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Project Eden

第4章 神と芸術

1.地球文明と芸術の役

2.神とは「愛の法」そのものである

3.神こそ最大のアーティスト

4.愛の輝きこそが美を生み出す

5.真の芸術家とは

6.地球を愛の星とするために

7.自分自身と出会う旅

8.愛の波動を受けとめるとき

9.神へと続く無限の道

10.調和はやがて美に至る

11.愛と赦し合いの中で

12.芸術家たちの使命

マヌ

古代インドの法典「マヌ法典」の伝説上の編纂者である。
「マヌ法典」は、ヒンズー教の基礎となる天地創造から、日常の生活、道徳、儀式や作法などに関する細かい規定が、記載されている。
洪水、神話においてノアと同様な役割を果たし、「人類の始祖」と称されることもある。
英語における「man」(=人間)は、「manu」(マヌ)に由来するという説もある。
レムリア時代には、マルガリットという名の指導者として活躍し、芸術を中心とする文明を築き上げた。
天上界では、緑色光線(自然・調和)を担当し、芸術および民族問題などを担当している。

1.地球文明と芸術の役

こんにちは、マヌです。
最初に彼女(アマーリエ)のところに出たときには、レムリア時代の話とか簡単な芸術論の基礎というものは話ししたのですけど、そのときには、Aさんぐらいしかいなくて。
まったく芸術関係のことを理解しない初期のかたたちもいらしたもので、さわりだけをお話して、それ以上は、芸術関係の方たちがいらしたときにお話しましょうということで、それで二年ぐらいたったのかなあ。そのようなプロセスがあったと思います。

芸術理論、芸術論だけに絞るのではなく、僕は別名「芸術の神」と呼ばれている仕事をしているのですけれどね。僕の、この地球の文明の中における芸術としての役割と、今の位置関係というものをからめながら、みなさま方にお話しようかなと思っています。

芸術とか、この間カイトロンが出て言っていたように、科学とかねーー、みなさまの頭の中では芸術論があり科学論があり、仏教があり宗教論があり、生物とかいろんな分野に分けて考えるのかもしれないけれどね。
もうちょっと別な惑星に行って、地球と別の意識、高い意識になったところから見ると、僕らの今の境地というのは、科学だからとか、芸術だからとか、宗教だとか、そういう狭いものの中だけの理論であるということ。

それぞれの方法論としてはあるんですよ。あるけれども、何がいちばん問われる時代になってきているのか、地球という文明が置かれている立場、今このときの、ということにおいてね。

みなさまも学んできてはいるけども、今まで科学は、この文明に限って言えば、仏陀とかモーゼとか、イエス・キリストと呼ばれているインマヌエルが出ていったときに説かれた、しっかりとした宗教の基本を抑えて、それから科学というものが進んで、二十世紀後半にかけてすごい勢いで進歩発展を遂げたわけでしょう。

その両輪において統合されるというのが最後、エル・カンタラーが負った使命で、次の宇宙文明の夜明けというのが打ち出されるという、そういうステップがこの文明の中の、今回の文明実験ん大きな山場でもあったわけだ。

そういうことを考えると、ここに至って、何がいちばん人類にとって明かされるべきであったか。確かに、高橋信次、エル・ランティが出られたように魂の普遍性ー一、輪廻転生があってね、それはインドの時代からも言われていたことだけれども、そういうものを通して、人間が科学の便利さとか科学的な技術というものを踏まえながらも、その上で、輪廻転生している魂であるということを思っていく。

宗教という、一部の信じるものたちだけのものではなくて、現実として、魂という永遠の命を持った存在が人間であるということの自覚をすることが、ものすごく大事なことであったということ。

僕たち、高級霊と呼ばれている者たちが根源神のように思われていたわけだけれども、霊界の構造が明かされることによって、僕らが、実際はあなた方と同じであるということ。ただ修行の過程において少しばかり先を歩いている、そういう存在が、この地球というものを預かって指導してきた。

僕らも、遠くのそれぞれの星から招霊された魂であるということを、明かす時代がやっときたわけですね。それと同時に、神という本質的なものを人類に明かすときがきているということなんです。

神というものが根源的に何であるか。
それはたとえば、天上界にいるイエス・キリストや、仏陀のことを神だと思って手を合わせたりね。それからヤーウェ、エホバと呼ばれているものーー、これは、エル・ランティという意識なのだけれども、その方が根源神であるかのように、「神よ」と手を合わせる。

神道でも、天之御中主や天照様に対して、天上の神であるというふうに手を合わせる。
そういう認識に対して、僕たち高級霊と呼ばれている者たちも、あなた方のちょっと先輩であり、あなた方と同じ欠点を持った人格霊である、ということをうちだしたわけですよね。

その先にあるのは何かというと、この宇宙を統べる愛の法そのものが、我々が目指している神そのものの意識であるということを、これから人類に向かって訴え続けなければいけない時代にきているということなのですよ。

2.神とは「愛の法」そのものである

神というのは何か。
究極的に何であるか。
それは「愛の法」以外のなにものでもない。
僕らのような人格、個性とかひとつの肉体の中に入れるような、そのようなものが神ではない。
地上、物質界を越えて、霊界のすべてを統べる、統治している根本的な愛の波動、愛として育み生かそうとする、宇宙を貫いている法そのものが神であるということ。

それを我々はやっと人類に対してのメッセージとして伝えられるようになったのです。
愛のソース、宇宙の根本的な根源的なソース、そこが神である。
その波動をいかに一人ひとりが感じ取ることができるか。
神に感応することができるか。

