次々と重なってきた。それぐらいレムリアの中での時というのが凝縮されて、その人の人生に突きつけていくものが出てきた。

それはこの間、ミカエルが言っていたように、登山にたとえているんですかね、「山の五合目、六合目を越えてきたら」という言い方があるけれども、確かにその、だんだん上の修行になっていけば、その根本的な膿というものは早く出すことによって身軽になる。

病巣というものから早く膿を取り出してしまわなければ、上に登る体力が回復しないということをもって、やはり早く、前倒しでいろんな事件が起きてくるということもあるのです。それで倒れてしまうようであるならば上には登れないということ。

そこで膿出しをしてしまって、「ああ、自分はこんな悪いところがあったけれども、どうか許していただきたい」と、「みんなで歩もうじゃないか」という、ひじょうに素直な気持ちできたならば、誰だって、この者においても仲間を切るきるということはないはずなのです。

それをみんな謙虚に認めないから、内部を攪乱されるのが、この神理の運動にとってひじょうなマイナスになっていくから、泣く泣くいつも、泣く泣く切っているという状態があるはずなのです。そこをみんながひじょうに誤解をしているということ。

神理の運動を進めていく上においては、やはり中において、清浄な神の光というものをたたえられる、神の光の器というものにおいては、純度の高いものを、この中に霊域として残さねばなりません。

そういう意味において、膿がいっぱい、ダラダラ、ダラダラ出ているような者をいっしょにいさせるということは、中の霊場が穢れていき、そのマイナスの想念によって、また別の魔の攪乱というのを呼んでいったしまうということをもって、この者はそういう者の膿出しをし切って、きれいになり切れない者に対しては、「一時期退いてください」という意味において、言い渡しをしているということ。

それはけっして彼女の本意ではないということも申し、付け加えておきたいと思うのです。

5.不退転の境地の者しか、これからはもう集えない

今この事態を見ていて、わたしたちはけっしてこれが情けないことだとも思わない。
このように次から次へと同じような魔が攪乱してくれば、あなた方は何を本来やるべきであり、何を護るべきでありーー、それはこの間から高橋信次、エル・ランティも、日蓮も、ミカエルも言っていることと同じことしか、わたしは言えないけれども、このような膿出しがあってこそ、あなた方のこれから歩んでいく道、歩んでいく使命の純度の高さというもの、使命の自覚というものをあなた方がね、学ぶことができたのではないかなと思うのです。

魔というのは、ほんとうにいろんな種類いるんですよ。だからあなた方の個性の分だけ誘惑をしてくる。魔は次から次へと出て来るということ。

そして、彼らはこの神理の運動が、レムリアを拠点にして天上界とのパイプがつながり、一度、自分たちが勝ち誇って勝利宣言を上げていたにもかかわらず、勝利宣言ではない、天上界がとんでもないことで、また盛り返してきたということを知って、急遽、彼らなりのレムリアつぶしということを、対策を練っているのです。そのために、中にいるメンバーの心の中の闇という部分に爪を引っかけながら、誘惑をしながら、ありとあらゆる、次つぎと手を考えてきているというのが現状なのです。

ですからまだ、このぐらいのものならば、Bさんの後ろに憑いていたもの、まあ、あとEさんの後ろに憑いていたものぐらいならば、あなた方としても、仲間を失ったことはつらいけれども、やはり魔のランクとしては、我々から見たらまだまだ低いのです。
Fさんに憑いていたものにしてもね、まあ、パワー、まあ、念としては、力としては強いですけど、中級クラスにも満たないようなレベルの魔なのです。

だから、あなた方が十分学んだのならば、我々が引っぱって、やはり上に切ってしまったというのも事実でありますし。

実際そのときに、ほんとうにどうしていいかわからないぐらいに、やっぱり弱っていたこの者に対して、仲間が本気で護ろうといって、平原さんにしても、小林さんにしても、ほかの者たちにおいても、どんどん素晴らしい自覚というのが、ご本人たちの中に芽生えて、本来、自分でも認めもしなかったような、その自分の中のパーニャパラミタというものを開きながら、この使命の中で、今回の事件で一人ひとりが生まれ変わったのではないかと思うのです。

あなた方が本来のあなた方になったということ。それを、あなた方の大変身する姿を見て、わたしはひじょうに深い喜びと満足感をもって見ているということが事実なのです。
人というのはね、ダイヤモンドでもそうでしょ、研磨機にかけなければ、どれだけ大きな美しい原石であっても光は輝かないのです。研磨機という、堅いダイヤを削るのはダイヤです。それでもって研磨工という人たちが、一生懸命きれいにカットしながら磨いていくのです。ダイヤならダイヤをもって磨くのです。

そういう意味において、あなた方は、あのまま放っておいたならば、自分本来の光も、自分自体の優秀さも、力も、自覚も、あなた自身を、ひとりを見たって、生まれていなかったと思う。どこかEさんや、Fさんや、ほかの人たちに遠慮もあるけれぢも、やはりどこか依存してしまい、自分の中で突き詰めるということがなかったように思うのです。

そういう意味において、彼らはこれ以上先へ歩むことができなかったけれども、それまでしっかり支えてきてくれた先輩方なのです。そして、彼らがやはりその、自分の個人の修行に戻っていかれて、リタイヤなさっていったならば、今度はあなた方の番であるといって、自分自身がこの危機的な状況なればこそ、前持っていた古い概念をもう打ち捨てて、レムリアをつぶしてはいけないという気持ちの中で、あなた方一人ひとりが変身を遂げて、今回このように結束して、このような自覚を持って、今日もここに座ってくれているのだと、わたしは思うのです。

だからけっして今回の事態をマイナスにばかりとらえるのではなく、逆に言うと、ほんとうにこれからほしい人材が、わたしたちのもとに本来の変身を遂げて、このレムリアのこの椅子の上に座っていてくれているということ。そんことをわたくしは、とても心から喜んでおり、感謝したいと思っているのです。

こういうあなた方の、高い、高度な自覚と使命感というもの。自分自身の力をーー、ひじょうに力があり、聡明な人たちですけれども、それにより悟りにおいてひじょうに、感性的にもひじょうに鋭いところがある。そういう質の高いあなた方が、このような不退転の境地で、仕事を命がけでやろうという気持ちがある。この者たちの、このテーブルの周りの磁場があったのなら、同じような波動の者しか、これからはもう集えないということなのです。

それ以下の者は、ここへ来て座れないということ。わかりますか。ということは、最低あなた方の水準にある者たちがこれから集まって来るということなのです。
その永井さんという方においても、会ってみたらわかるでしょう。ひじょうに高い水準を持っているし、見識においても経験においても持っている人なのです。昨日言っていた、チコさんにしてもそうです。ある程度の水準以上の人でなければーー。

6.どの世界に行くのかを決めるのは本人たちの心境

今回Eさんがいくら言っても周りが納得しないし、ほんとうに彼女が言っていたようにね、「Eさんの見ている方向は、わたしたちが見ている方向とは違う」と言っていました。その通りなのです。もうお互い見ているものは、見える世界が違ってきてしまう。

それは霊界と同じなのです。みんなこの空間でもいろんな次元がいっしょに同時にあるのだけれど、三次元は三次元の目でしかものを見ないから、この部屋しか見えない。四次元、五次元、六次元、全部、重なった世界だけれども、そこで思う者たちの価値観、共通理念によって見える世界というのは決まってきてしまうということなのです。

だから、レムリアがこれだけの水準、登山という六合目に上がってきたならば、その六次元以上の感覚の者たちでしか、もうこのレムリアの椅子に座ったとしても、共有した話は続かないということ。
そういうことをもって、今回ここの水準まで今のメンバーが上がってきた。そして、このあと来る人たちも、この水準でなければここにいても、そのうち居心地悪くていなくなってしまうのです。

Eさんが自分から、いくらあのような日記で書き込み、いくら一生懸命、周りをメールで説得しようとしても、みんなEさんのことを不思議そうな目で見る。何を言っているのかわからないと。Eさんはみんなが言っていることがわからないのですよ。見ている世界が違うからです。次元構造と同じなのです。

心の世界ということは一念三千ということを、天台智顗も言っていたけれども、やはり自分の思う心の針の先によって、心のビジョンによって三千の世界に通じていくということ。どの絵界に行くかはを決めるのはその人たちの心境であるということなのです。

それを考えると、今レムリアの持っているこの磁場の高さというものは、ひじょうに高い磁場にあるということ。そして、この質のレベルを、我々の霊言を通して、ホームページやなんかを通して発信していきなさいということなのです。本においても発信していきなさいということなのです。

現実に即した方法論が、レベルが低いと思うのは、それは単に学識者である、学識者と呼ばれているような学者さんたちだけの発想なのです。
我々の世界においては、信仰とは即行動であり、信仰というのは即神の姿を体現するという生きざまによって、どれだけ虐げられた者たちをどれだけ救うことが具体的にできるか、それこそが本来の、この間も言っていたように菩薩行でありね、それがほんとうに生きた法であることを、繰り返しあなた方、言われているはずなのです。

