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Project Eden

1.伝統宗教の中にある矛盾点を徹底的に洗い出す時代

皆さま、はじめまして。ヨハネです。
今、世界的に数々の伝統的宗教が、その存在意義を問われ、」大きなうねりの中でひとつのるつぼに投げ込まれ、大いなるひとつの地球の教えとして一体になろうとしています。
その過程の中で、イスラム教はイスラム教の中に内包している問題点というのが浮き上がってきているように思われます。そして、そこの素晴らしさ、そして、そこからくる矛盾点というものを徹底的に洗い出すことにより、膿を出すことにより、多くの方がたは、その時代的意味、そのイスラム教における、素晴らしさとともに過ちというものも今、学ぼうとしているのです。

それと同時に、どうも世界の正義というのはキリスト教にあり、イスラムだけがとても違和感のある、クレイジーなものであるというふうに思われているかもしれない。
でも、宗教の中には、みなどれも素晴らしいものがありつつ、かつ矛盾した点をも抱えているということが
我々の世界から見た真実であるのです。

キリスト教、仏教、イスラム教、すべての中における、今その内側にある膿を徹底的に洗い出す、流し尽くす、吐き出す、それが今の時代の中における役割でもあるのです。その中でやっときたのが、キリスト教の洗い出しであるということなのです。

あなた方は、もう伺っているはずなのです。九次元自らの方がたからのメッセージをあなた方が受けながら
あなた方は九次元の方がたであられても、肉体を持つならば、ひとつの人格霊としての修行を果たされている、ご自分自身の修行もある存在であるということ。みな、神の子であるというのは、イエス・キリストだけではなく、マホメットやモーゼたちだけではなく、神の子というのは、みな人格を持ち、肉体を持ち修行をする、あなた方も含め、すべての九次元の救世主界の方がたもすべてを含め、神の子としての地上での修行があるということ。

その意味ではみな平等であるということを、あなた方は今回、学ばれているのではないでしょうか。その意味において、我らがイエス・キリスト、バプテスマのヨハネとして出たときにお仕え申し上げたあのインマヌエルと呼ばれた方であったとしても、あの方も大いなる救世主としての使命を持たれて、この地上で大いなる役割を果たされました。でも、やはりひとりの人間として、若者として、青年として育たれる中においては、人間としての苦しみがあり、学ぶことがあったということなのです。

でも、それは当たり前のことであり、人間としての喜びも、悲しみも、苦しみも知ったらばこそ、我々のような、平凡な人間たちの心を、どのように導いたらいいか、我々の気持ちをほんとうに思いやってくださる
そのような愛の法が説けたのだと思うのです。そのためにも、神の子として平凡な人間、インマヌエルという存在の修行というのが、どれだけ貴重であったかということ。

それは、仏陀における、釈迦族の王子として生まれた、ゴーダマーシッダールダという方におかれましても、同じであると思うのです。前半、カピラ城におかれての彼の人生は、その後の法を説くためにおいて、大いなる肥やしとなったはずなのです。人間としての情愛、男女の愛、子どもに対する愛、社会におけるさまざまな権力抗争、そういうものが、その後、仏陀の中に、法を説かれるときに、大いなる慈しみとして、慈愛として、慈悲として、実を結んだ法を仏陀が説かれる、そのような原動力になられたのです。

だから、救世主が一人の人間として存在するということ、人間としての苦しみ、人間として生きたということは、けっして、恥ずかしいことではないということです。

それは当たり前のことであり、逆に、それを神格化し、絶対視し、まるで聖母マリアのところから、処女受胎しながら特別のように生まれたという、そのような誕生秘話というのは、仏陀においても、すべて後の世に、神格化するために、地上の者たちがつくり上げた寓話でしかないのです。

そのようなものの中から人びとは、もう人類は解放されねばならないということです。どんな、救世主界の方であろうとも、一個人としての修行をしておられる、貴重な人生を修行しておられる、一人の神の子であるという視点において、だから、間違いもすれば、悲しみも、喜びもあるのだということを、我々、人類はもう学ばなくてはいけないのです。そのことを、今回、提起するためのものでもあります。

キリスト教の者たちが抗議デモをするのは、イエス・キリストは彼らにとって見たらば、神の子として絶対主であるのです。神の子として、自分たちと天にあられる父なる神との間をつなぐ、唯一の絶対的なる神の子である。それゆえに、彼は処女から生まれ、そして結婚もせず、苦しみもなく、超越したところから神のメッセンジャーとして、我々に神の法というものを伝えた。

