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Project Eden

出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)

(1871年-1948年)
明治時代に出口ナオが創始した大本教の教義を整備した実質的な教祖。戦前の日本において有数の巨大教団に発展するが、その過激な終末論により、2度にわたる政府弾圧を受け、ほぼ壊滅的な打撃を受けた。
なお、大本教は、日露戦争の立役者である海軍参謀秋山真之が一時入信したほか、合氣道開祖の植芝盛平、後の「生長の家」開祖谷口雅春らを輩出している。出口王仁三郎以前の過去世として、驚異的な暗誦力により古事記の編纂に重要な役割を演じた、稗田阿礼としても転生している。
役小角同様、裏神道系の神に属するが、その豪放磊落な性格は人気を博し、K会時代に出版された霊示集も人気があったほか、今回のレムリア・ルネッサンスにおける霊言集においても、「間違わないことばかりを恐れて、ケチくさい小さな器になるな」「自己限定をせず、神の子としての力と可能性を信じて、自由にのびのびと、愛深く、おおらかに生きよ」と豪快に語りかけている。

第5章2 出口王仁三郎:彩りに満ちた世界を具現化されよ

1.裏神道、表神道という区分けはなくなりつつある

2.裏神道の世界

3.裏神道の役割は現象により霊的な世界を伝えること

4.悟りが高くなるほど自己の魂を自由にする

5.これからの頑張りによって未来は塗り替えられる

6.正しく使えば霊能力で人びとを救える

7.霊言で降ろしているのは神の価値観

8.間違わないことばかりを恐れてケチくさい小さな器になるな

9.そなたの光線の色合いをもってこの地上を照らしだされよ

1.裏神道、表神道という区分けはなくなりつつある

山内: 表神道と裏神道が分かれている理由というのは、どういうところになるのでしょうか。そして、出口先生が裏神道に臨んでいらっしゃるというのはどういった仕事の、役割になるんでしょうか。

栗山: 質問はいいですか。大本教で立て直しとか、予言があったと思うんですけれども、それは、今日の神の計画についてだったんでしょうか。それと、今後の流れについて、ご意見をいただければ幸いです。

小林: 質問させていただきます。裏神道の立場からご覧になって、これから日本を変えて、世界を変えていくためには、どのような方法をとるのがいちばん効率がよろしいとお考えでしょうか。たとえば、やはり心の教えよりも、霊界のいろんな情報をたくさん流したほうが、むしろ効果があるというふうに、もしかしたらお考えでしょうか。教えていただければ幸いです。



出口王仁三郎: 出口王仁三郎じゃ。そなたたちは今日、この日本の国の中で、このような使命を与えられたことを最高の幸せと思うがよい。

我らが日本神道は、先程、日本武大神が、尊が出られていたようじゃが、我らが裏神道の力も侮るほどのことではないぞ。
我らがそなたたちの守護警備を担当しておる。そのことはもう何年も前に伝えておったはずじゃ。

今回、このおなごが旗振り、指導する立場として、使命を与えられた。
わしはこの計画は無理じゃと思っとった。こんなおなごに渡すような、そんなことは無茶であると思っていた。でも、どうもわしが知っているおなごとはちょっと違うようじゃ。なかなか鼻っぱしらの強い、気の強いおなごじゃが、だが上の神はこのおなごをもって、世界の建て直しの希望をつなごうとしたということも、うなずけるような気がしている。

そなたたちはこの、日本神道、裏神道という立場を、どのような区分けの中で、我々の立場というものを、役割というものが分けられているか、とても不思議に思うとるであろう。しかしそれは、かつて昔、そなたたちの知らぬ時に神々がこの大和の地をつくる時、立ち上げていく時に、やはり力で国を治めていこう、まとめあげていこうとする者たちと、法の光の中で、天照大神のように、和をもって人びとと相和することの、神の光だけをもって、まとめあげていこうとした者たちの、意見の相違によるものじゃ。

わしも近代の日本に生まれて、いろいろな使命を果たしたが、今は高天原の一角に居座っている。
今我らの世界において、裏神道、表神道という言葉はなくなりつつある。

その垣根を払った中で、我々も今回、和解をし、我々が我々の力をもって、表の神々と呼ばれた方がたよりも、遥かに法力という力をもって、魔を封印していくという力をもっている。