その意味において、この地上での救済事業における、一つひとつのトラブルと思えるこういう体験は、ほんとうの意味で生きた法というものを学ぶ最大のチャンスであり、学習の場であるということをもって、あなた方は一回ずつ見過ごすことなく、軽視することなく、一般的な概論や、そのような観念的な議論に明け暮れるのではなくて、具体的にこういうときにはどういうふうにあるべきであったのか、そういうことをこういう、一つひとつ起きたところで、学んでいただきたいなと思うのです。

そのような経験を通したものが後世の者たちに語り継がれていき、そして、魔との対峙方法、魔とのつき合い方、そして、魔がどのようなトリックを心の内側から仕掛けてくるかということ、そのときにどのように表面化した、時期がきたということはそれまでに累々として、自分の中に要因を含んでいたということ。

であるならば、その膿出しが始まったときには、心から感謝してその真摯な解決策というものを、反省というものを通して、一人ひとりが心の垢を落とすということこそが大事なことであって、その起きてしまっている現実自体をああだこうだ言ったり、その時点だけが悪かったというふうに思うことは、ひじょうに愚かなことであるということを、わたしはあなた方に伝えたいのです。

少しあの、お医者様がいるので、わたくしなりに少し、病気のことなどを使いながら話してみましたけれども、やはりひじょうに心の病んだ部分に魔が巣くうということは、肉体が、その心の想念が肉体に反映して、肉体にも病気が起きるということなのです。

ですから、体の中のどこの部分が病んでいるかをみると、その人の霊的な意味での、過去世からのカルマと申しますか、やはりその方が背負っている魂のマイナス部分というものがわかるはずなのです。

だからやはり、そういうものとの関連もあるのですけれども、それは一概には言えないことはたくさんあるけれども、だいたいそれは決まっている。
だからそういう意味においては、肉体の中でもそうですけれども、霊的な意味においても、なかなか反省というもの、客観的に自分を見ることができない。

でも、この三次元というのは、いろんな次元の者たちが一緒くたに生れてくる。そうでなければ、霊界は同じ者たちばかりが同じ村に住み続ける場所なので、なかなか自分の中にあるこういう欠点というものが浮き彫りにされないのです。だから進化していくっていう意味においては阻害されているところがある。

その生きた学習、生きた経験を得る場として、いろんな次元から同時にこの三次元というところに生れてきて、いろんなあつれきをつくりながらでも、切磋琢磨し合いながら、この地上でひとつの文明というのを築いていくというーー。

そういうマクロ的な視野もあるけれども、個人的な意味においては、違う者たちの間に入ることで、自分というもののかけがえのなさと同時に、自分の中にある欠点というものを自覚し、矯正し、自分自身が大きく伸びるチャンスが与えられようとする、そういうことも地上に生れてくる計画にひとつにはあるということなのです。

7.今後は本気で腹をくくった者たちだけが集まって来る

ですから何かひとつの事態が起きたときに、あまり自分自身を苦しんで追いつめることよりも、ああ、こういう事態が起きたということはどこか間違っていたのだろうかということを、しっかりと反省をして、その上でお互いに会ったならば悪意で言うのではなくて、しっかりとそれをお互いにアドバイスし合えるような仲間をしっかりつくるということ。

今、そのデルさんという方がホームページをつくって、みんな賛否両論起きているようです。でも今、あなた方の様子を見ていると、賛否両論あるけれどもしっかりとメールで、素直に今残っている方たちは自分の意見を述べますよねえ。裏で言うのではなく、正面でスパッとお互いの意見をぶつけ合っていく。

そして、彼も悪いところがあったならば、「ああ、そうかもしれない」と思って素早く訂正を入れたり、じいーっと考えておかしいと思ったら、彼自体もやめていくことでしょう。でもそういう判断というものが彼にはちゃんとできるし、素直さを持っているし、未熟ではあるかもしれないけれど、そういう意味では素直さというのも持っている人だと思うのです。

だから周りの人たちが育て上げていくこと。でも、あなたたちじゃあ考えつかないようなことをまた、彼は発想としてできるという強みも持っているから、お互いにね、傷つけ合ったりするのではなくて、だけどもおかしいなと思っているから、お互いにね、傷つけ合ったりするのではなくて、だけどもおかしいなと思ったら、彼のもろいところがあるなってことをあなた方よく知っているわけだから、そういう意味においては、理性的で知性的で、素直なあなた方がしっかりと彼に、彼を傷つけるのではなく、素直に意見をぶっつけ合って、みんなでレムリアというものを盛り立てていけばよいのだと思うのです。

なたが方から見たら、1月31日でホームページが消えなかったということに、ひじょうにこの者もがっかりして、追いつめられた気持ちでいたかもしれないけれども、我々の世界で見たならば、これもまた一時のダブりであって、そのうちに我々がこちらのほうに、これだけ霊言を送り続けていくならば、いずれ人びとの関心はここにくるのであると、こここそが天上界のパイプであるのだと、この霊言を通して、Eという名前の単なる一ファンとしてつながっている者たちよりも、我々の天上界のこの言葉によって、我々の気持ちをくんで学び、感謝し、真理の運動というものをともに盛り立てて、我々の地上ユートピアというものの具現というものに力を貸そうと思う人たちが、一人でも二人でも増えてくれることのほうが、わたくしたちは嬉しいのです。

だから、単なるファンクラブのような者たちがいくら集まっていてもね、こういう、いざとなったときに何の役にも立たないということ。それをこの者はひじょうによく知っているのです。
だから一時的な言葉でちやほやしたりする崇拝者をひどく嫌うのも、やはりそういう者たちは、いちばん自分が苦しんで、つらく追いつめられたときに何の役にも立たないということを、この人は知っているのです。

だからほんとうの言葉で、本気でぶつかってくれて、本気で自分たちといっしょに歩んでくれようとする者たちだけを捜そうとしている。
だからそういう意味において、今のこの水準のあなた方が、この不退転の境地で腹をくくってくれたということ、そのことをわたくしは天上界から見ていて、心より感謝しているし、喜んでいるということなのです。
(中断)
アマーリエ:失礼しました。モーゼ様、失礼しました。
モーリャ:いいですよ。あなたもこてから週に二回、三回ととることにどうやらなってきてしまったので、そうとう声においても体力的においても、疲れが出てくるかもしれません。人数も少ないので、やはり相当負担が出てくるでしょうけど、今この時、これをとらなければ、その次が、次の計画というものが実行されていかないという大事な時だから、どうか頑張っていただきたい。

我々の霊言というものを、ひとつでも余分にとって、この地上の者たちに指し示し、聴かせてあげていただきたいというふうに思うのです。だから頑張ってほしいと思います。
わたくしから見て今回のことは、もう起きてしまったこと。そして、昨日をもってレムリア・ルネッサンスとして反撃体制に出るというふうに、この方が言いましたけれども、わたくしもそれでいいと思います。

反撃するということも、ときには、神理の運動において大事なことなのです。負けてばかりいて、いつも魔にいいようにされるということばかりをもって調和とは言わない。愛とは言わないのです。

本来の愛であるのならば、相手に間違っているということを、ときには剣を抜き、指し示すことでもあるし、ましてやあなた方が抱えているような、このような大計画の運動を頓挫させていくような危険からあなた方自らが剣を抜き、護らなければいけないということ。

その意味をもって、戦闘系であるあなた方が中心となった、この神理の運動というものを預かっているのだということ。そのことを思ったのなら、どうか雄々しく戦っていただきたいと思う。

そのうち必ずや、今回のような出来事で翻弄されればこそ、レムリア・ルネッサンスのホームページでしっかりと説明をしていったならば。まだ前に浮かれて集まっていた者たちよりも、もっともっと神理の運動、このあとのないと言われているこの計画において、本気で腹をくくらなければ、これはたいへんなことになるという自覚を持った者たちが、あなた方の周りに集まって来ることでしょう。

そういう、ふるいにかけられた者たちこそが、この世の中を変えていくのだということ。そういう意味においては、今回のトラブルは大きな恵みであったと、そのように思ってあなた方は、このように真の使命に目覚めた仲間たちとともに歩んでいただきたいのです。

曖昧な者、そして、自分の中でほんとうの意味で神理の使徒としての使命としてやっていると思っていても、いつの間にかすり替えが入っていたということ。そのようなことに自分自身が気づいていくのならば、それは、やはりその人にとってそれまでの限界であったということ。

そのことをもって、その人はその運動からちょっと距離をおいて、個人の修行に戻られたほうがいいということ。修行にはいろいろな形態があるのだということ。

そういうことをもってね、その人を悪いと責めるのではなくて、逆にこの運動から離れて、ふと我に返ったほうが、今のまま猛り狂っているよりも、今去られていったBさん、Aさん、Fさん、それからEだんにおきましても、離れてみれば、自分がどれだけ踊らされて、もっともっと凶暴なことをしていくかもしれない。