彼らにとってみたならば、大宇宙に遍在する大いなる愛のエネルギーとしての神を法則という、あなた方はもうご存じですけれども、絶対的なる愛そのものを神と呼ぶのではなくて、一個人、インマヌエルと呼ばれた、その存在を通して、そのものを、逆に言うと、神格化して、神というものをとらえている。

そこの中における迷妄というもの、その中における、ひとつの神職にある、クリスチャンの者たちの無知蒙昧ぶり、ひじょうに狭い、偏狭な物の考え方というのは、彼らを悟りからひじょうに遠ざけているということがあるのです。

ドグマによる、彼らの魂を縛っているもの、余分なキリスト教神学の知識というもの、そんなものがあるからこそ、彼らは大いなる事実から目をそむけ、本来の魂の目覚めを阻害されているという現実があるのです。

それから彼らを解放するにはーー。神を信じない者たちも救われないかもしれない。でも、ひとつの宗教に凝り固まり、他宗を排撃し、自分たちの古い時代から抱え込んでいる、その神学的なドグマの中で、自分たちの教祖、救世主だけを絶対的だと思っている神とは、その救世主の存在そのものであると思っている、そのような彼らの無知を解き放たねばならない。

それが、我々が今、地上に対して提起している問題でもあるのです。そのために、今回のダビンチ・コードという映画は、ひじょうに勇気のある者たちによって制作されたということなのです。

イエス・キリストは言われたと思うのです。「わたしは地上に平和をもたらすのではなく、混乱と争いをもたらすためにやって来たのである」と。

それはどういうことであるかというと、古いものの因習の中でつつがなく暮らしていれば、けっして混乱はないのです。でも、常に新しき時代の幕開けをし、新たな真実が説かれ、新たな救世主が出るというときには、常にその古い形骸化した宗教に一喝を与え、古い迷妄な、無知な教えに鉄槌を下し、打破し、新たな文明の夜明けを、新たな世界観というものをもたらす、そのようなことが必要になるのです。

そのためには一時的な混乱というもの、争いというもの、互いの憎しみというものを招くかもしれない。でも、それは古きものから、新しきものへ成長していく、時代の大いなる転換点の持つ苦しみ、時代の苦しみかもしれないのです。

第5章 バプテスマのヨハネ:救世主もひとりの血の通った人間であった

1.伝統宗教の中にある矛盾点を徹底的に洗い出す時代

2.イエス・キリストもまた、ひとりの血の通った人間であった

3.宗教というかせを越えて、九次元の法のもとで地球をひとつに

バプテスマのヨハネ

「洗礼者ヨハネ」ともいう。イエスに先だってヨルダン川流域で水による洗礼(罪の浄めの儀式)をほどこしていた預言者であり、イエスも彼から洗礼を受けている。当時の人びとは洗礼者ヨハネがメシアではないかと思ったが、彼はイエスの到来を予見していたため、「私はその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べて、イエスが現れると彼の元に自分の弟子の一部が移ることを許可するなど、聖書には洗礼者ヨハネの謙虚な姿勢が一貫して描かれている。
彼は主に町で法を説いたイエスとは異なり、荒れ野でイナゴなどを食べて生活する苦行者でもあった。ガリラヤ地方の領主ヘロデ王が義理の妹であるヘロディアと違法に結婚したことを糾弾し、ヘロディアの怒りをかって投獄、斬首された。
レムリア霊言では、イエス・キリストであっても生きていたときには一人の人間であったこと、聖書の内容の多くが後代に削除されたことなどを明かしている。
日本の平安時代に源信として生まれ、『往生要集』を残した。その後、中世ヨーロッパでスウェーデンボルグとして転生し、霊界探訪記を残した。

3.宗教というかせを越えて、九次元の法のもとで地球をひとつに

そのために、今回の、天上界で組まれたひとつの試みでもあります。キリスト教霊団のほうでつくったひとつの
仕掛けた今回のプランでもあるということなのです。そこから、人類は学んでいただきたいと思います。本来の姿というもの、それはレムリアで説かれている神理と少しも矛盾はしないと、わたしは信じます。

天上界の方がたを、どうか信頼して、天上界をひとつにし、そして地球をひとつにするために、皆さま方に力を貸していただきたいのです。
自分たちの救世主が絶対であり、自分たちの宗教だけが絶対であるなどと思っている限り、地球はひとつにはまとまりません。

愛という、神の宇宙の根源的な思い、神のエネルギーに一体となって、ひとつにまとまっていくには、宗教というかせを越えて、自分たちの救世主というかせを越えて、大いなる神の子としての、統合されたひとつの認識の中で、皆が手を取り合い、魂と魂で信頼関係を結び合い、ひとつになること以外、この地球を愛の星としてまとめ上げる道はないということなのです。