自然界の中におき、地球の根本的な法則、根本的な摂理というものをもって、人びとに影響を与える力というものを神より授かっているのが、我らが裏神道、元裏神道と呼ばれている者たちの力である。技である。

その力を今我は最大限に使い、龍神や竜官界や、仙人や天狗と呼ばれてきた者たちでも、けっしてけっして下に堕ちている者たちばかりではおらんことを、そなたたちももう知っているであろう。

その者たちの持っている技術や技や、法力、磨いたものをもって、今日霊文明というものを花開かせようと思うとるのじゃ。

そのことを、神の国の花壇を彩るひとつの花々として、忌み嫌うものでなく、彩りとして、裏神道の力というものを、今日のこの日本に表すことをもって、神のお力のすべてを出しきろうという、そのような話し合いが行われたのじゃ。

我々の世界でも、やはり各個人の修行がある。それぞれの意見の相違というものもある。しかれども、そのような神の国で、神々が仲違いしているようであっては、ほんとうの意味での和を持つということは意味をなさぬであろうという、そのような反省も行われたのじゃ。

だから、我々はその力をもって、神々の計画に参画することをもって、この悲願である計画のために、逆に一丸となって力を合わすことにより、仲違いしていた者たちが心から許し合い、手を差しのべ合うことにより、ひとつにまとまることができたのだ。

だから逆に言うと、今回の計画が、数々に座礁に乗りあげてきたこと、難航を極めたことを、わしはそなたたちにも、この地上の者たちにも反面、感謝したい思いがある。

2.裏神道の世界

我らは裏、裏と呼ばれ、その力を忌み嫌われてきた。しかし、我らが修行せし力も、神が与えたもうた力であるということ。そのことをもっと認めてほしかったがゆえに、暴れてきたきらいもある。

我らが修行したもの、我らが力、我らが法力は、そんなにも忌み嫌われるべきものなのか。何の価値もないものであるのかと、それが裏側の者たちの主張でもあった。

神の力の中には、そのような力をもって、そのある意味で、そなたたちの言葉でいうならば、超能力とか、今この者がやっているような力も、根源的な神の力に近いものがあるのである。

それをたまたま強く持ち合わせた霊系団の者たちがいる。その者たちの力を忌み嫌うものとして、排他的に扱うのであるならば、それは根本的に調和を旨とする、日本神道の考え方には反するのではないかという主張もあった。
しかし、今それをお互いに手を取り合うことにより、我々は彼らと歩み寄り、彼らも我々に歩み寄ってくれた。

法というものは、本来がいちばん大切なものである。我らが裏神道は、どちらかというと、法の神髄を学ぶというよりは、その元々持てる力を磨くことのほうを最優先してきたきらいがある。どうしても、その能力による慢心的な気持ちの中で、その法力合戦になってきた可能性もある。それは我らが大いに反省すべき点である。

しかれども、そのような力をもってこそ魔を封印し、そのような力をもって神の使徒たちが道を切り開くという、その道を守り、守護し、神の国をその法のもとに具現せしめる、実現させていく力
現象化させていく力、そのような力には、この我々が持つ法力というものが、ひじょうに力を持つときがある。

形にする時には、造化の瞬間、天地創造の造化の瞬間に神が使われるのは、我らが力と同じである。
宇宙の中により、この物質界に何もないところに波動を集中せしめ、現象化し、物をこの世に映し出していく。この具現化していく力は、我々が持っている力と同じである。

それを我々は引き継ぎ、それを継承するものとしての霊系団がある。その者たちが、モーゼと呼ばれている方にしてもそうであるが、超能力とか様々な法力とか、中国にも仙人界があるように、そのような力のほうを優先している者たちがいるのである。

その者たちの力をもって悪とみなし、裏とみなし、忌むべきものとして封印されてきたという歴史がある。常に表のほうだけが最優先されるという、そのものをもって、表の力をもって、最高の価値あるものとして認められてきた歴史というものがある。