そういうことをもって、あなた方は今回の運動において、それほど彼らを切るということにすまながることもないし、彼らにとってもほんとうの意味での救いであったというふうに、いつかはわかる時がくるはずなのです。だからそんなに後ろめたい気持ちで、申し訳ないみたいな気持ちでいなくてもいいのですよ。

8.反省とは客観的に自分自身を点検できるかということ

あと、何か質問ありますか。何か聞きたいことがあれば聞いてください。わたくしなりに今回の経過を通して思ったことをお話ししました。

平原:今回その、膿が出るまで、なかなかわからないというのがあると思うんですけど、どの時点でご本人が、どういう自覚をすれば、もっといい方向にいったのか。このへんがなかなかわからないというかーー。先ほどデルさんのたとえも出たのですけれども、やっぱり素直さっていうのがいちばん重要なのかなと思うのですけど。

モーゼ:そうですねえ。だから素直さというもの、Eさんも素直だったんですよ。でも素直だったけれども、どうでしょう。
彼の人生の中で、女性問題ということを思ったときに、「明らかにこれはおかしいな」とあなた方も、違和感はあったはずなんですけれども、彼の中ではそれは明るく処理されてしまって、自分自身で見なかった。見ようとしなかった。ひとつに闇みたいな部分があったのです。

そこのところが最後、このように上に登ってくると、最初のうちは何とか持ちこたえるのですけれども、登山も上のほうに来ると、いくら下にいる時は大丈夫だと思っていた傷口も上のほうに来ると酸素も薄いので、傷口が開いてしまうという、そういう状況になってきたのだと思います。
でも素直で、もし仲間たちの言うこと、アドバイスというものをしっかりと素直に聞いていたのならば、ああ、これはおかしいかもしれないというふうに、平常心を持てたと思うのです。

でも、この者やほかの者たちが「その女性はおかしい」と言っても、彼自体が聞こうとしなかったということ。そこにおいてはもう、やはり周りの者たちを逆に敵対視して、彼女を守って、彼女の言いなりに、入れ知恵のままに動いていってしまったということをもって、彼自体の判断力というものがもう鈍ってしまった。

そこにおいて、素直に周りの仲間たちのアドバイスというものを聞けばよいのです。普段から「魔について強い」とか、「この者の力というものを信じている」と口で言いながら、都合のいい時だけ信じて、自分にとって耳の痛いことになると、いっさい聞こうとしなかった。

逆に、霊的にこの者がとっくに見抜いていたのに、それを言ったことが彼女をおとしめる、女独特の敵意であると、そういうふうに彼は理解したのですね。そういうふうになっていったときには、もうあとは、あちあらの魔の操るがままに落ちていって、ますます我々との、こちらとのコミュニケーションというのがとれなくなっていった。

でもそこを選択したのは、彼自体であったということ。そのことの意味というものをもっと考えれば、彼自体も学ぶべきことーー。もう今回、逆に切り離されてみて、自分ひとりになって考える。それからがほんとうの反省なんです。

反省行というのは形通りだけで自分で大きな声で心行をあげながらーー、それは感謝というのは大事ですよ、感謝というのは大事ですけれども、「反省した、反省した」と言っているのが反省ではない。

何かこういうふうに現象化してきたときに、ほんとうに客観的に、自分自身というものを、点検することができるかということ。そのときに一生懸命、誠意を込めて、善意を込めて言ってくれる人たちの言葉を聞くこともできない。逆にその人たちを罵倒するようなことしかできなくなっていったときは、さっき言ったような素直さというものがなくなるということ。

だから人の言いなりになればいいということではないよ。人の言いなりになればいいということではないけれども、でもね、やはり周りの人が見て、今回みたいに七人なら七人がみんな、「おかしい、Eさん」と思って、今あなたたちと敵対しているFさんとかAさんですら、本気で、「Eさんおかしい。Eさんの言っていることは、とてもじゃないけど人前に出せないような内容だ」と言う。「言っている理論もおかしい」と言う。「気持ちもいい加減だ」と言う。

みんなからそう言われたときにはやっぱりーー。一人二人が言うのなら別だけれども、みんながそう思っているということに彼が気づいたのならば、それこそほんとうに、素直に反省に入るべきでしょう。

でも、みんながこのように、今回もメールできても、「アマーリエさんだけが言ってるのではない。この者だけが言ってるのではない。わたしだってそう思っていたんだ」ということをみんなが言ったとしても、「あなた方はずいぶんアマーリエさんに毒されましたね」というメールの内容を見ていても。結果的に自分だけは絶対悪くないと思う。

そこにもう、反省ができない心境というのがあるのです。「反省行をとことんやった」と、彼は自慢げに言うけれども、大事な、大事な自分の中の最大のカルマに関して、少しも反省ができてないということ。そのことをもって彼が今回、やはり魔に足をすくわれたということがあるのです。そのような分析で自分自身を点検すればいいのです。

9.霊言のパイプをしっかりと死守し、世界に向けて発信せよ

さっき言いましたように、今回の計画はもうあとがないということ。あなた方自体の今のこの大きな運動の中の流れとして、この霊言のパイプというものをしっかりと死守し、本を、書籍を出して、インターネットを通して日本だけでなく、世界に向けて発信していくという、しっかりとしたその資料をつくっていくという、そういう部分としての時代的な貢献度というのがあるのだけれども。

やはりそのような経験を通して、もしその道を塞ぐ者たちがいたのならば、ときには戦闘系のあなた方です。潔く剣を抜き、「正しき者よ、強くあれ」と、わたしが常に言い続けているように、誇りを持って、神理の使徒としての誇りを持って、我々は神により、神意により、この地上に派遣されたる者、神の計画の、神意の代行者であるというふうに、心の底から、そこにおいて誇りを持ち、その神理において、自分たちの行く道は正しいのであると、信じ続けることによって、一歩、一歩勇気を持って、雄々しい神理の行進というものをしていただきたいと、わたしは思うのです。

その意味において、ときには人を優しく説得し、母性でくるみ、諭すことがあるけれども、それでもかなわぬのであるならば、今は一時、剣を抜き、一刀両断で切り捨てて、この流れの中から外し、そこの場所において個人で反省ができるチャンス、時というものを待って、自分たちがまた先に進んで行かなくてはいけない。

先に進んで道をつけ続けるということ。それこそが、彼らがほんとうに自分自身が、この流れから離れて反省をして、我を取り戻したときに、またあとから遅ればせについて来るかもしれない。そのときに彼らがついて来る道すじというのを、先に切り離した者たちがつけていってあげるのが、ほんとうの意味で彼らを救っていくということにもなるのです。

時ということを考えたのならば、焦ることもなく、その時の流れの中でその人たちがまた戻ってき、自覚してくれる時というのを、ほんとうに愛をもって、仲間なのだから待とうという、そういう、この者の姿勢というのは我々の姿勢と全く同じであるということ。今切り離したから永遠に切り離したのではない。当たり前なのです。神の子であるのだから。

いつも言うけども、ルシフェル、サタンですら、我々はけっして切り離したと思っていない。また彼について行った天上界の多くの光の天使たちがいるのです。その彼らに対してもわたしたちは、一人ひとりの記憶をすべて持っている。

すべて彼らとともにいた、その美しかった、光の天使であった彼らの姿というものをわたしたちは覚えているから、彼らがいつかまた天上界に帰って来てくれる日を思い、今それゆえに、この第三の計画を通して、この地上のシフトアップという、この神の星の次元に引き上げるという、この計画を死ぬ気で遂行しようとしているのです。

だから彼らが足をすくうときがあったとしても、それは我々がまだまだ未熟であり、我々がまだまだ個人的な修行と反省が至っていないという意味において、彼らがそのほんとうの意味で、生きた経験として自分たちに実力をつけさせてくれるために、彼らの魔の誘いというものがあるのだと、そのように思い、逆に感謝をして迎え入れていく。

「おかげで我々の欠点がよくわかった」と、「ありがとう」と、「おかげで我々はそこでまたひとつの殻を脱ぎ、大いなる純度の高い光の天使に変身し、我々は仲間との結束を強めることができたのだ。ありがとう」と魔に向かって、大声で笑って手を振ってみせるぐらいの、ゆとりと自信というのをあなた方は持ってほしい。ひょっとしたら自分たち、間違っているかもしれないと思うような弱気な心があるならば、あなた方の運動というのは続いていくことはできないのです。

12.神理の代行者であるのだという気概を持つこと

それがやはり、霊道を開いている者はそういうふうに思った瞬間、この者も答えが返ってきますので、「ああもうすべてを見られているんだな」と、逆に開き直った境地で生きているというのが事実だと思うけれども、霊道を開いていない人たちから見ると、こういう霊言を聴いたときだけ、都合のいい時だけ信仰心というものが出てきて、普段の生活の中においては、大方が忘れていってしまうということ。

我々が常に見ているのだということ。それが一般の方たちであるなら、それもよいのです。一般の方たちであるならそれもよいのですよ。一週間に一度、日曜日だけミサに行って、礼拝に行って、お務めに出て、神様の話を聴いていくということ。そういうことの姿があっても、それはそれでいいのです。

だけれども、あなた方は違うでしょう? この第三の計画を、体を張って受け取っていく。実行部隊の大事なメンバーであるということを思ったのならば、どんな仕事をしていても、どんなごはんを食べていても、ね、これは「神の子としての仕事を今しているのだ」と、「わたしは神理の代行者であるのだ」という、そのぐらいの気概を持って、一瞬一瞬をやはりーー。

あなたならばお医者様で、仕事を通してね、やはりそこに神の子として、神の使者だったらこういう職業を通して何ができるかという、そういう認識においてーー。全部そういうふうに、神様のことを話せということは言っていませんよ、言ってないですけれども、そういう神理の使徒から自分の職業観というのを見つめて、多くの人びとにやっぱり、接していく。
それを、自覚を持つか持たないかというだけで、ひとつの職業をやるにおいてもひじょうに大きな違いが出てくるはずなのです。

お医者様で言うならば、人間は単に肉体の細胞の、肉っ切れの固まりであると思って患者さんを診るのか。あと、神様なんか全く信じないということで、ひどいお医者さんになると、患者さんを見ると金のなる木だと思って、薬から手術から、不必要な検査から、どんどんやって請求することで、富を蓄えようとか、とんでもないお医者さんもいるわけでしょう?