それが、オリオンにおいてもレムリアにおいても、芸術家が根源的な神とコンタクトをし、大いなるインスピレーションというものを引き寄せて、自分たちの作品として昇華し、多くの人びとに対しての神の表現媒体として、作品というものを打ち出していくということがあった。
それができた。
それにおいては今、この者(アマーリエ)が僕ら九次元の言葉をこうやって降ろしているわけですよね。

エル・ランティが、5次元幽界から上がってきた者の霊媒の話をしたらどうかって言いましたけれども。まあ、はっきり言って、そういう次元の格差のあるものを入れるというのはひじょうに難しい。
気持ちの悪い、気分の悪い思いをすればそういうものも入れるのでしょうけれど、同通する世界の者というのがあるのです。
下の者は当然上の言葉はとれないし、上の者が下の言葉をとろうとするとひじょうな不快感に襲われる。
「波長同通の理論」が、宇宙を貫いている法則の中にあるわけです。
それはあなた方もご存知ですよね。

だから、ことを絞ってゆくならば、カイトロンが言ったようにねーー。
カイトロンが言い、僕が言っていることは、ある意味で同じです。
宇宙の根源的な法則、愛の法則、そこにどれだけ僕らが近づいて、どれだハイレベルなものに波長同通理論で感応して、神の大いなる愛の波動の、限の創造エネルギーを、僕らが引き寄せていけるか、引き出していけるか。
それをこの地上において打ち出していけるか。
それをある意味では、彼女がやっているように、巫女さんと言われる霊媒人がやるわけだけれども、僕たちもそれと同じなんです。

だから、芸術家に霊能者が多いってよく言われるでしょう。
実際ここで、芸術関係をやっている人に霊道半開きの人が多いっていうの、そういうことなのですよ。
もともとそういう、霊的に感応する人が多い。
逆に、その要素がなければたいした芸術家にはなれないなと、そういうことなのですね。

カイトロンたちが言うように、科学においてもそうなのです。
科学というのは、常に進歩、進歩、発展の新たな局面というものを、打ち出しながら、次の時代をつくっていくというーー。
これは僕が言うことではないけれども…、次の大きな科学の局面、大きな発展になったときには、たとえば電気とかレントゲンとか、飛行機とか、そういうものがいろいろ発明されていくわけでしょう。

そのときには必ず何かしらのインスピレーションというものを科学者たちは受けながら、その方向に向かって妄信的に狂信的に実験を続けていって、分のインスピレーションが正しかったということを証明するようなね、そいう衝動に駆られているはずなんですよ。
それが、科学者たちが受けているインスピレーションなのですよ。

そうやって、アインシュタインやほかの科学者たちは、この科学文明というものを、神に期待された、十九世紀から二十世紀にかけての科学の発展とうものをつくってくれた。

そういうところには、必ずシルバー光線のカイトロンたちがやっているよなインスピレーションがちゃんとそういう者たちに降りていて、彼らはある意味で霊媒機能を果たしながら、神の意を実現して科学を発展させてくれたと、そういうことですよね。

それと同じように、「科学と芸術は双子である」という、美しい言葉をこの間カイトロンが言っていましたけれども、まあ、僕たちはたいへん仲がいですね。同じような受け取り方をする。
彼は科学を受け取り、僕は芸術というものを受け取っていく。

3.神こそ最大のアーティスト

芸術というものはね、前もいいましたけれども、「神というものは最大のアーティストである」と、芸術家であるということはよく言われるでしょう。

深海の中を見てもね、美しい、ほんとうに美しい海の世界がある。
あなた方が見ることがかなわないくらい深い深い海底には、見なかったらもったいないような美しい世界が展開されているのですよ。色とりどりのね。

そして星々、空を見上げたなら、この空を見ても美しいけれど、空を越えて宇宙の大いなる惑星、太陽の周りをまわっている星雲とか、見てごらんなさい。何時間望遠鏡を見ていても飽きないほどの美しい光景がーー、見る機会などない世界なのに、誰に見せるために神はこんな美しいものをおつくりのだろうと思うほどに、ここかしこに神の芸術というものがあふれているのなのですよ。ただあなた方が認識できない、見えないだけ。

あなた方に見えないだけで、この世界には、ほんとうに美しい光景がありす。誰に見せるためではなく、神そのものが愛であり、神そのものが美の現としてのーー。「真・善・美」と言いますけれども、神というものが表されると、美そのものになっていくのです。
だから、空の星ひとつ、星雲のひとつーー。そして神の愛する海であり、生き物たちであり、草原で走るシマウマ、走っているライオンーー。

いかがですか。どの姿を見ても美しいじゃないですか。
砂漠の中にいるラクダですら僕は美しいと思う。
その「美」という感性、それをどれだけ研ぎ澄まして神の波動と合わせられるかで、現実にあらわれている。
神のおつくりになったものに、どれだけの感動に震えながら神の美を感ずることができるか。それこそが神を感じることであり、神の愛を感じることであり、そして、我々のように芸術という媒体を通して、神の愛の表現媒体として芸術というものを、たまたまいただいた者たちが、この使命を降ろしていくのだとーー。

大いなる信仰心のもとに神の愛を受け止めたとき我々はどれだけ高い次元の、神に近づく境地で、どのくらいすばらしいものを地上に出していけるか。それが芸術家としての資質であり、芸術としての悟りの方法であり、その結果表現される作品がどれだけすばらしいものであるかという評価の基準であるという、それを僕は伝えたかったわけです。
ですから、神を認めない、神なき芸術というのは普遍的なものではない。なぜなら、芸術というものは、神の愛の表現媒体以外のなにものでもないからです。