それを、インマヌエルは、愛というものを説かれながら、説かれたのです。そして、それを今、実践されようとしているのです。「自分は父と子と精霊の、子として、自分ひとりだけが神の子である必要はないのである」と
「わたしだけじゃない、あなた方すべてが神の子であり、わたしも一緒に神の子であり、わたしたちは仲間であるんだよ。父なる、大いなる神のもとに、わたしたちは、皆、神の子なんだよ」ということを。
「わたしもいいところもあれば、悪いところもある。失敗もあり、喜びも悲しみも味わった、ひとりの人間であったのだよ」ということを地上の者たちに提示するために、今回、九次元の方がたは、このメッセージを送られ
そして世界的にも、こういうことが起きているのです。

それぞれの霊団の者たちが、地上の者たちに、その事実を通して学ぶことができるように、多くの計画を立てております。
これからも、数々の計画されたものが火を噴いていくことでしょう。
あなた方も、たいへんなご苦労があると思います。でも、今回、ダビンチ・コードをおやりになった方がたは、どれだけの勇気があったでしょう。

キリスト教圏の中では、あれをやった方がたはたいへんな批判の中にさらされているのです。地位も、名誉も、名声も、もう抱えた人たちが、こんなことをする必要がないのにもかかわらず、あの俳優、トム・ハンクスにしても、すべての者たちが命がけで、この計画、映画を制作していったのです。

その彼らは、自分でも、何ゆえにこれをしたかはわかっていないかもしれない。でも、彼らはそれをしてくると、それが自分の使命だとわかっているからこそ、命がけでその使命を果たしているのです。キリスト教言団の者として、彼らも命がけでやっているのです。

ですから、あなた方もどうか、あなた方の役割を命がけでやって、天上界の者たちのメッセージというものを伝えていただきたいと思うのです。

あなた方の教えが、あなた方が伝えていく天上界のメッセージが、救世主と呼ばれた九次元の方がたの愛の言霊が、この地球を救っていくのです地球をまとめていくのです。地球を愛の星にしていくのです。

もう、今までの古い、旧態然とした宗教という、そのような狭い価値観は、もう何の役にも立たなくなり、大いなる地球規模で、宇宙規模で説かれる愛の教えの中に、地球という理念が一体化されていくということ。まとめられていくということ。そういう宇宙時代がやってくるのだということ。その時代がきたということを、どうか皆さま方、認識していただきたいと思います。

ほかの宗教、仏教関係におきましても、そういう改革の嵐というのがくるでしょう。数々の宗教の霊系団の者たちが
自分たちの改革、革新というものを含めて、計画しております。
そういうものを通して、どうか皆さま方も、地球規模のグローバルな視点において、どうか、地球規模の教えというものを、この時代に打ち出すことができる、そのためにどうか、お力添えをしていただきたい。ご助力いただきたいというふうにお願いしたいと思います。

では、今日はこれにて失礼いたします。ありがとうございます。

2.イエス・キリストもまた、ひとりの血の通った人間であった

それがイスラム教だけではなく、今回の、このキリスト教にもあるということなのです。事実を事実として認めることができない。彼らの抗議デモを見ると、ただただ、イエス・キリストを神の子としてまつり上げ
それをすることで何になるのか。天上界にいるイエス・キリストに対して、忠誠を尽くしているつもりであるのか。いえ、違う。それは、彼らは自分の気持ちを落ち着かせたいためだけなのです。自分たちが納得したいだけなのです。そのために、イエス・キリストが結婚していては困るし、イエス・キリストがマグダラのマリアと結婚しても困るという、そういうことなのです。

事実は事実として、違うかもしれない。でも、イエス・キリストという存在を、救世主でありながら、ひとりの人間として、血の通った人間として描こうとした、彼らの勇気にわたしは拍手を贈りたいのです。
そして、そういう認識を人類は、もう持たねばなりません。

九次元の十人の方たちが、今回、あなた方を通して、これだけのメッセージを送ってこられております。それは、今までは、かつて根源神と呼ばれ、天上の上で、お姿すら、名前すら呼ぶこともかなわない、恐れ多いと言われた方がたなのです。その方がたが、直接にあなた方を通してメッセージを伝えてきているということ。

それは、もう、天上の上の神々、神の中に埋もれているものではなく、「あなた方と同じ神の子であるよ」と、「あなた方よりちょっと先輩なだけな、修行を先に進んでいるだけの、地球を愛する指導者であるのだよ。あなた方の友であるよ。あなた方の仲間なんだよ」と。