そうかと思ったらあなたのような、人間というのは肉体だけではないとーー。魂の次元を超えて、実際霊界の言葉を聴いているわけですから、神の次元のそういう魂が吹き込まれた、ひとつの修行形態の過程として、この地上の乗り舟として、わたしたちはこの肉体を授かっているのだと。その乗り舟のチューニングをして、治してあげるために我々の職業があるのであると。

で、死というのをいたずらに恐れなくてもいい。死んであの世に帰ったときに、この修行が終わるときに、この肉体に対して感謝を持ちーー。その者たちの天命、寿命の長さというのは、短いから悲しいものでなく、長いからけっしていいものでもなく、長いということにおいては、その人のカルマの刈り取りが終わるまでは、帰りたくても帰れないという状態があるということ。

そんなことを思ったのならば、けっして長寿でいつまでも長くいるということがその人にとって、幸せなことかどうかということはね、わからないということなのです。

だからそういう見方ーー。そして、亡くなったあとも、多くの人たちが、家族があまりにも悲しむのではなくて、新たな世界への再生、生まれ変わり、あの世において、オンギャーと生まれたのであるということ。そのことを思ったのならば、ボロボロの肉体にはさようならをして、喜びをもって送り出してあげるというーー。

こういう地上の者たちの、この次元を超えた、魂が不滅であるという根本に立った、幸福論というもの。そういうものをある時期がきたならば、お医者様においても、周りの方たちにおいても、認識が変わっていきーー。

死ということ、別離の悲しさというのはありますよ。いつでも別離の悲しさというのはあるのです。でもやはり、それでほんとうにその方のエネルギー体がなくなってしまうわけではない。自分があの世に帰ったとき、また会えるのだよという、そういう喜びというものがまたあるのだというふうに思えば、それほど悲惨に、苦しみわめくこともないということ。

幼い子どもを失った場合は特に、みんな取り乱すけれども、でも、帰って来る子どもたちはあまり傷を受けていないので、引き止める地上の悲しみの念さえなければ、水子のような自縛霊になることはほとんどないということなのです。

喜びをもってーー、喜びをもつということはできないけど、かわいい我が子を離すということはそれだけでつらいことなのはよくわかるけれども、その子にはその子なりに帰らねばならぬ理由があるということをもって、「いつかまた会おうね」と言って、その子たちを旅立たせてあげる。そのような思いで念を切って、天上界の天使たちの群れの中に帰していく。

それこそが本来の母親として、地上の者としての送り出す真の姿であるということをあなた方は書物にして、この地上に出していただきたいと思うのです。

13.この地上の人の八割は易しい法でしか救えない

この間は「神理入門」というのを見ていたけれども、あまりに難しすぎると思う。もっともっと現場の生活、人生の一コマ、一コマに密着した、易しい方法論として、あの世とこの世を貫くものとして、神理の基本知識というものを構成してほしい。

それをね、やっぱりEさんにも書いてほしかったなって思いますよ。あの人は難しいことは言えない人なんです。でも、易しい言葉を、易しい感覚でもって語るっていうことはひじょうに得意な人なので、やっぱりそういうものを、やっぱりこちらとしても期待していたなっていうのはあるんですけれど、でももう今は、彼はできない状態なので、もう今はインスピレーションも何もわからないと思いますよ、あれではね。書かせれば逆に悪いものを書きますから、今はいいです。

あなた方がもう一度、その観点に立ってほしい。あなた方が今書こうとしているもののーー、前に高橋信次、エル・ランティが出て言われていたはずなんですが、「この地上の八割、九割は易しい法でしか人は救えない」ということを言われていたはずなのです。

その八割、九割の者たちに、「この次元を超えた世界があり、魂が永遠であり、あなた方はその中を、各国を転生している地球人としての魂である」という、だから国境とか、その人種間の差別などというのはひじょうにナンセンスな問題であるということ。宗教間の争いなどとてもナンセンスな問題であるということ。

さっき言ったように、死というものが肉体だけの終わりですべての終わりではなくて、一時的なこの世とあの世を乗り越えていくための肉体を脱ぎ捨てる作業であるのだという、そういう観点に応じて、自分の永遠の魂というものを考える。

そういうふうなことで、周りの家族とか友人たちとも今、だからこそ逆に出会ったことを感謝し合って、互いに受け入れ合って、切磋琢磨し合って、生きていくということ。そのことをもって、本来の神理の、まことの正法であるということ。そのことをあなた方もっと知らなくてはいけないと思う。

どうしてもこの易しい次元の話、現実に経験に即したことを軽視してしまう可能性があるけれども、それは知的に優秀な人たちの場合は仕方ないけれどもね、やはりその意味において、高橋信次が生前説かれた話は、ひじょうに、どこの田舎のおばあちゃん、おじいちゃんが聞いてもわかるようなこと。ま、一時、神理編とかあのあたりはちょっと難しいところはあんたと思いますよ。だけれども、科学のこととかもちょっと難しいこととかはあった。でもほとんどが易しい言葉で彼は説かれていたはずなのです。だからこそ、多くの人たちのファンがいて、多くの人たちにとって救いがあるのです。

イエス様の時代においても、仏陀の時代にいかれても、世界をまだまだ見回していても、多くの虐げられた者たちがいます。そういう者たちがけっして、知的にまだまだ現代の地球においても、すべてが高度な知識を持っているとは思わないのです。

多くの逆に、インドの不可触賤民と呼ばれている、カーストの底辺であえいでいる人たち、それからこの、北朝鮮の人たち、ね。中国でもトップではない下の人たち、大量の多くの人たち、ああいう人たちにほんとうの意味で学問があるかといったならば、ないのです。

でも彼らにこそ必要なのが、本来の我々の言葉であるということ。彼らをもって、永遠の転生というもの、真の地上に生れてくる意味、そして、これが神の愛であるという、その基本的な理念、次元構造ということ、しっかりと易しい言葉で表してあげるということ。

それがあなた方のコンセプトとして、しっかりもっと見極められないことには、単なる難しい理論書みたいなことの、報告論みたいなのに酔っているようでは、それは多くの人びとをほんとうの意味で救いたいという愛の思いから出ている、生きた法ではないということになってきてしまう。

ときには高みが必要です。確かに九次元が出たら、ある意味での高みというものも出てくるでしょう。芸術論、マヌも出すと言っています。究極にある男女の法ということも出そうと言っている。カイトロンが出てきている。信仰と科学という部分においても、科学論というものも出したいのはあるでしょう。

確かに今見ているような内容についてもあると思うけれども、それはほんの一部の人たちがわかること。でもほんの一部の人たちに伝えていくことが逆に、法の高みというものを継承していくということですね、意味はあるのです。でも、法の高みを継承するのは常に時代の中の一部の者たちなのです。

でも、今一部の者たちでも、いずれ何百年とたっていったときには、地球のほかの人たちのレベルが上がってきたときに、これを地上に降ろしておいてくれたならば、これがそのうち地球全部の人たちが理解するような高い概念の地球になってくるということ。

そういう意味において、今九次元からのメッセージがガンガン入ってくるときに、あなた方がやはりこの高みにおいても、書籍に残しておいていただきたいという意味はある。

でも、今現時点の地球を見ていて、ほんとうの意味で救いを求めている人たちを思うならば、大方の人はまだまだ無学の者たちが多い。そして、そんな難しい言葉を知らない。でも、彼らは虐げられた中で必死に立ち上がり、必死で自分の人生の意味は、と問い続け、救われたくて、一途に神を見続ける者たちが多いのです。

その必死さの中で、彼らは一人ひとりが神に出会ってくるのです。その出会う時の、神との出会いをどうか易しい言葉で、彼らに伝えてあげられるような書物を残していただきたい。
それこそが多くの人びとを救う。それこそが、天上界が本来意図している意味であって、けっして難しい言葉の羅列が、天上界が求めていることではないということ。