しかし、今は表も裏もない。
表も裏の力を持たぬが、理屈理論だけで法を学んだと慢心した者の中において、堕ちるということも反省の中であるであろう。

我らが世界は即実行であり、即実現である。その実現される、具現化される力がなければ、我らが世界では一向に認められぬ。
あそこにあるリンゴひとつ、眼力だけで落とせぬようであったら、どう理屈をこねたとて、そなたに、「力がある者」と言えぬであろうというのが我らの世界である。

それはもっと言うのであるなら、「この地上において、神の子とどんなに騒げども、どんなに法を知った坊主であろうとも、この地上におきて、人びとのために国民のために、ひとつでもいいことをなさねば、その口に法を語る資格はないわ」と。「この地上に、行動において具現せしめる力なくて、
きれい事を言うのではない」と。逆にそういうのが我々の立場でもある。

頭だけに神の法を詰め込んでもだめである。
感性の中で、悟りの中で、実際にこの地上におき、自らの命を削ってでも、この神の国を実現させる人びとの力になるために、どれだけのことが具体的にできたかという行いをもって、その地上に具現させる力をもって、我らは神の国の、神の子としての証を示すことをその使命としてきた。それが我らが裏神道のルーツである。行ってきた足跡である。

でも今やっとそれが認められた。表の神々とも和解をし、我々ももう少し法を学ぼうと、そのような謙虚な反省の中に入っているのが、我らの今の状況である。

3.裏神道の役割は現象により霊的な世界を伝えること

裏神道というものが、我々のような力を持った者たちが軽視されるというのは、その法はおかしいぞ。
最近はどうじや。やたらあっちにも、こっちも霊言が出るという話もさっき聞いておった。
いいか。スプーンを曲げてみせたユリゲラー。いいか。あの世の、いや、下に迷っておる者たちもいるが、その者たちの言葉を伝えた数々の霊能力者というのも、テレビやなんかに言わせたであろう。あの者たちはだいたい、わしの配下にある者たちじゃ。その者たちが邪魔だったというか? 無駄だったというか? その人生が。

かつてのK会ということでは、ひじょうに蔑視された言い方をされたであろう。だけど、彼らが知性だけでうん蓄かました時に、多くの人びとは目を引いたであろうか。目に見えない世界ということを、人びとが受け入れただろうか。
ああ、ひょっとしたら、この物質至上主義のこの三次元の中で、どうじゃ、目に見えぬ世界があるやもしれぬ。ひょっとしたら死後の世界があるかもしれぬ。そのようなきっかけを強烈に印象づけたのは、我らが配下の者たちの仕事ではなかったのであろうか。違うか?

確かに、物珍しさだけでいうような、求めるような、現象だけの世界というのは、危険なものはたくさんある。だけども、スプーンをいきなり曲げてみせたらね、いろいろな、さまざまな超常現象というものを見せる者たちがいて、それがいったい何になるのであるか。

実際、何にもならんのである。ここにあるワイングラスをバーンと割ることなど我らの世界では簡単なことだ。この間、いきなりホーンと、竹筒を割った者がおったであろう。そのような、物質的にこの次元の物を、ある意味で瞬間的になくしてしまうことですら簡単である。そんなことばかりを彼らはやっている。

それが何のためになるのかと、そんなものは神の子のためには余計なことであり、無駄なことであると、そのようにかつてのK会では言われていたのではないか。なんの役割もなかったであろうか。
多くの者たちに、目に見えない世界がある、魂は永遠の命を持ち、転生輪廻を繰り返していくものがある、そのように伝えておったはずじゃ。

でも、もし死んで迷っているじいちゃん、ばあちゃんでも、自分をいじめ抜いて死んだ姑や嫁が出てきたとしても、もしそこで話ができたり、地獄で苦しんでいる姿を伝えられたら、それは逆に魂が永遠で生き通しであるということを、現象の中で示していることであろう。

理屈はわからなくても、実証の中で、この三次元の人びとに伝えているのであろう。それを、我々は現象の中、現象しかないと言われても、現象を通して目に見えぬ世界が実在するのであると、人問には潜在的に持っている
もっともっと多くの力があるのであるということを、難しい理屈や法理念というものが伝えられなくても、ただその現象を通して、繰り返して見せることの中で、人間たちに物質界以外の世界の力があると、人間には肉体だけが滅びればすべてが終わりではなく、霊の力があるのだということを、霊的な力があるのであるということを実証せしめていた。そのような役割もある。