科学もそうなのです。神の愛、神というのは愛そのものですから、神の愛そのものがひとつの法則によって、この地上というものが動いている。
それをまたひとつの方法論と機能において、人びとに対して提示していくのが科学なのですけれども。芸術というのは、美の表現者として神の臨在、愛の臨在を人びとに伝えていく、そういう方法であるということ。多少違いがあるけれど、基本的には科学も芸術も、すべてが同じだということを僕は言いたいのです。

だから、レムリアにおいてはね、オリオンにおける芸術を基礎としていて、まあオリオンは特に「真・善・美」の美というものがひじょうにクローズアップされた惑星ですけどーー。
でも、美だけ表現していれば真も善もなくてもいいのかということは、そんなことはありえないのです。

神の中に「真・善・美」があるのならば、神の愛が何であり、真実が何であり、何が善きことであるか、神そのものが何であるか、善としての神理というものがどういうものかがわかっていてこそ、本来の、神の愛の表現媒体としての「美」という結果として、美の表現形が出てくる。だから、芸術家といわれている人たちは、神理の知識に深い造詣を持っているわけですよ。そのぐらいの水準まで上がっていくということ。

それが、美の表現者としてのオリオン以外の惑星であっても、同じだということです。神理、そして善、つまり「法」ですね、それがしっかりとわかったなら、結果として語る言葉、立ち居振る舞いすべてが美になっていく。
仏陀のような方たちばかりがいるような惑星であっても、それが芸術の星でなかったとしても、彼らの言動、生き方、着る衣服、仕草、動作、そして語りかけ合う言葉の旋律の美しさ、それらすべてが美になるのです。
すべてが連動していくものなのです。

4.愛の輝きこそが美を生み出す

神に至る道というのは、方法においては違いがあるけれども、神が愛そのものであることに辿り着いたときには、神を求めることそのものに「真・善・美」というものが含まれていて、そこに美的なものが出てくるのです。

その美へというものをクローズアップして、僕らのように音楽とか詩とか建築物とか、あらゆるものですよね-ー。ある程度進化した惑星の中では、日常の中に美的なもの以外を人びとが受け付けなくなるのです。

音楽も、ただ騒がしいだけの、人の心を壊すような地獄の歌みたいなものが地球ではまだはやっているでしょう。でも、神のもとへと続くような意識レベルになったなら、地獄的な波動のものは、人びとが望まなくなるのです。
調和された美しい天上界的な調べが心地よくなる。

今のこの地球においてもそうだと思いますよ。地獄的なものは一時的な刺激として好む人はいるかもしれない。けれども、根本的には、多くの人びとは安らぎや、愛や、平和を望んでいるはずですからーーそういうことを考えればこれからは、天上的な音楽が人びとの間で口ずさまれていくだろうと思っています。

今、芸術家たちは混乱していて、前衛アーテイストとか言われている人たちはね、現代的なものでも、地獄的なもののほうが刺激的だから、そういう刺激だけが個性であると、それが芸術の本髄であるというような認識、低いレベルの中にまだいるので、現代アートはひじょうに混乱はあるかもしれないけれどーー。芸術が芸術だけであるとか、科学が科学だけであるとか、宗教が宗教だけであるというふうに、あなた方、この地球の文明自体が、まだそういう次元にいるから、別々に、独立しているように思うかもしれないけれどね。

最終的に地上が、エル・カンタラーや、エル・ランティがおっしゃられるような、法の極みに達して人類がみんな神の子であるのだと(知れば)-ー。

神の子とは何か。神は愛である。愛の本源に戻りましょう。愛の本源から分かれた御魂、分かれた光線一人ひとりがあなた方なのです。一人ひとりが愛の表現媒体なのです。その認識に至れば、愛の表現媒体として結果として美が出てこなければおかしい。
そこのところまでわかっていただけましたか。
神の表現媒体は、結果として美になるということ。

その生き様に真実があり、善があり、圧倒的な愛に包まれたとき人びとの仕草、言葉ーー、愛が細胞レベルにまで至ったならば、みんなが美男美女になるのです。もし、その段階で醜悪なものがあるとしたらそれはまだ(そのレベルに達していない)ーー。

神の愛の法は、いちばん美しい、均整のとれたものになろうとする習性があるのです。ですから、それが細胞レベルにまで到達したならば、高度な惑星に至ればね、みんな美男美女になっている星があるというじゃないですか。
「オリオンから来た人たちはみんな美形が多い」と、あなた方はよく言っていましたけれども、それはベーエルダ星においても、どこの星においても、ある程度進化発展したとき、個性の違いはありますけど、みなさんとても美しいです。均整のとれた美しさをそれぞれの個性で持っています。

僕らの星は、特に美というものを前面に打ち出した惑星であるので、美に対する感性も研ぎ澄まされたものがあります。美的なものを、自分たちの肉体細胞レベルにおいても、媒体として表現されて、改造されているということかもしれない。でも、みんな、それぞれの惑星での美意識で、最高であると信じているものを、形態としてまとっているということですね。

5.真の芸術家とは

芸術というものをひとつのものとして、現代の人たちが思っているような芸術論として割り切るよりも、神に近づく道を個々が修行して、修行という言葉はあまり好きじゃないけどーー、神に近づく道に一人ひとりが励んでいけるか。心がけにおいても、受けとめる感性においても、どれだけ高度なところに進化発展していけるか。

表現する技術においても、自己研鑽の道をいかに怠けずにやっていられるかーー。
感性が受けとめても、それを表現する技術というものがなければ困りますよね。だから、日常の努力、自己研鑽はとても大事ですよ。
でも、技術だけがうまい人がいるじゃないですか。ね。音楽でも絵でも文章でも、何でもそうでしょう。歌でも、上手なんだけどなあ。音大出ていてうまいんだけどなあ。美大出ていてうまいんだけどなあ…。