10.魔と対峙することは念と念のぶつかり合い

よろしいですか。
あと何か、これからの方法論とかについて、聞きたいことありますか?
あなたはわたしが、何かひとつの作法みたいなものを与えることによって、魔を切る方法論というものを教えるというふうに、この間、ミカエルが盾を目の前において、「我が名を呼べ」というふうに言っていたように思うのですけども、そのような方法論というものを、わたしがあなた方に伝えるのだというふうに思っておられたということなのでしょうか。

平原:はい、そうです。
モーリァ:そのような方法論というのは、まあ、ミカエルにはミカエルのやり方がありますねえ。あの者が飛んで来るという意味においては、あの彼の言ったことはひじょうに基本的な論理ですから、いいと思います。

もしわたしが言うのであるならば、やはり不退転の境地というものを、しっかりあなた方一人ひとりが身につけてほしいということ。

結果的に魔と対峙するということは念と念のぶつかり合いなのです。わかりますか? だから今回もFさんというのが連れて来た者の、その魔にはひじょうに念が強い、圧倒的な押しのパワーっていうのがあって、それが彼自体を後ろからあの行動に駆り立てていたということがあるのだけれども、その念、パワーというのはある意味で自分の中にあるね、もうこれには絶対、命を張るぞという不退転の境地があると、念というのは集中し、集約的に動き、相手が来たときに、焦点を定めたとき、パーンっと、そういうふうな念で弾き返すことができる。

それはやはり戦闘系の者たちは訓練をしているので、その集中して念を発するということ、その意味において、相手を弾くという訓練というのがひじょうにできている者たちが多いのです。

逆にそれが神道で言うと、裏神道の者たちのように、山伏系とか法力を持ち、いわゆる行をやる者ですね、そういう者たちはやっぱり念というものが強いです。
あと、わたしがかってやっていたように、超能力信仰という、やっぱりあれもコンセントレーション、集中力というものをひじょうに要求されるところにあるのです。

ですから、そういう意味においては、そういう、もともとコンセントレーションというものの能力というものを磨いている者たちであるならば、ひじょうにそのポイントをもって集中して、そのポイントで、相手にポイントを集中したことによって弾き返すという、そういうことができるならば、それはまあ、一瞬ーー、ミカエルが言ったように、やられてしまうからその盾を持つ、立つ前に自分自身をバーンと大きなひとつの壁のような自分の念の不動心のような念で、自分自身から出すのです。

このような形(両腕を横に広げ、両肘を曲げて、手の平を前に向けた形)で、目の前にこういう四角い大きな、自分自身のところの、自分のエネルギーを不動の大きな鉄の板のような、鉄板のような思いで、相手の前に立つのです。それが、ピンポイント攻撃をしようが何をしようが、わたしはピンポイント攻撃などというものではなく、このような鉄のような、何枚岩というのですが、昔で言えば、岩ならば何枚もあるような、そのような不動な気持ちでいる、その思いの、念の、相手の前にエネルギーとともにぶつけていったならば、だいたいの魔というものは弾き返されるということなのです。

この不動心の思い、この念の使い方っていうのは、どこからこの強固さというのが出るか。わたしは「正義というのは常に勝つのだ、正義ある者、神の使者である者は常に勝つべきである」というふうな不退転の、不動の思いというのをわたしは思っている。これがわたしのこの大きな、この鉄の板のような思いにそのまま現象化されているということなのです。

魔が来たときに、魔を救ってあげるには、わたしが今、神の使徒としてこの不動の思いであなた方の前に立つしかないという、微塵も揺るがないような強い、強い意思の思いで、相手の前にいて念を集中してごらんなさい。そうしたならば、相手を吹き飛ばすことができるのです。

そういう念の切り方。この者もそうです、そういう細かい方法論というものを、作法というもの、その陰陽道っていうんですか、そういう七面倒くさいものはこの者は全く学んでいないんですね。

でも、なぜ魔を切れるかっていうと、ひじょうに相手を見たときに、瞬間的にその自分の思いの強さで弾き飛ばすという、その力というのを彼女は無意識に使っているのです。
それは、自分が神の使徒としての誇りをかけて、自分はこれはおかしいと、わたしはこの道を歩むのだという、不退転の境地というのが、もうその行動の中で出てくる。

だから頭でいくら理論を学んでも、実際、現場に行ったときにそのように動けるかということは、また別の問題になるということなのですよ。だから、あまりにその現場に出て、どう使えるかがわからない理論書みたいなものばかりを出しても、人びとはいっこうに救われないということ。だって、あなた方のような水準の者たちであっても、こう同じようなパターンに翻弄されているのではないのですか。

ということは、法というのはいつも言うように、生きた法であるという意味においては、こういう神理の運動が起きたときに、現場、現場においてどのような的確な判断をし、どのように魔の攻撃をかわし、どのように一歩でも前に進めることができたか。それこそ、その歩みそのものが、あなた方、菩薩界の者たちの法であるということなのです。

九次元だったOR氏が、『太陽の法』、『永遠の法』と『黄金の法』ですか、その三つの三部作を出して、理論書というのを数々書いたじゃないでしゅか。
でもほんとうの意味で人を愛するということ、仲間を活かすということ、仲間を信じ続けるということ、清貧に生きるということ、神というのはガラス張りで常に自分たちを見ているのだということ、自分を超えた神の前に謙虚に、謙虚にぬかずくということ。

その肝心な、基本的なことが彼は何もわかっていなかったという、そのことをもってしても、理論書というものがあまり意味がないということをあなた方はもっと知らなくてはいけない。

それは大事なことではあるけれどもね。そこのところに心地よさばかりを感じるようであるならば、このような初歩的なことに何度でも足をすくわれるあなたたちというのがあると思う。
で、実際に今回の計画において、あまりにもこういう魔に翻弄されてつぶされてきた、第一、第二の計画があったということ。

そこで人類は逆に言うと、何にいちばん足をすくわれたか。魔との対処法、対峙法、ね。対峙というのは懲らしめるという意味ではないのですよ。向き合うという意味での対峙法です。そこの部分において、あなた方、あまりにも無知であり、あまりに侮りすぎていたということなのです。

11.祈りや反省は人前で行うスタンドプレーではない

今回のEさんもそうなのです。ちゃんとこの者は警告しているのです。あの後ろにいる者がどういう入れ智恵をし、どういうふうにくくられていくかということをちゃんと言っているのです。
「目を覚ましてくれ」と、ほんとうに、殴ってやりたいと思いながら、遠慮しながらであったとしてもこの人は言っていた。「見えるんだからしょうがない」と言えばその通りなのです。

でも、言われたときにプライドが傷つくね。でも、そのときにこそ、「そうですか」と、「じゃあ聞かせてください」とーー。そういえば、おかしいことはないか。うわついたことはなかったか。世間のやはり常識の中に照らし合わせてみて、自分が若い者たちの前で、指導者として恥ずかしくない行動を、自分が実際行っているのか。

人徳として、徳としてね、自分の行っている行動というものが、周りの者たちに対する説得力、やはりそういう意味での、尊敬というものを受けるような行動を自分はしているだろうか。

「神様、よろしいんですよね、これで」と大絶叫する前に、ほんとうに身の回りにいる者たちに対して、恥ずかしくない生き方をしているのかということ。しっかりと彼がもっとーー。

そんな大げさな絶叫も、大げさな反省法もいらない。そこにおいて、真摯な謙虚な姿というのがあったのならば、このような事態にはならなかったということ。
まりにも宗教に対して、祈りに対して、ちょうど聖書の中で、回廊の前で大声で神に対しての祈りを捧げていた、かっての祭司長たち、レビ人たちのようなね、あの、知っているでしょ、聖書の中にもあります。

それから「祈りというのは陰でこっそりするものである」と、「右の手で言ったことを左の耳に聞かせいようにしろ」と、それぐらいこっそり、反省と祈りというのは、陰に隠れたところでするべきであるということをイエス様が言った。

それがあまりにも大げさな祈りというものを、神への祈りというものを人前で大絶叫し、偉そうな言葉を言うこと自体が、いわゆる宗教を知った者たちの姿であるというふうにーー。あの時代やはりスタンドプレーが多かったのです。それをもってイエス・キリストという方は、諭されたという事実があるのです。聖書の中に書いてあるはずなのです。

だから祈りというものは、反省というものはね、人前で大絶叫をもってするものではない。ささやかに、ささやかに、謙虚に自分の心の中で、自分の中にある神と対峙しながら、自分の落ち度を許していただいて、常に常に許されながら生きている自分というものに感謝をしながら、ひそかに謙虚に、祈りというものは行われるべきものなのです。

そのような姿勢がない者に、本来の反省というものはできないということ。そのようなスタンドプレーをしていったときには、それはプロの宗教屋になっていってしまうということ。
その意味において、新興宗教の教祖のように、人から一時、素敵な人だと思われるかもしれまいけれども、ほんとうの意味で謙虚さもなければ、それは神のパイプにはつながらないということ。必ずやそれていってしまうということ。