だから、そのような者たちであっても今生、生まれてくる使命はあったし、そのような者たちにも、しっかり神の子としての使命があったのだということを、資格があったのだということを、それをわしはもっと生前多くの人びとに伝えたかったし、それとこの間、ORという者が説いていたK会の教えというものも、あまりにも難しく、あまりにも立派過ぎて、我々の力をひじょうに侮ったところがあった。
それがゆえに簡単に、ある意味で足をすくわれたというのがあるのではないだろうか。

我々の世界は、すべて行いがあるのみ。すべて技があるのみ。その力があるかないかは、自己の研さんにもよるし、実際地上に生まれていったとき何ができたか。

人が驚くようなものであっても良い。そのようなことが、何がこの地上に生まれたときになせたか。それが、たとえくだらないものであったとしても、イタコのようなことであったとしても、霊的な世界の実証の一翼を担ったということには変わりないであろう。何もしなかった人生よりはましであろう。

4.悟りが高くなるほど自己の魂を自由にする

これからは霊性の時代と言われている。この物質的にみな満たされたこの時代から、よいか、これから霊的な自らの神性の中にある、神の子としての霊性に目覚めていく時代がくる。その時に、そなたたちはもっともっと自らの力を信じ、引き出さねばならぬ。

我らが裏神道、裏の力を持った者たちが霊的な力を持つのではない。そなたたち一人ひとりも、もっともっと気づいていないだけの霊的な力を持っている者たちであるということ。
霊言のようなこのような力は、神より選ばれし者にだけが降りる力ではあるけれども、我らが磨いているような力であるのならば、そなたたち一人ひとりにおいても十分発揮できるものである。

それが邪魔になる時もあろう。しかし、これから霊文明の、霊性の証明ということをしていく時に、そなたたちのように、知的に法理論も持った者たちが、多くの現象を通して語っていくことがもし可能であるならば、もっともっと多くの者たちが、そなたたちレムリア・ルネッサンスというところの力を信じていくであろう。

だから自己限定をしないこと。自らの力を信じること。そのようなことをもって、そなたたちの使命を果たすという、そういう側面が欠けておろう? 違うか?

霊的なことはすべてこの者に任せ、自分たちは表であるということの理論の中だけで、悠然としているように我には思う。
しかし、神の子が神の子であるということ。その可能性は無限であるということ。その自らの力をもっと信ぜよ。そうすれば、大いなる力が発揮されてくるであろう。

悟りというものが、難しい、難しい修行の過程の中で、うん蓄かました、小難しい理論に囲われたものでなければ、何にも高みまでに行けないのであるならば、それは少しも神理などというものは人間を自由にしないものであると、わしは思う。

悟りというものは、高くなればなるほど、自己の魂を自由にするものである。自由に、自らの神の子としての神性を表現せしめ、人びとに対して多くの愛というもの、まあなんというか、夢というものを広げていける、そのようなものであるとわしは思う。

そのときに、坊主と呼ばれている連中は、あれもしない、これもしない、だから一生懸命修行して、自分を高みに連れて、多くの悟りを開いて人びとを、衆生を指導しようとするかもしれないけれども、あれもしてはいけない、これもしてはいけないという思いの中で、ひじょうに魂を不自由に縛っているように思う。

しかれども、我が思う悟りの中には、高みに昇れば昇るほどに、修行というものは、魂の中で神の子の神性を開き、自由に、この大海原のように、この宇宙の中を自由に自在に飛んでいき、泳ぎ、自分の中における光を自由自在に発揮できる、そのようなものが悟りであると、わしは思う。

だから、一面的な画一的なものの中だけで悟りというものを考えず、自分の中に自己限定をせず、自由に神のもとに、自らの与えられた個性というものを信じて、大いに頑張っていただきたいとわしは思う。

5.これからの頑張りによって未来は塗り替えられる

わしが大本教や、数々の中で予言したもの。それが当たったものもあればはずれたものもあるであろう。そのようなものはもう終わったことである。

それは今日のことを目指し、やはりそのことを思うための先陣として、わしはあの時代に命を持った。
しかれども、今はその本番の時を迎え、神の国の計画というものが今、難航、座礁し、また新たな計画が立てられている。