でも、絵がつまんない、音楽がつまんないねっていうの、ありますよね。逆に、歌手でもけっして音程がきれいにとれるわけではないけれど、あの人の歌はハートにグッときちゃうよ、というそういう人っているじゃないですか。そういう人は、感性の大事な部分、愛というものが何であるかってことを、自分の魂にしっかりと抱きしめていられている人なんです。

ひじょうに未熟な表現手段であるかもしれないけれども、感性を通していくことによって人びとの心をつかんでいるのですね。そういう人はね。もっと完璧な技術を学べば、もっともっとすばらしくなるかもしれない。

じゃあ完璧な方法、技術とね、それを表現しようとする魂とどっちのほうが重要かっていと、どっちがどう欠けてもほんとうはいけないのですけれども、優先順位をつけるならばまず、「ハート」ですね。まず「感性」です。

どれだけの愛を自分が抱きしめ、それを表現したいと、多くの人びとに対して分かち合いたいと思うか、そういうオープンな気持ちーー。その思いを、神への感謝として、神の表媒体として、一人ひとりが受け入れて、それを発信することによって分かち合いたいとーー。
神に対する感謝の思いを分かち合いたいとーー。

それがたまたま自己研さんした歌声であり、音楽をつくることであったり、絵を描いたり、文章を書いたり、建造物をつくることなのです。
その心で表現したときに、多くの人びとに感動を与えていく。
それこそが真に価値ある芸術作品であり、それこそが真の芸術家であると僕らの世界では評価されているのです。

エル・ランティもおっしゃっていたけれど、単に、興味本位な刺激的なものだけがいいのなら、天上的なものよりも、地獄界的なスキャンダラスなものを出したほうが、多くの人にはおもしろいかもしれない。
でも、おもしろいものと、真にハートから、心の底から感動させていく、質の高い芸術とは(違うから)-ー。

その分かれ目は、スキャンダラスなものに終始することではなくて、神を、自分がどれだけ認識でき、受けとめられ、自分の使命をどれだけしっかり感じ取れて、その使命に生きようという情熱があるかという、その理解なんです。理解した人たちが、真の芸術家なんです。

そして、本物というのは神の表現媒体すべてがそうなのですよ。
哲学者においてもすべてがそうです。
芸術家だけではありません。すべてが神の愛の表現媒体として存在する。
学者であれ、子どもたちを育んでいる母親や父親やいろんな人たち、みんなそうですけど、すべてが愛の表現者であるということ。
神に対する感謝のもとに生かされている僕らは神につくられた七色の光線の中の、神の子であるとーー。

その基本的な、エル・ランティがおっしゃったような、ほんとうに基本的ところに立脚したものだけが、普遍性を帯びていく。
それ以外は、地獄的な波動のもの、スキャンダラスなものというのはね、一過性のものに過ぎないということなのです。

6.地球を愛の星とするために

科学においてもそうですよ。
原子論というものであなた方はとんでもない核爆弾みたいなものをつくった。
これも確かに、大いなる科学の発展段階かもしれない。
原子力というものを見つけた。
そこまではいいでしょう。
しかし、そこから核爆弾をつくってしまった。
それは天上の波動とは違うものです。
互いに生かし合おうとか、分かち合おうとかそういうものではないーー。

核分裂反応というものは、ひとつの法則として厳然として存在しています。
でも、それから爆弾をつくってしまったということは、そこには少しも神への愛とか、感謝とか、分かち合いというものは存在しないでしょう。
殺りくとか、攻撃とか、そういうマイナスのエネルギーの発想にあるわけです。
そういうものは一時繁栄をみても、その原因によって文明が滅びていきます。
だから後の世に残らないのです。

でも、科学の究極において、原子エネルギーという、核融合反応ということを通して、人類が愛と分かち合いというものを、ねっ。
生かし合いというものを、神の子であるという現実をしっかりと受けとめて、ボーダーレスな、国境のない、愛に満ちた地球人としての意識から、さらに宇宙の、宇宙人としての仲間の意識になれば-ー。
地球だけが神のおつくりになった星ではないから。
あらゆるたくさんの星々がつくられ、それが厳然とした愛の法則のもとに調和を保ちながら、宇宙を形成しているのです。

太陽系だけではない、小宇宙、大宇宙ー―、僕らでもわからないほどの無限な、大きな神のボデイ、体を形成しているわけですね。
そこに流れる愛の旋律、それが神の愛の法であり、愛の化身そのものが、我々が神と呼ぶ方であるということです。

先ほど波長同通と言いましたが、神の体である宇宙が愛という法則のもと、その旋律のもとに動いているなら愛に共鳴できない文明、愛に共嗚できないものは、すべて生き残っていけないということになる。
普遍的に存在を許されないということです。
徒花のように咲いたとしても、それは必ず淘汰されていく。
続かないのです。
それは、僕らが、神の体、神という宇宙の中で生きているために、愛に同通しないものは存在できないからなのです。

だから、高度に進化した惑星は、意識の持ち方として、どれだけ僕らが神の愛の中に生かされて、愛の法則のもとに生きているかーー。
自分たちが神の子である、愛の化身であるということをほんとうに理解し、神の愛の波動に共鳴し、振動し、自分の使命、自分の位置をしっかりとわきまえて、自分の仕事を果たしていく。
それだけが普遍的なものとして残るのです。

そこまでわかれば、お互いに憎しみ合って戦争をするとか、殺し合うとか、そういう低次元のものは存在を許されないのですから、意識レベルにおいて互いに助け合い、赦し合おう、分かち合おう、信頼し合おう、愛し合おう。
なぜなら、僕らは神の愛によりつくられた神の子なのだから。
神が愛なら、自分たちは愛の子どもたちなのだという、意識にたどりつかなくてはいけないのです。