そのことを思って、彼はもっと反省をしなくてはいけないよ思う。自分が一体、何ほどの人間なのか、なにができる人間なのかということを突き詰められた中で考えていく。そのほうが彼の魂にとっては大いなるメリットです。

このままこのような大絶叫と、自分と行動をする者たちに対して、こんな一人よがりの意見を吐いていくような、その罪を重ねていくことは彼自体の魂を救うことには少しもならないのだということ。

天上界はガラス張りで、みんなあなた方の心のひだーー、逆に言うとあなた方が口には出さないけど、苦しんで涙を流している、そのつらさというものも、言わなくてもわかっているのが天上界であるということ。

あなた方の苦しさ、あなた方が、この者が弱っていたときにやさしく、みんな勇気を持って支えてくださっているっていう姿、あなた方が一言も言わなかったとしても、わたしたちは全部それを見ているということ。
そして、あなた方に対して心から感謝をしているということ。それが、天上界というのがガラス張りであり、我々の姿であるということです。

だけども、その都度において、このように、常時わたしたちの気持ちを地上界に表すということは、本来の天上界の神々においてはあり得なかったことであって、たまたまこういう希有なる、まれなるチャンスがあるからこそ、我々の思いというのをこういうふうに自由に語ることができているということ。

我々の世界から見て、あなた方の信仰心、あなた方の思いというものがガラス張りであるということを思ったのならば、ほかの者の前でええかっこしようとか、人は神様の前だけはいい子でいようなどということは、無駄な努力であるということに、気づくべきなのです。

14.パイプが詰まったなら即座に霊言を発信することを中止する

逆に言うと、あと、魔に対しても何が基本的にやられる原因になるかということ。それが己心の魔にあるということ。これだけ言われているにもかかわらず、みんな次つぎと己心の魔にひっかかっていく。

そして常に、霊言者に対する反感と、霊言者に対する疑いの思いというもの。自分が反省できなければ毎回、「この霊言者が悪い」、お決まりのワンパターンで否定する。

それは何かということ。神を否定できない彼らであるから、自分自身が反省できないのであるならば、神のメッセージを伝えている、この霊言者本人が狂っているのだと言わざるを得ないということ。

神を否定できないから、この者が自分を批判するとき、「神が言わせているのではない。魔界の者が言わせているのである」と言ったならば、自分が反省できない、その言葉を受け入れられない、その言葉を正当化できるということ。

そして、このことのくり返しがずっときているのです。だからこの者が「霊言者は嫌だ」と言い続けて、過去世の時もそれで苦しんでいました。今世も同じことで、何度も何度も苦しんでいて、わたしたちの言葉を伝えるのをひどく彼女が嫌がる。その理由なのです。これはやってきた者でなければわからない苦しさであるということ。

Eさんにおいても、人のことを聞いているときには、楽しそうに聞いていました。Bさんのことでも、言われているBさんはたいへんな思いで聞いていたわけですよ。でもその時、Eさんは、ひと事であるからこそ、ああいうふうに見ていられたけれども、いざ自分のことになったときに、「あなた反省できますか?」というときに、反省できる素直さがなく、やはり同じことを繰り返してきた。そういうことなんです。

繰り返し言いますけれども、もしこの方のパイプが詰まったなら、我々は即座に霊言を発信することを中止します。このようにとりたいよ言っても、このように、とうとうと言葉が出てこなくなったとき、その時はこの者の霊界とのパイプが詰まったものだと思ってよろしいです。続いている限りは、間違いなく言っていることは、間違ってないということ。上とのパイプがつながっていると思われたらいいと思います。

そのようにわたしは今回、言っておこうと思います。そうでないと、こちらが一生懸命、伝えている言葉まで、すべて魔の霊言であるという、魔界からの霊言であるというふうに正当化されるようでは、それは明らかに間違っているのです。

ですから、こちらが、この者の心が真っ黒になってきて、これ以上霊言を送るのが危険であると思ったなら、即座に霊言をとらすことを中止させます。語りたくても語れないでしょう。

一時間以上にわたって、このような言葉をとうとうと語れるほどの力というのが、そんな、どの話題においても語れるような力というのは、そうそう簡単に一人の人間が持っているわけではないのです。

ですから、この者が今語っているという内容は、わたくしモーゼ、モーリャと呼ばれている者がこのように意識で、この方の言語中枢の言葉を選びながら伝えているということが事実なのです。

ですから、その意味において、あなた方は覚えていなさい。この者がしゃべることをやめてしまったとき、それはこの者の意識にぶれが生じたときである。
そのときには、この者はそれをもって反省に入らなくてはいけません。どうして自分がぶれてしまったのか。霊言が降りなくなったとき、あなた方がその言葉を、この者に対して言ってあげてほしいのです。「何かが狂っている。何かがぶれたから霊言が降りなくなったのだよ」と。

まあ、今回のようにお椀が閉じられて、我々の光を思いっきり魔がふたをしてくる場合っていうのがあるのです。ああいう時は、今回上手にこういうふうに逃げていましたけれども、戦ってだめなときには逃げるというのは、やっぱり戦法にありますから。

語っても無理ですよね。すぐにはあの人たちわからないですから。正しいと思ってやっているわけですからね。だからそういう意味においては一時、時間を稼ぎ、時を稼いで、お互いが冷静になる時を待つという手法もまた、戦略的には意味のあることであったと思います。

で、そのおかげで、この人のパイプというのはしっかりとまた復活し、維持された。これはこの方の責任ではないので、こういう塞がれた方をしたときは、「反省しろ、反省しろ」と、あまり追いつめるのではなくて、単に陰りが生じたのであるというふうに、あちらの闇のほうからの陰りの影響を受けたのだということですね。ほんとうの意味で護るというのはそういうことなのです。

15.問題の原因が何なのかを学ぶことが大切

今回はあなた方により、たいへんこの方が助けられて、ほんとうにわたしたちから見ていても、ほんとうの意味で男らしい戦い方をしてくださったと、心よりお礼を言いたいと思っています。

まだまだ立ち上げ、反撃を開始したばかりなので、まだ忙しいと思いますけれども、ホームページを奪還するまでは頑張りなさい。ここは命綱なのですから、ありとあらゆる手を使って、やはり求めていくということ。

そうでなければ、後世来た者たちが「レムリアの風」と「レムリア・ルネッサンス」両方で、もしやられたならば、どちらに行っていいのかわからなくなる。そして、「レムリアの風」というものに期待を込めた初期の者たちの思いも裏切ることになるのです。ですから、ここを守り続けるということ。

そのことの意味において、あなた方は真摯に、一途にそこから発信し、この運動を展開していくのならば、時の流れの中で、霊言集を通して、あなた方の真摯な姿を通して、今回のようにほんとうの意味で誤解を解いて、理解をして、たいへんな中、ほんとうにたいへんなんだということを理解して、あなた方に手を差し伸べてくる仲間たちが増えてくることでしょう。

そのことのほうがわたしたちから見たならば、認識レベルがはるかに上がってきたという喜びをもって、あなた方を見守っているということなのです。

ですから、具体的にはホームページのこと。それから、CDの販売ということもできるのであるならば、それは具現化していただきたいなと思いますけれども、でも今の状態ではあまりに危険が多いので、優先順位というものをおつけになって、自分の身を守るというのもーー、守りというのも最大の防御というのは戦略のひとつですから、やはり守るべきときには守る。切り捨てるときには切り捨てる。打って出るときには打って出る。これは兵法の基本の中に入っています。そのことを思ってあなた方は、理解して、今の難局を乗り越えていただきたいと思う。

これを乗り越えたときに、ほんとうの意味で、あなた方に実力がついてきて、不退転の境地というのがまた、一枚岩のようなものが出てくるでしょう。そうしたときに、逆に今度こそ、また魔が来たときに、それを弾き飛ばすくらいの自分の中の気持ちというもの、そういう境地というものがあなた方に形成されたときに、自然に魔など吹き飛ばせるような力というものがあなた方に備わってくることでしょう。

あの小林さんという方は、自分で気づいているかどうかわからないですけど、あの方も魔を切っているのですよ。あの方は自分の中で、知的に眼光鋭いところで瞬時に見分けたならば、瞬間的に相手を切っているのです。そういうのを、まだ本人気づいていないと思いますけど、そういう意味ではとても、あの人はこれからもっともっと自分自身のいいところを出しながら、自分の境地というのを開花させていくべきだと思います。

あなたにおきましても今回、ひじょうに男らしい戦い方をし、ひじょうにつらい折衝というものに当たってくださったと思います。まだまだ、あと、もうひと仕事、ふた仕事をしながら、どうかこの運動の、この体制の建て直しにお力をいただきたいなと思っています。

あなた方がやっている中で今回も、Fさんの後ろに憑いていた者、そうですね女性のあれにしても、我々が時を見て引き上げているのです。やはりそのように、我々も、あなた方が学んで見破り、何によりこんなものが来たのかということを学んだというふうな状況、タイミングを見て引き離していくのです。そうでないとあなた方、学べないでしょう。