ノストラダムスと呼ばれている世紀の大予言者においてもしかりであろう。けっして外れたというわけではないけれども、あのときはあのときの計画の中における、未来のビジョンというものがあった。今はそれが最終的な段階にきて、これからどのようになるか、それは上の神々におかれてもわからぬことがあるということ。

だからそなたたちにおいては、みだりな予言は禁止されているはずである。
なぜであるならば、上の神々であってもわからぬことがある。それは、それほどに旧来の流れの中における、そなたたちの動きではないということ。そのそなたたちの頑張り、次の世代に生まれた者たちの頑張りにより、未来というものはいくらでも塗り替えられていくから。

でも、そなたたちが頑張れなければ、その先に見える未来は語る必要はないということ。逆に言うと、未来はないということである。だからこそ予言は今降ろされぬ。

我が降ろした予言。それはその時代の中で、その当時の計画、神の計画に沿うた未来を、そのままに映し出したビジョンであった。それにより、口にすることにより、多くの迫害があったけれども、そなたたちに同じ思いをさせたくはない。

つまらない未来を予言することにより、そなたたちが本来の使命を果たさねばならぬことから、つまらぬトラブルの中で、エネルギーや時間を取られることを私も望まない。わしも望まない。多くの神々も望んではおらぬ。

だからあの時代と今とでは違うということ。
そして、我も今は、あのとき生を終え、この天上界に帰ってきたその当初より、今も数々の変化を乗り越え、今このような状況の中で、これから先の未来に対する願いに近いような思いでそなたたちを見ている。

それは、我ら天上界の神々すべてがそなたたちに思っているひじょうに強い、切ない願いでもある。それをそなたたちは、我らの思いを引き受け、どうか自由に、自ら神の子としての力を発揮して、この地上最後の計画の中に邁進されていただきたいと思う。

6.正しく使えば霊能力で人びとを救える

けっして自己限定されることなかれ。地下の者たちに通じると思って、このような霊能力をすべて忌み嫌うことはない。
逆に、ほんとうに正しき思いの中で、霊能力というものが使われたのであるのならば、それは多くの数々の人をもっとより円滑に、効率良く、人びとを救ったり、指導する力にもなるであろう。

そして、何よりも大事なことは、目に見えぬ世界が実在するということ。そればかりはどんな理屈をもっても証明できぬ。それはやはり現象をもってしか証明できぬであろう。かの高橋信次と呼ばれる方も、現象をもってその愛の教えを説かれたからこそ、今日もってこのような名が残られ、多くの人びとに慕われている。

イエス・キリストにしてもしかり。モーゼにしてもしかり。

多くの預言者、多くの救世主と呼ばれていった者たちには、やはりその知恵ある愛の法というものに足して、加えて、その霊能力というものがあったればこそ、彼らが巨大言媒としての役割として、多くの神々の言葉を地上に降ろせたからこその、法の神髄というものが降りたのであると。

巨大霊媒としての天上界の援助というもの、ことだまというものを地上に降ろす力がなかった救世主は、一人たりといえどもいないのである。

であるならば、霊媒的な力というものは、救世主界をもって、最上の力をもって常に兼ね備えているものであるのならば、けっしてその霊能力というものを忌み嫌う必要はないはずであろう。

霊能力から入っていっても、最後、法を学べばよいのである。
霊能力を持っているからといって異常な迫害をされた時代がある。ちょっとでも霊視ができたり、ちょっとでも預言ができると、ほんと魔女と言われるような、たいへんな迫害を受けたのが世の東西を問わずあったであろう。忌み嫌われ、村八分にされ、殺された者たちもいる。そのような者たちの力を、「裏」と言って忌み嫌う必要はないのである。

それは神が元々、我々神の子たちに与えられた力である。それが中途半端に出て、教えというものが伴っていないから、霊能力ばかりが優先してしまったから人びとに薄気味悪がられ、それが表の坊主と呼ばれていた、坊主というか、仏教徒というか、仏弟子の者たちから見たら、そのようなものはいらぬ力であるというふうに言われたかもしれないけれども、やはりそのような力というものも、人びとの中に埋め込まれ、神が与えたもうた力であるということ。