神というのは愛そのものである。
それがすべての文化の中に浸透していったとき、組織、政治機構においてもね-ー。
人種が違うからとか肌の色が違うからとか、政治体制が違うからとか、そういうイデオロギーによって傷つけ合ったり、豊かな国があるから、貧しい国があるから、どっちかがどっちかを侵略しようとか、そういった愚かな発想は、分かち合いの愛の中に解消されていくのです。

相手がなにも持たなければ、その者に「どうぞ」と差し出す、無償で助け合って援助し合う。
そういうものが当たり前になっていく。
愛の論理の中で愛が循環しだすのです。
そうなったときに、この物質社会というものも大いに変わったときに、ひとつの惑星が愛の星へと進化する過程の中に誕生するのです。
それを僕らは望んでいるのです。

地球を愛の星にするためにーー。

社会において、革命において、表面だけ改革してもだめなのです。
人間の心の中、教えの中で、我々が神の子であるということ、愛の表現媒体であるのだということを、心の奥深くに落とさなければ、地球を愛の星に変えていくことはできない。
しかし、きちんと心に留めることができれば、この地球はもっともっと美しいものになっていく。
それを天上界は地球に対して望んでいる。

遠回りのように思うかもしれないけれども、地道に法を降ろしてほしいというのはそういうことなんです。

表面だけ「愛で」などと言って、組織だけを変えて、力だけでこの地球を体制だけ変えてみても、一人ひとりの心の中で、ほんとうの意味で平和、愛という思い、愛を心から待ち望むという認識に達していかないのなら、外側だけいくら体制をつくっても、それは表層的なごまかしに過ぎないのですね。

7.自分自身と出会う旅

僕らが考えているのは表面的な体制のことではないのです。
個人の意識の中に、あなた方は地獄のサタンの子じゃないんだよ。
神の子なんだよ、とーー。
前にも言いましたね。七色の虹が架かるようにそれぞれの光線の中に、あなた方がつくられた個性がある。
役割というものがあるよ、と。

自分に出会いなさい。
自分自身の外側ではないよ。
内側にどんどん入っていったときに、あなた方は自分自身と出会うんだよ。
それを僕たちの世界では「悟り」というんだよ。
けっして悟りは外にあるものではない。

荒行や修行をしなければ得られないものでもない。
小難しい理論や神理の知識や、妻子を捨てた孤独の中で、人を愛する喜びも知らないで生き続ける、修行をする、それだけが宗教者の姿であり、その究極にあるものだけが悟りであるというふうな間違ったものを悟りだと考えているのかもしれないけれど、そんなものではないんだよ。

神の世界は、愛とやさしさと信頼に満ちている。
美に満ちている。
無限の赦し合いで、神につくられた美の中で、自分の生まれてきたことの意味を知り、多くの人びとを愛し、愉しみ、豊かに生き続けていく。
それこそが、神の子としての悟りそのものなんだ。

幸せというのは、悟りというのは、頭の中で考えたり、外部で修行して苦しいことをして得ることではなくてね。
自分の内側にあるものに出会い、自分自身の中に発見し、幸せというものを感じることなんだよ。
そういう、いちばん大事な感性というもの、それに悟りが入ると悟性というものーー、悟性を通して一人ひとりが行き着いていく道。
それこそがほんとうの意味の悟りなんです。

あなた方の今の悟りを見ていると、知性、知的な思考パターンばかり。
それから非人間的な修行、荒行ですか、人間としてバランスを欠いたもの、それを一部の宗教者たちが刻苦勉励していくことが、悟りというふうに思われているがそれは違う。
悟りというのはそんな難しいことじゃないと前から言っている。

軽やかにステップを踏み、生きていることの喜びをみんなで分かち合って、歌を歌って、お互いに愛し合って、神の喜び、自分たちが創造され、実在しているということに幸福を感じーー。
感じなければ感謝も出ないでしょう。
お互い幸せなんだって称え合うこと。
喜び合うことを忘れて、どうやって分かち合ったり、目に見えぬ神に感謝するの、君たちは。

そして、かけがえもなく愛する人びとたちに対して、いっしょに生まれてくれてよかった、ありがとうという思いで、助け合って生きていく。
ねっ、それがいちばん大切なことであり、神が望まれていた姿なのです。
それが神の子というものの姿。
愛や信頼や分かち合いのないところに、赦しのないところに、神の子は存在できないのです。

この間も、オリオンの母上があなた方に通信を送ってこられたとき、けっして難しいことは言わなかったでしょう。
でも圧倒的な愛のハーモニー、旋律の中で、優雅な、美的な、赦しに満ちたやさしさの波動というものを、あなた方に送ったはずです。
すべてこれに尽きるんです。

母親が娘を思う気持ち、多くの人たちに対して自分の命をかけて、地球の人びとのためにお役に立ってきなさいねと励ますーー、寂しかったことを言いたくても言わず、それをすべてのみこんで激励したではありませんか。

その姿、そこに、神の子の姿というものが如実にあらわれている。
愛が、世界の中に、日常の中に生き様の中に、すべてに浸透していったときに、「宗教」はなくなるのです。
「天使」という言葉もなくなるのです。

なぜなら、みんな同じ神の子の仲間たちだから。

8.愛の波動を受けとめるとき

ただ、指導者はいます。いつの時代でもいつの社会でもいる。でも、神の子として別格のものがいるというわけではない。
その道は、すべての神の子たちに対して聞かれた道であるということ。
そこに至るのが早いか遅いかだけです。
自己研さんの道に厳しかったかどうかだけ。
しかしそれは、どれだけ自分にストイックに、家族も捨てて修行しなさいとか、小難しい理論だけを学びなさい、ということではない。