そうしなければ、次から次へとまた同じものがくるのです。学んでなければね。だから、とことんやっぱりそれに翻弄されて、苦しめられながらも、こういう者がいたよということを認識して、「はいっ」て気持ちで切ろうとしたときに、我々がその気持ちをくんで、彼らをしょっぴいていくという形があるのです。

だから最初から近寄せないほうがいいっていうのではなくて、寄って来るものは寄って来るので、寄って来たならば原因があるということをしっかり反省すれば、何度でも同じ者が寄って来なくてもいいということなのです。

今ね、あの女性の色情霊を取ったところで、これはテープに残るからあまりよくないのかもしれませんけれども、Eさん自体がほんとうの意味でね、理解をしなければ、また別の色情霊が来るんですよ。わかりますか。また別のを自分で呼び込んでしまうのです。また同じことの繰り返しになるのです。

だから今回学べばいいのです。ひとつのことを、何が原因だったのか。孤独の中で、自分が実は裸の王様であったということに、自分が気づいたときに、彼自体がどこからこの原因がきたのかということを、彼は得意の反省法の中で見極めていっていただけることを、わたしたちは祈っているのです。

16.けじめをつけて確実に前へ進んでいく

それ以外はとても素晴らしい、とても魅力的な神理の使徒であるということには変わりがないということです。そこの部分に関しては、彼は反省がどうしてもできないということ。そこを見事に突かれてしまっているということなんですね。

それをほんとうの意味で、反省できる状態にもって行くには、今のなまぬるいところで仲間意識とか、そんなこと言っていたらまた同じ者がーー。今、我々が切ってね、連れて上に上げたとしても、ほかの者がまた無尽蔵に現れてくるということなのでーー。

特にあの方に憧れていた者たちというか、過去世の女性たちはひじょうに多いのでね、やはり、そういう者たちが入れ替わり立ち替わり立ち替わり来て、彼を誘惑していくことでしょう。

だから彼自体が、そのけじめをつけるということ。彼にとって、いちばんできないのはけじめをつけるということなのです。けじめ、大事なのです。すごく。「けじめをつけてひとつずつ前に進んでいく。確実に前に進んでいく」、ね。よくこの人言いますよね。やはりしっかりとここで白黒つけて前にーー。どっつに進むかを決めるんだ。

それをしなければ、魔を討伐する者たちはひじょうに危険であるということ。白黒つけすぎるかもしれない。特にこの者は女性ですから、白黒つけすぎて、ひじょうに女性らしくないとか言われてきたとこあるかもしれないけれども。まあ、一種の職業病というか、職業として、しっかりと見極め、見抜いたのならば、白か黒かをしっかりやって道を決めていく。払っていくということが、やはり職業柄必要であるということ。そのことをもって、ひじょうにけじめというものにこだわる人なのです。

でもあの方の場合は、そういう戦闘系の部分が全くなかったから、明るく楽しく、この神様を表現することで、みんなを、大衆を愛そうという、ひじょうに軽やかな、軽いノリでいくから、あの人はけじめというものをつける必要がなかったので、ここまで何となく、ダラダラ、ダラダラ楽しければいいねっていう、ま、裏返してみれば短所の中で、今回のような事態を招いて、いろんな複合的な意味での結果があったということですね。

そして、あの時代からのカルマとしての、やっぱり今、これが果たすべき、ちょうど膿が腫瘍に固まってきてしまった。ある意味で、鎌倉時代からずっと続けてきた腫瘍かも知れない。それが今、大きく育ってしまって、腫瘍を切るか、それとも悪性腫瘍になるか、そのままにしておくか、その瀬戸際にちょうど、短期的なものであったということ。そして、レムリアをやったおかげで、こんな短期間にこういう事態が起きてきてしまったということ。

そういう意味において、ひとつの試しであり、膿出しであるということ。そのことを思って、みんなひとつの背景があるんだということを思ってね、真の反省とはどういうものか、魔というのは単にいたずらに恐れることではなくて、全部自分たちの心の蓄積の中にあるのだということ。

そしてそれは、誰でもあるのだから、それに気づいたならば、ほんとうの意味で、そのためにこの地上界に生れてくる意味があるのだから、誰でも欠点があるので、そこのところをしっかりと正面から受け止めて、素直に謙虚に、仲間同士で指摘されたことに対して、素直に聞いて、ほんとうの意味での反省法というものをしていただけるーー。

そういうことをもって我々は、魔の切り方、己心の魔ということにおいて、我々から見たならば、そのとっかかりをつくらないという意味において、その反省法というものをわたしは言いたいのです。

それ以外には、今日申し上げたのは不退転の境地、真の勇気を持つことによって、迷わないということにおいて、一枚岩の強さで、自分自身の霊体、自分自身の体そのものが大きな一枚岩のような、厚い鋼鉄の板のような思いで、不退転の境地という、腹のすわった思い、それがあったのならば、いかなる攻撃であるにせよ、相手を圧倒し、弾くことが可能であるという、そういうことです。

それ以外はミカエルが言ったように、それすらもまだ不退転の境地には立たないし、まだまだおぼつかないという者たちは、瞬間的に攻撃されたのならば、自分の目に前に盾のようなものを置いて、丸いスクリーンのようなものを置いて、「我が名を呼べ」というふうなミカエルらしい、そのような救出方法も我々は考えているということ。

ミカエルが嫌ならば、ミカエルが嫌と言ったらミカエルに怒られるかもしれない、ミカエルが嫌なら、このモーゼの名を呼んでもかまいません。「モーゼ様、助けてください」という言葉があったならば、わたしも杖を持って、あなた方を救出に行きましょう。でなければ、わたしにつながる者たちが、必ずやあなた方を救出に行くことでしょう。

まあ、だからそのような方法論をもって、まあ、地下の者たちと同通し、影響を受けるのはどういうことかということを、だいたい話をしてきたのですけれども、そういう理論を考えるならば、やはりエネルギーのプラスマイナスにおける、干渉し合っていく親和性の問題、同じようなものが同じものを引きつけていく、波長同通ですね。そのものにおいて影響されるっていう根本法則は変わらないのです。ですから、それを呼び込むだけの同質のものを自分の中につくらないということが基本。

17.魔は波長同通によって自分たちが引き込んでいる

ただ自分がつくった、少なくとも今世からつくっていなくても過去世からの蓄積において、長い間、累々と蓄積されてきてしまったものもあるので、それならばその時期がきて膿が出て、腫瘍になってきたならば、表面に明らかに皮膚の上から見ても、下に腫瘍があるとわかったのであるならば、その時こそ反省のしどき、膿出しの時と思って、つらくて痛いかもしれないけれども、正面から素直に反省をして、その膿出しをしなさい。

そうしたのならまた、神の使徒として軽やかに過ごしていくことができるよと。それができないときにこそ、逆にその腫瘍というものが悪性腫瘍に変化をしてあなた自体の素直さが欠けたとき、反省できないときに、魔界の者たちがその悪性腫瘍に爪を引き立てて、爪を立てて、ズルズルと上がってきて体に入られる瞬間であるということ。そういうことをわたしは、あなた方に話しているのです。

そのことを思って、あなた方が日々を暮していかれれば、そして今、このような状況にあるときに、我々戦闘系の者たちが周りをぐるって囲んでいるのです。

今回Eさんだって、素直にひと言聞いてくれたのならば、この者はいくらでも救うことはできたし、我々だっていくらだって言ってあげることはできた。でも、もう聞く耳を持たなかった。あちらの女性の言うことのほうが優先で、耳に入っているのです。我々が言うことは彼女の意見を打ち消すものとしての敵対行動でしかなくなってきた。敵対意識でしかなくなった。

だからこの者がEさんを憎んでいるんです、恨んでいるんですと言うんですね。誰が憎みすか。恨みますか。この者は最後まで、最後まで無駄だとわかっていてもEさんを救うために、語りかけに行ったのではないのでしょうか。わたしにはそのように目に映りました。でも、聞かなかったのは、あれだけ言われてわからなかったのは本人ではないのでしょうか。そういう意味において、言い訳はきかないはずなのです。

その語りかけも何もなければ、確かに無慈悲な女であるというふうに言われても仕方がないかもしれないけれども、やはり本来、ちゃんと語りかけに行くときには語りかけに行っているのです。

Bさんにおいても同じなのです。Fさんにおいても、九時間ここで詰め寄られていたときに、相当なことを言っているんです。黙って座っているわけないのです、この人が。

ちゃんと言うべきことは言っているけど、最後は言うこと聞かせられない。力で押してくるということをもって、黙ってしまったということだけのことで、この者が黙ったときには逆に怖いのです。我々も怖いのです。この人が黙って何も言わなくなると、「次に何をするのかな」っていうと、ひじょうに極端な結論を出す場合が過去でも多いので、「まあ、そこまでいかなくても」ってなるんですけども、追い込んでしまうと、全部の責任を背負って、自分で一挙に解決をつけようとするのがこの人の癖ですから、逆にあんまり追い込まないほうがいいかもしれないけれども。