それが科学と宗教というものが統合され、完成を見る時であると言われている。物質至上主義の世界と、霊文明が合体する総仕上げの時期であると言われている。それと同時に、神の法というものと、霊能力というその霊媒の力のようなもの、そういうものが最終的に統合されるということが打ち出される時代でもある。

それが文明の最終的な大詰めの、最終試験と呼ばれている総合的な能力を試される今の時という、その総仕上げの時期に与えられた、神から人類に与えられている知恵なのである。その集大成の時にあたっている。だから「卒業試験」と言うのである。その流れの中にどれだけついて来ることができるか。

7.霊言で降ろしているのは神の価値観

そなたたちは、その最先端の中で、神から降ろされる叡智というものを、人びとに提示していく、最先端の力の中で今霊言が降りてきている。

それをどれだけ理解できるか。理解できぬ者は、「魔だ」と言う。自らの理解能力の不足を棚に上げ、自らの霊的な知覚能力を棚に上げ、この者の力を魔だ、と言う。それは自らの学習が足りぬだけ。自らの器が足りぬだけ。自らの力が、識別力が足りぬだけなのに、神よりの使者を「魔」と言う。

それはいつの時代もそうであった。
イエス・キリストにおいても同じであった。「神の名を語るとは」、と言われた。彼は最後、十字架にはりつけになった。

ジャンヌ・ダルクという女性もそうである。そうであろう。「神の子、私はミカエル大天使より指導されている」と、「神により指導されている」と言っただけで、結果的に火あぶりの刑になった。そのような無理解、未熟さ、それが神の使者を最終的に死にやる過程を、今までが踏んできたのである。

今の日本は法治国家であり、言論の自由が認められている。だからそのように殺されることはない。
そのような平和な時代に、愛の使者として、そなたたちが神の使者として、使命を果たせる時代にあることを、この道を引いてくれた者たちに感謝するべきであろう。

そのために我らが出る前に、明治維新の者たちが出てきたのである。その明治維新の多々ある者たちの偉業を、霊言を通して学んだであろう。その中で何がいちばん大事であったか。彼らが地上に行った時は、もう少し地上的な価値により評価されていた。彼らが死して我らが世界に戻ってきたときは、神の国と呼ばれている世界に通ずるものだけで、彼らは反省を行い、彼らの評価というものが決められてきた。

それをほんとうに神の尺度というもの、神の価値観によって、何がいちばん大事なのか、時代的な英雄たちであってもこのように評価されるのであるということを、今地上に降ろすことにより、神の国の尺度、価値観というものを、この地上の尺度として、価値観として、今降ろす時代にあるということを、大切なことであるということをもって今霊言を降ろしていのである。

わかるか。そなたたち三次元の、地上の者たちが持っている価値観などは、我らが世界に死してきては何も通用せぬものであるということ。
そのことを思うのならば、今神の国の価値観というもの、尺度というもの、それを今書籍により、霊言により、地上に降ろすということが、いかに、いかに重大なことであるか。

神の目によって神の子たちを見たときに、どのように評価されるか、どのようなことがいちばん大切なことであるかということを、我らはこの地上の者たちに伝えるためにこうやって霊言を降ろしている。

神の国の、神の巫女として、神々の言葉を伝えられる者はそれほどたくさんはおらぬ。しかし今、我々の神々の言葉を今伝えられる者がいる。であるならば、そなたたちは今我々の言葉を伝えよ。
そして神の国の価値観を、神の国の目からみた尺度というものを、この地上の価値観として、尺度として人びとに伝えていき、それがいつかこの三次元におき、地上におき、一体化したときに、この地上は神の国になり、愛の星になるのである。

今のような間違った、名声や、権力や支配欲や、この地上的な富とか、肩書きとか、そのようなものが、ほんとうの意味で神の子としての尺度になるのか。神の子としての本来幸せなものであり、神の目から見た評価される、高き尺度になるのかと言ったら、そんなことはないということぐらい、もうそなたたちは理解しているであろう。