どれだけ多くの人を愛することができたか。
どれだけ多くの人びとを赦すことができたか。
愛するために、どれだけ大きな業績を、人びとに対する愛の表現媒体として、すばらしい作品とか仕事をなすことができたか。
それが問われるということ。

レムリアのときは一部分で実現していました。
人の判断基準、芸術作品を通して、その方がたの人格を判断する--、ハイレペルな神の旋律を表現できたのだから、当然、ハイレペルなものを受信できる器であったのだと、溢れんばかりの愛の思いがなければ、それに同通した神の次元のものは降りないわけですから。

自分だけ良かれと、自分だけが名声を受けたいなどというやましい心があると、高い次元の神の愛の作品をキャッチする波動には合わせられないのですよ。
無私な思いで、自分自身もすべて捨てて、「どうか神よ、私たちを神の表現媒体としてお使いください」と全託する思い、「どうかお役に立ちたいのです」という思いになったときに、神の根源的なソースと直結して、その方の個性に応じたすばらしいインスピレーションが降りてくるものなのです。

それを受け取ったとき、今度は自己研さんした技術を使って巨大建築をつくり、音楽やいろいろな作品の中に表現していった。
その作品を、自己研さんの技術レペルプラス、その人の愛の波動で、それだけのインスピレーションを受信することができたということには、トータルなものがあるわけですね。
偏っているとできない。トータルな人格においてその作品ができたということを、作品を通して(表現し)、それを見抜く民衆、大衆の目があった。それだけの水準にあったわけです。

文化も技術もハイレペルなものを、民衆が持ち合わせていたということ。そしてそれを降ろす人たちも、神に至る道の中に芸術という使命があると--。
究極的に、芸術の真髄に神がある、神の愛があるということを知っていた者たちが、自己研さんしたというのが、レムリアの姿です。

そのように僕らが、ゼウス神や僕などが指導したのです。

今のように学歴とか、一部の思考理論だけに卓越しか者たちが、価値が高いというベクトルをつくるというのではなく、感性で神と出会っていく道というもの、やはりそれのほうが理屈を越えて神を享受する、感知する力を持つ、それこそが本来の悟りである、修行であるというふうに打ち出したのが、レムリアという文明の特色だったのです。

それがすべていいとは言いませんよ、私は。
それは私とゼウス神がやったひとつの方法であって、そういう個性の文明をつくったということなのです。
そして、ひとつの文明の色づけとしてね、今回も、多少、初期のギリシャのように、解放的な部分をオープンに出していくーー、オープンにして、神の子としての化身としての肉体人間というものを受け入れて、誇りをもっていこうという、それがギリシャの思想の根本にあるわけです。

神託というものもあるでしょう、ギリシャの中に大いなる神からの言葉を、巫女たちがぬかづいて、多くの為政者、王族たちも、大きな時代の転換点になれば、デルフォイの神託などを伺ったはずなのです。
時の為政者たちであっても、究極は神の本意に従いたいとそういう思いがあった。
さらに、人間が神の子であるということを堂々と表現する形として、芸術を栄えさせていった。
だから、ギリシャというのはひじょうに水準の高い文化だったのですね。

仏陀とか、イエス・キリストの愛の教えとか、それぞれ、モーゼの教えた正義を通したひとつの教えがあるんですけれど、ギリシャ的な部分もないと、人間は苦しくなってしまいますから、私やゼウス神が、文明の色づけとして、ギリシヤという時代を打ち出していった、というのもあります。
そのルーツはレムリアにあり、レムリアのルーツはどこにあるかというと、ゼウス神がいるから別なんですけど、オリオン的な部分が多分にある、オリオンの系統をひいている。
このアマーリエも僕といっしょに出てきていたという、そういう過程がある。

9.神へと続く無限の道

今のあなた方が聞きたいことは、芸術とは何かという、方法論的なことなんでしょうけれども…。
僕が九次元の立場として、根本的に、芸術のどこに本来の使命があるのか--、一人ひとりが、私たちが言っている宗教と呼ばれているこの法ですね、これを学ばずして、芸術家として普遍的な作品を残す道はないと--。

究極は、「神こそGreat・Artistである」という、その真髄まで、神の子と呼ばれている一個人がどこまで達することができるか。
その道は無限にあるのですよ。
我々オリオンもまだまだ、もっともっと上がいるわけで--。

僕らはね、上に行けば行くほど--、あなた方は九次元をひじょうに間違ってとらえているのですけれど、たまたまこの地球の中の、人格的な指導者層としては、責任を持たされていますよ、十人ね。
でもやっぱり僕自身にも修行があるんです。
日々頭を悩ましているものがあるわけです。

それがあってこそ、この地上での修行も楽しいかなと、目的もあるかなと思うわけですね。
だから、僕らも人格霊であるということ。
欠点があります。けれど、いいところもあるから、みんなそれぞれ個性を出して、みんなで力を合わせて地球を預かっているわけですね。

そして、これを越えていくと、惑星自体が進歩していくとね、九次元、八次元レベルの人たちばっかりが住んでいるような惑星になってくる。
すると、その指導者はもうちょっと上(の次元)になってくる。

そして惑星自体がもっとシフトアップしてくるとなると、物質的なものを越えた波動の中に入ることもあるわけです、次元構造的に。
そういうふうに考えるとね、九次元なんて、上が何百次元まであるかわからないけれど、究極の神に至るまでのどれだけの階段があるか、階梯があるかということが見えてきちゃって。