でもやはり今回の、力で押したFさんたちのやり方っていうのは、明らかにこの人の性格を逆なでしたというーー。「この人の性格を知らないんだなあ」と思って、見ていましたけれども。だから、一刀両断で切られたんですよ、あの人たちはね。この人がいちばん嫌うやり方をしたんです。

わたしたちは知っていますけれども、彼は知らなかったでしょう。最も嫌うやり方なんです。有無を言わさず、相手に自分の意見を押しつけ、力任せに自分に服従させようとする姿、これをひじょうにこの人は嫌うのです。

それ以外の意味においてはひじょうに、意見も何でも聞くし、柔軟性もあるし、サラサラとしているところもあるし、自分の意見を、我を通そうというところもない人なんですけれども、そういう力任せのことに対しては強烈な、この人は反発心というものを持っていて、そのときにこそ彼女が本来持っている力というのが、まあ、吹き出てくるというか、炸裂するというかーー。ほんとうにこの人を怒らせたらっていう、そのことを彼らはその以前にやっていたんですね。だから問答無用だったんです。

でもEさんに関しては、この人はほんとうの意味で怒っていませんから、何にも怒っていませんから、だからそれは勝手に「恨まれている」とか、「怒られている」と思うEさんのほうはおかしいのであって、でも今の彼は何にもわからないはずなので、そこを説明する必要はないと思いますね。

でもやはり、魔との対峙方法っていうことを考えるならば、誰にでも己心の魔はあるということ。そのことを思って、あなた方は今回学んでいただきたい。これだけいくつも同じようなパターンのことができたので、一冊分の本ができるのではないかと、思うんですけれども。

これだけ共通項がるでしょう? ってことはある意味で方法論はひとつであるということなのです。そこをあなた方は、ひとつの事件簿みたいなものを、本一冊出すことによって、しっかり魔界とのつきあい方、個人ーー。

それはけっして外から映画のようにね、いきなりエイリアンのようなものがやって来るのではなくて、すべて自分たちの魂の中に、心の中に原因があるということ。そのことを学ばずして、単なる外でのエイリアンとの格闘ごっこ、そういう映画たくさんありますね。そういうふうに思ったら大間違いだということです。

自分は何も悪くないのに、外から来る。なんかおかしな危険な知的生命体によって自分たちが滅ぼされようとしているとか、そんなことはあり得ないということ。

全部それが、波長同通によって自分たちが引き込んでいる。自分では気づけないけれども、自分の中にあるマイナスの思い、カルマというものの中で、自分が引き込んでいるのだということを、よーく考えて、謙虚に活かしていかれることが大事かと思います。

18.社会を根本から変えられるような実践的な法を残す

今日は少し、今回の、最近の出来事を通して、わたくしなりに思ったことーー。そして今、あなたたちがもう、慣れっ子になってきて、もういいよと思うかもしれないけれど、これは時代を超えてね、過去、昔イエス様の時代も同じことがあったんです。仏陀の時代にもあったんです。

そして今回、エル・カンタラーが下生したときに、同じようなことが起き、あなた方が体験しているのと同じようなことで足をすくわれて、OR氏は落ちていったということ。

何にも変わらないんです。あなた方が今やっていることと同じことが彼に起きていたということ。反省できなかったということ。天上界からのメッセージに対して、素直に反省できなかったということ。

この者の言葉を魔界の言葉だとして、自己正当化していった今回の一連の人たちがおられますね。その者たちがOR氏の姿であると、置き換えればいいのです。

天上界、我々は彼に、もう何人もの者たちが行って、彼に説得にあたったのです。でも自分にとってつらいことを言って叱りつける者たちは、これは天上界の者ではないと、下の者たちであると、さもなくば、わたしはこの地上を治めるーー、「治める」なんて今回のEさんの代表と同じなんですけども、誰も地上を治める権限を彼に与えた覚えはなかったんだけれども、この地上において、大改革をする意味での、九次元の最高指導霊であるという、そういう自負心から彼自体は、自分にとって耳の痛いことを、入れ替わり立ち替わり言う霊人たちを、地上の肉体の人間でありながら、天上界の者たちを謹慎処分にしてしまうというぐらいの思い上がりだったということです。

そういう意味においてはね、まあ、彼のほうが多少力量的には上であったということがあったにしても、まあ、この今回の一連の人たちの傲慢な、神の言葉を結果的に神の言葉ではない、魔界のメッセージであるというふうにすり替えていって、自分を顧みることなく、自己正当化していくっていう意味においては、まったくわたしたちから見たら同じ行動が行われているということ。

天上界の言葉を聞き入れず、弾く者の心の構造は同じであるということです。それが、霊言者自らがそのような心境になったということ。それに問題があったということですね。

そういう意味においては、この者には全く欲もないし、実際、支配したいとか、このレムリアが、実際問題、彼女は「お金がかかるな」と内心こぼしてるんだと思いますうよ。もっと自分のお子さんたちに対しても、自分に対しても贅沢をしたいなあと思っているのもあるでしょうけど、それを全部切り詰めながら、一生懸命お金を貯めている。「でもやらなくちゃ」と思う気持ちでやっている。

何ひとつとして、彼女に支配欲、権力欲、名誉欲なんてないわけですから、それから考えたら、何でわたしはこんなことやっているのだろうと、傷つき、傷つきながら思っているはずなのです。

ですから、そういう意味においてね、この人がこれから頑張るという意味において、この霊言のパイプが純粋であるということを保てている理由でもあるということなので、これをどうか皆さん方で、護っていただきたい。彼女といい友人であることによって、彼女を盛り立ててあげていただきたい。

そして今回のように、脅かしとか強い言葉があったときに、いくら頑丈だと言いつつも、強いと言いつつも、やはり一人で全部背負うとつぶれますので、その時は今回のように、優秀な皆さん方が手分けをして、交渉事に当たっていただくことで、この人を護っていただいた、このような姿勢というのはこれからもぜひ続けて、この掘り当てた井戸のような、深い、深いきれいな水の出てくる井戸をどうか、光の天上界のパイプとして維持していけるような状態というものを、あなた方に希望しているのです。

どうかこのパイプから出てくる、この光の美しい言葉を、調べを、この地上に、世界に発信していく。そのような美しい波動というものを、どうか濁らせずに、続けていかれることをわたしは心から希望します。

それをまた脇から、サイドから護る者としてわたしたちはいるのです。今のような、下等、中級程度の魔界の者たちであるならば、あなた方が学び終えたのならば、あなた方が祈りの言葉をもたなくても、即座に引き上げてあげましょう。

でも、引き上げないときには引き上げない意味があるのだということ。その連れて来ている本人の学びが終わらない限りは、そのものをわたしたちが連れていったとて、ほかの、すぐまた同じ魔界から来たものがすぐ補充されるということを思って、わたしたちはあえて外さずに黙って見てることもあります。

でも本人に反省ができたのなら、そのものは不要なものなので、あなた方が外そうなどと思わなくても、わたしたちが見ていて不要なものは、しょっぴいて連れて行ってしまいますので、そんなことはまり気になさらないように。

いるということは、それなりの反省材料があるということ。反省することは恥ずかしいことではないのだということ。誰でもあるということ。このモーゼにもあるし、ね。イエス・キリストと呼ばれる方にもたぶんあるし、やはり仏陀にだってみんなあるじゃあないですか。

そう考えたのならね、反省することにプライドなど関係ないのだから、ちゃんと反省をして、そしたら、わたしたちがすぐ速やかに、悪霊などというのは持って行きますから、どうか安心してこの仕事にいそしんでいただきたいと思います。

もう余分なことはみんな、今回のことで外れましたから、純粋にほんとうにするべきことと、するべき仲間と、その境地が授かったという意味において、ひじょうに学びの深い、意味のある今回の動乱劇だったと思います。すべてを笑って元に戻せるように、今これから急遽の反撃と体制建て直しのために、具体的に動いていただけるということ。

ある意味で言うと、あなた方は法の部分においても、社会の改革者であるということ。実践家であり、行動家であるという意味をもって、単に法だけの、法の難解さというものだけに心酔するのではなくて、やはり実際に生きた、社会のを根本から変えられるような、実践的な法を残すという、その経験に基づいた法を残すということに焦点を当てた、その法の編纂ということ、書籍を残していくということ。

そういうことが次の世代の子どもたちにとって、とてもとても役に立つということを認識されるということですね。そういうことを、どうかお願いしていきたいと思います。

今日はちょっとこの者が疲れてきたようなので、これにて失礼させていただきます。ありがとうございました。

モーリャ(モーゼ)

今から約四億年前、蟹座の方向にある惑星より地球に招霊された九次元霊である。
モーゼとして古代イスラエルに転生し、宗教的指導者となった。
ユダヤ教の創始者として知られる。
エジプトで奴隷のように苦役を強いられたイスラエル人を率いてエジプトを脱出し、紅海を割って渡るという奇跡を起こし、追手の軍団を振り切ってシナイ半島に入り、その地でエホバの神と契約を結び、十戒を授けられたと伝えられている。
天上界では、赤色光線(正義)を担当し、地獄解消の役割を担っている。

bottom of page