しかれども、それを知らぬ者たちがいる。その中におき、つまらぬ、つまらぬ限定をしないこと。おなごを抱いたからといって、地獄に堕ちるのなら、この出口王仁三郎などはとうの昔に堕ちておるわ。数々の女を抱いたからといって堕ちるぐらいの、酒を飲むから霊言もとれぬ、酒を飲んだから地獄に堕ちる、そのようなつまらぬ自己限定をするものではない。

人間は本来もっともっと自由なのである。その動機こそが大事なのである。いちばん、何ゆえに女を抱いたかーー。

アマーリエ: そんなこと、正当化してどうするんでしょう。
出口王仁三郎: それが私の法じゃ。
アマーリエ: さっき、かっこいいこと言ってたのに。

8.間違わないことばかりを恐れてケチくさい小さな器になるな

出口王仁三郎: この地上の者たちに伝えよう、神の国の価値観をこの地上に降ろすということ。そのことをもって、今後のこの地上の体制を立て直していくのである。
そなたたちはこの間から、体制を立て直していくには何がいちばん大事かということを、重ねて聞いておった。それは神の目から見た神の子としての尺度、神の目から見た視点、それによる価値観というものが、その方向が定まったときに、教育制度も政治体制も、憲法も、すべてが、医療もそうである。そのようなものがすべて連鎖反応的に変わる時がくる。

変わる時は一瞬である。碁をさす時そうであろう。ホーンと勝った時に、瞬間的にバーンと色が変わるであろう。あれじゃ。その瞬間がくることを、我は願うとる。
そのために今我々は、こうやって霊言を降ろしている。そなたたちも、なにゆえこのような霊言が次から次へと降りるかを、理解していないとこもあるであろうが、今そなたたちが、これから無心に本を出していくこと、霊言を降ろして、それを文章化していくということが、後世に対する神の視点というものを、しっかりと明確に打ち出す、そのような規範として、この地上に打ち出される、そのような時が今であるということをもって、そなたたちは今の仕事にまい進されたしと思う。

地上はけっしてそんなに不自由なところではない。間違うてはならぬが、間違ったら引き返せばいい。それぐらいの太っ腹な気持ちで生きてゆけ。
間違わないこと、間違わないことばかりを恐れて、ケチくさい小さな器になるな。間違ったっていつでも帰って来られる。なぜなら全部、神様の懐の中だから。どこにいったって神の国さ。下に行ったって神の国。ならば違ったと気づけば戻って来ればよい。

よいか。そうやって自分を限定し、囲って小さな中に入ってしまうほうが、自らの力を引き出せず、自らを限定し、不自由にすることは、他を裁くことにつながっていく。そのような気持ちで、多くの人びとを裁いてはならぬ。自分が自由になれぬ不幸さを、不幸せさをかみしめるからこそ、その怒りが他者に対する批判に結びついてくる。

それを思うならば、常に自由であれ。常に人生を満喫して、自己限定をせず、幸せに臨んで、何ならば神の子としてできるかと、最高に自らを出せることを最優先し、そなたたちの力を出していけば、必ずや神はそなたたちに、そなたたちの本来の使命というものを現したもう。

使命が現れてきて、その自らの認識したレベルに応じて、使命というものを明かされていくのだから。その認識したレベルにおいて与えられた使命を精一杯働け。

そしたらそれを一生懸命したならば、それを通して学んだのならば、その上の認識力を持って、またさらに高度な使命がそなたたちに与えられるであろう。そうやって使命というものは、徐々に徐々に上に向かって、多くの者を救済できる使命が与えられるのである。

だから実力を持つには、認識力を持ち、行動力を持ち、この地上でいかにひとりでも多くの者たちを幸せにすることができるか、行動をなすことができるか、そのことが最大の地上の者たちの修行であるということを、心に肝に銘じ、自由に生きていただきたい。

9.そなたの光線の色合いをもってこの地上を照らしだされよ

どこまでいってもお釈迦様の手のひら、という言葉があるが、どこまで逃げたって神の手のひらである。ならば恐れることはない。どこに行っても帰って来れぬ神の国なぞないのである。間違えればこそ、修行になり、学べるのが人の道、人間である。