エル・ランティが言ってたけど、「自分がまだひと桁か」って、そういう感覚になってくる。
上にいけばいくほど己の未熟さがわかるんですよ。
だから九次元にいたから最高だとか、そんなことあるわけない。
上にいけばいくほど、己の未熟さ、自分の中に欠けているもの、もっと目指したいものが出てくるし、九次元に行ったら、みんな惑星になっちゃうのか、石の塊になっちゃうのか--。僕はいやです。

僕はいつでも音楽を歌って、ダンスをしていたい。表現し、メッセージを伝えて指導していくのが使命であると思うし、そういう僕の自由意志も十分あるわけです。

だから、九次元が十人いたとして、みんなが同じ道を行くわけではないんですよ。
エル・ランティなんかとっくに十次元にいけるでしょう。
それでも、人間が好きなんですね。お節介なまでに出てきて、一生懸命自分の情熱を傾けて、人びとを進化発展させたい。そういう方なんです。だから九次元にとどまっておられる。ご自分だけが早く惑星の塊、石の塊になりたいとそっちのほうへ--。
それが悪いってこと言ってるんじゃないですよ、それは地球意識に対してたいへん失礼な話ですからね。誤解しないでくださいよ。ね。

でもそういうふうに、ほんとうに不自由なところに入るんですよ。地球っていう核の、霊的な部分の中に入って、自分の身をすべて投げ出して、投げ出すことによって、そこの上に多くの生物を育み、人類を修行させて--。
そこで核爆弾とかそういうものを爆発させたら、やけつくような痛みの中で、どれほど苦しまれることでしょう。

その、すべての痛みも苦しみも、喜びもね、すべてを分かち合い、享受し、投げ出して、神の愛のための修行の場として育むのだ、というその圧倒的な愛の思いです。
人格神であったら味わえないような厳しい修行がある反面、すばらしい圧倒的な愛の喜びもある。
それが、十次元と呼ばれている、惑星意識の方がたの愛なんですけれども。
その中にご自分を投げ出して、修行している方があるんです。

それを越えていくと、惑星意識から、今度は恒星意識という大陽そのものになって、自らが愛の塊として、愛の量というのは熱量に比例しますから、その熱の塊として、太陽などになっていく方は、圧倒的な格をもっておられる。そして太陽自体にも、あなた方ではわからないでしょうけれども、そこに住まう者たちがいるんです。そういう方たちは物質的な波動ではないところでね、また別の霊体というのを持って--、そこにいる方はもう、愛一色の思いです。受け入れるとかそういうことではなく、愛をそのままに発散する。そういう恒星意識と、そこに住まうかたがたがいる。

ある程度の意識になれば、地球を脱出して、別の惑星に移住する、そういう時期というものがある。前にちょっとお話しましたよね。だからそう考えると、無限の進化の道があることになる。無限の進化の道ですよ。

僕らだって、僕みたいな九次元の者でも、九次元の中では下っ端かもしれない。もっと十次元、十一次元へ行けるような力をお持ちでも、九次元にとどまっておられる方--。大きく見れば、十次元、十一次元でもまだまだ下っ端かもしれないよ。もっと何十次元、何百次元と呼ばれているようなすばらしいところに行って、究極に最後行きつくと、どんどん純化した愛だけの思いになって、神の大きな愛の中に同化されていく。

そういうひとすじの光が、どんどん次元が高くなり、純化して集合し、大きな愛のエネルギーの渦となって、この大宇宙を統べていく。それこそが神の愛そのものであり、神の子たちの究極の姿かもしれない。純化した愛のエネルギーとして、この宇宙を生かしめていくエネルギーになっていく。

最後は純化し、法則になるのかもしれない。

そういう進化過程があって、そこに到達すると、この地上においての物質化、表現媒体としてのそれぞれの惑星の中で、神の愛を表現しようという、物質エネルギーをまとうことはどんどんなくなっていくから--。
だから、方法手段として物質というものを使って、この地上においても神の表現、美というもの、愛の表現者としての役割使命を背負いたいという、そういう役割が今あなた方、肉体を待った地球人の使命でもあるんです。

10.調和はやがて美に至る

さっき言ったでしょう。
僕たちが見ることもかなわない深海の底にね、あれだけの美しい世界をつくられる神ですよ。
目に見えない究極の大宇宙にも、見てごらんなさい。
木の葉の一枚一枚、夕日のひとつひとつ。
野生の動物だって、高山に生えている植物だって、花だってね。
誰にも見られずに枯れていくかもしれないのに、精一杯の美しさを競って生きているじゃないですか。
それが自然であり大宇宙であり-。

だから自然はそのままで神の芸術作品なのです。
神がそのままに表現なさると、最高の芸術作品ができるのです。
すべてにおいてね。

僕らも意識を高めていけば、心が愛とやさしさに満ちて、調和されたものになっていけば、肉体もまた、調和された均整のとれたものになる。
細胞にまで意識が影響していく。
美が、その肉体においても統治され、統合されていく、そういう段階にくれば、肉体が美しくないわけがない。
そういう段階が来ます。
それぞれの個性はありますよ。
美しいからといって、マネキン人形のようにみんな同じではないんです。

碓かにオリオン系には金髪の人が多いですね。
でも、金髪じゃない人たちもいるんです。
金髪が美しいと思っていない人は、髪の毛は茶色であったり、ブルネットとよばれている茶色、栗色、それから赤い髪の人もいますよ。