「だから、わたしたちと一緒に手をつないで、新たな時代をつくっていこう。新たな文明をつくっていく、次の地球の時代をつくるために、天上界、地上界共に手を取り合って頑張ろうではないか」というメッセージを、天上界の方がたは、あなた方に必死に伝えておられるのです。それ以外の何ものでもないのです。

自分たちが悟りすまし、神の座であぐらをかくわけではないのです。
それを皆さま方、もうわかってほしいのです。

それに対して、事実は事実として認められない者たちの、最後の反乱がイスラム教においても、キリスト教においても起きているということなのです。
だからこそ、だからこそ、わかりますか。あなた方の運動が必要だということなのです。
あなた方が、天上界のメッセージを伝えていただきたいのです。

九次元の方がたがどのような思いでおられるのか。
真実が何であったのか。
真実を真実として知らないからこそ、あのような無知な、宗教同士によって争い合うような、地球を傷つけ合うような争いが、今日行われているのです。
真実を知ることがあったのならば、そんなことはつまらないことであると。

抗議デモだけではなくて、イスラム圏とキリスト圈との争いが、この地球を滅ぼそうとすらしている現実を見ているのならば、あなた方の中にある認識、その神からのメッセージ、あなた方にしてみたら、もう、当たり前になっているかもしれないけれども、九次元の方がたがどのような存在、どのような思いで、地上の者たちを見ておられ、メッセージを命がけでされているかということが、地上の者たちに伝わったときには、今ことごとく争っている者、今このような矛盾で吹き出しているものが、すべて消えていくのです。

そのためにも、どうか勇気を持って、レムリアを通して、我々のメッセージを伝えていただきたいと思います。
今の時代、最後は膿出しなのです。
今までため込んできた、ため込んできたもの、汚いもの、間違ったもの、そういうものは今までの時代の中では、まだ卒業できない過程として、それを通して、ひとつの方便として、キリスト教も、仏教も、神道も、日本神道もイスラム教も学んできたのです。地球の方たちは学んできたのです。

でも、もうそれを卒業し、そしてそれが時代の中で形骸化し、ひとつの時代の膿として悪いものがたまったときに、最後、新たなものをつくり出すためには、ひとつの破壊的に見えるかもしれないけれども、膿出しの作用をして、そしてほんとうの意味で、膿を出し切ったあとに新たな時代の夜明けがくるのです。
そのための、ひとつの問題提起であるということです。

それがけっして、抗議運動があるから、悪いことであるのではなくて、ひとつの大きな時代の中の、地球の今の時というものを考えたのならば、こういう問いかけもあるということ。

クリスチャンがもっと正面から、自分たちの救世主が、本来は神の子であったということをもっと認めねばならない。

なぜなら、インマヌエル、イエス・キリストと呼ばれた方は、もっともっと、血の通った方であったということです。ただ、激情型のところもあったかもしれない。でも、愛の深い方でもありました。恋もなさいました。そういうところがあってこその、インマヌエルの、イエス・キリストの御生涯の真価というものがあるのです。業績というものがあるのです。

それを塗り替え、削除し、勝手にひとつの神話のようにつくったのは、地上のキリスト教会の者たちではないでしょうか。

聖書の中で多くのことが削除されています。もともと書かれていたことが、みな削除されたのです。彼が三十歳までのことをほとんど書いていません。それ以後のこともほとんど削除されているのです。

それは地上の者たちが、イエス・キリストという者を絶対視する、させんがために、都合の悪いもの、神格化できないものを、みな削除したという歴史があるのです。
そして、それ以外にも、つくり変えていったという歴史があるのです。

もう、そのような無知蒙昧なものの中で、真実の神の使者としての役割というもの、神の思いというもの、天上界の方たちの思いというもの、指導者としておられる九次元の、インマヌエル、イエス・キリストの思いというものを、ほんとうに理解する、今日の姿というのはないと思うのです。

「それをほんとうに理解してほしいから、けっして、まつり上げた姿なんかで自分を好いてもらっても、好かれなくてもいいから、自分のありのままの姿を通して、わたしを神の姿の代弁者として、あなた方と同じ神の子として、わたしを見つめてごらん」と、大いなる愛の中で、インマヌエル、イエス・キリストは地上の者たちにメッセージを送っているのです。

上に行かれれば行かれるほど、自分を買いかぶったり、自分をそれ以上の者にまつり上げようとする、そのような思いというのはなくなってくるものなのです。
今までは、その衣を着ることも、ひとつの、人類を指導するという意味においては、必要だったかもしれない。
でも、今はもうそんな必要がなくなったから、神々と呼ばれていた方がたは、その衣を脱ぎ捨て、ひとりの人格霊、人間として、神の子の仲間として、地上の者たちに、その姿をさらけ出そうとなさっているのです。

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