ならば神の子として、もっと安心して、我において如来であるならば、そなたたちだって如来を目指せ。平気で仙女たちと戯れようと、女を抱こうと、酒を飲もうと、我は如来である。そのような神の国の、自由さというものを、もっとそなたたちも学んでいただきたい。

そうでなければ多くの者たちはついて来ぬ。不自由なところで、正しいことだけで清まって、排他的な考え方の中に、そんな人間に多くの一般大衆は魅力を感じてついて来るであろうか。
多くの者たちがついて来るのは、自分たちとおんなじ、痛みや悲しみや、欲望や快楽や、そういうものを全部飲みこんで、それを一緒に泣き笑いして喜んでくれる者たちにこそ、多くの人びとはついて来るのである。その者が語る言葉であるからこそ、多くの大衆がついて、あとをついて、その人を手本について来るのであるぞ。

酒も飲まぬようなやつはダメじゃ。酒ぐらい飲め。女ぐらい抱け。そんなもので神の国が清められぬ、極められないようなケチくさい神さんなんて捨ててしまえ。捨てられるぞ、そなたたちはみんな神の子じゃ。

であるなら、もっともっと自由に生きよ。そして、もっともっと自らの力を信ぜよ。どこまで行っても神の国なんだから、神の子としての可能性を追求せよ。そして全生涯をもって、今回の稀なる計画のために、そなたたちの自由な魂を泳がせわたる、泳がし、生き抜くことをもって、そなたたちの使命を果たされよ。そうすれば、素晴らしき彩りに満ちた人生とともに、彩りのあるこの世界を具現化させることができるであろう。

墨衣だけの世界はいかん。黒と白だけの世界はいかん。神の世界は、もっともっと彩りに満ちている。もっともっと色鮮やかな、喜びや楽しみに満ちている。

我は今、マヌ神と呼ばれている方が出られていることを喜んでいる。ひじょうに自由な方である。そのような方をもって九次元におられるということ。
我が言葉より、もっともっと説得力があろうが、しかし、あのような神が今、通信を送っておられるということを、我はひじょうに喜んでいる。

そのことをもって、今地球的な意味において、総合的な集大成の時期であるということをそなたたちは肝に銘じ、これからの使命を果たしていかれたい。

どうかこの世界に、我々が世界に、使命をそなたたちが終えられて帰ってきたら、どうか酒を一献傾けよう。
そして地上の土産話を我に話していただきたい。地上にもいい女がたくさんおるが、天上界にもいい女がごまんとおるから、われが美しい仙女を紹介しようと思う。いいぞ、仙女は。かわいいぞ。

栗山: 質問よろしいでしょうか。これからレムリアで芸術を通して、連動せよよいうお言葉をーー。
出口王仁三郎: 我に芸術はわきあらん。女の道ならそなたに紹介しよう。そなたはおなごの道を極めておらんであろう。

栗山: はい。せ、先生、でも、霊界物語という素晴らしい、大長編の物語があるんですけれども、そういう方向で私は、大長編のですね、物語を通して何かを表現していくのが自分のやりたいことなんですけど。

出口王仁三郎: 神の彩りは多彩である。神の世界の表わし方には様々な道がある。そなたはそなたの光線の色合いをもって、この地上を照らし出されよ。そうすれば、そなたの使命が開花したときに、大いなる使命が果たされて、その中における芸術の光線も出てくるであろう。

それは我がわからぬというのではなく、我が今、語るべき言葉ではないから、我は今わからぬと言ったのである。
芸術には芸術の神という、畏れ多い方が控えておられるのである。我がみだりに口にすべきことではなし。そのために今我は、そのように言ったのである。

それよりもそなたは、もっとおなごの良さを知れ。そうすればもっともっと素晴らしい力が出るであろう。いいぞお、おなごは。もっとおなごの力を信ぜよ。このおなごにおいてもなかなかいいので、わしも口説こうと思っとるが、言うことを聞かぬ。

今はひじょうに多くの神々が見られているので、いらぬことは申せぬ。品の悪いことは申せぬので、少しまじめな話をしたつもりである。
そなたたちは見えぬであろう。ものすごい数の神々が今この場におられるということ。
次の神に道を譲り、われは今日これにて失礼しようと思う。

一同: ありがとうございました。

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