それは、ご自分たち一人ひとりが美として、意識体として自分が表現したいと思う肉体を創造するからです。
ただ、圧倒的に金色、ゴールドが、神の光線にいちばん近いものという評価としてあるので、金色というのはとても好まれます。
究極神に近い美であると、その表現形として、金髪、ブロンドがあるんですね。
だから、僕たちは、肉体においても創造者であり、芸術家であるということ。
そういう部分がすべてにおいて出てくるんです。自然界と同じなのです。

そういう意味において科学者と同じ、芸術家もインスピレーションを受ける、そういう方法論があるということを今日はお話ししました。
あなた方がこれから説こうとする根本法、エル・ランティが説かれたことが、けっして無駄ではないということ。
それがすべての原点であるということ。
遠回りのように思うかもしれないけれども、まずここで意識革命が行われなければ、また科学と宗教が対立して、ばらばらの中、統合されることなく、結果的にぶっかり合って滅びていってしまうという、その愚を繰り返してはいけないということ。

宇宙連合に行って、宇宙人としての意識に上がっていくには、その壁を乗り越えて、人間が神の子であること。
愛の表現体であり、愛の魂であるという、愛の光そのものの分霊であるということ。

そのことに一人ひとりが気づいていくということ。

11.愛と赦し合いの中で

そうなれば、敵など本来いないでしょう。
敵なんかいないんです。
自分の心の恐怖心がつくりだしているだけなんです。
事実を認めてーー。

今回もそうでしょう。
最初から悪くなんか誰も言っていないのに、自分が責められたと思うと、神の言葉ですら信じられない。
そのように人びとの恐怖心がつくりだしたのがサタンそのものであると私は思うのです。

ルシフェルといえど、みんな神の子なんです。
最初は神の子しかいないんです。
神しかいないんです。
人びとの恐怖心の投影そのものがサタンであり、悪魔と呼ばれているものであり、それは人びとの不信感に根づいている、恐怖心に根づいているものなんです。

あれだけの、すばらしい光の使徒と呼ばれていた方であっても、恐怖心に、自分の中にある恐怖心ですよ、自分が打ち消されるかもしれないという恐怖心に陥ったとき、ガラッと態度が変わり、神のメッセージそのものを信じられなくなる。
そして、簡単に人格が変わっていく。

それはね、魔界のものが悪いわけではないんです。
自分の心の中に、そういうものから逃げたい、それを否定したいという思いが発するから、それに同通した者がやってくるだけのこと。

環境的には今、確かに地球というのは悪い磁場にあります。
でも、自分の中で、ほんとうに神に通じ、どうか赦していただきたいという謙虚な思いで、神と向き合っている日常を生きているなら、そして、名誉心や、物欲に惹かれないというほんとうに謙虚な思いがあって、神の子の愛の思いに満ちているのならば、魔界のものには同通できない。
このように裏返ることもないでしょう。

僕らの世界から見たら、地球はガラス張りです。
一念三千という教えがありますが、自分の思いが、どこの世界にでも瞬時に通じていってしまうということが、ほんとうの意味で俯に落ちてわかっていなかった人のことなんです。

だから最初からサタン、悪魔がいてね、神のつくられた世界の中にもともと悪があって、それが、人びとと天使と対峙する中で戦い合い、悪魔が人びとをそそのかしていく、そういう部分も多少はあるけれど、もし気持ちがツルッとほんとうに神の子そのものだ、すべてのものが神の子であると、すべてのものを感謝し生かし合おうというほんとうの思いがあったのならね、魔界の者は近づけないんです。波長同通にならないからですよ。

圧倒的な宇宙の根源の、宇宙を統べる神に対して、圧倒的な感謝の思いと、この地球上にいるすべての人びとがみんな神の子であるのだとーー。
みんな同胞であり仲間であるのだと(いう思いがあれば)―ー。
「ああ、みんなで手を取り合って、地球をすばらしい愛の惑星にしていこう」と、助け合っていくのであるのならばね。
魔界の者が誘惑に来たとしても、人びとの心には入れないのです。

心のどこかに自己保存、自分だけがよければいい、自分だけが名誉やお金を得て楽をしたい、という思いがあったら、そこに同通してしまって、悪魔にパクッとやられることかあります。

でも、悪魔は本来神がおつくりになったものではない。
人びとの恐怖心の産物です。
光のつくりだす、影の部分であるということ。
僕はどっちかっていうと、悪魔と天使が戦い合うという二元的な構造でものを考えるよりは、日本神道の光一元的な発想のほうが好きですねえ。

圧倒的に善なる愛の思いこそがすべてであって、たまたまそこから発生した「心の垢」というか一時的なよどみみたいなものが、魔界とか、地獄界と呼ばれている吹き溜まりのようなものであって大宇宙を見回したとき、そのようなものは大いなる愛の神の姿から見たら、ほんの小さな一点でしかないということ。

でも、下にいる者たちは、自分たちのいる世界こそがすべてだ、というふうに思いたいでしょうけど。
「井の中の蛙、大海を知らず」っていう言葉があるでしょう。
そのような感覚ですね。

進化した惑星の中にいれば、愛と赦し合い、神の愛の中に生かされている、絶対調和の世界がほとんどなのです。
そうでなければ普遍性を持てないし、生きていけない。
そのように高度に調和された惑星とか星々がたくさんあるわけです。
そういうことを知るだけでも、地球人の、努力目標というか、方向性がわかるのではないかと思います。

だから、科学においても芸術家においても、他の学者さんにおいてもそうです。
神の愛の表現媒体となる方向に自己研さんしなさいということ。
あなた方の個性の数分だけ表現方法があるんです。
表現方法はひとつだけではない。
それぞれの職業において、さまざまな方法があるはずなんですね。
みんなそれぞれ、一人ひとり違うからすばらしいのであってねーー。

神はひとりとして無駄な、つくらなくていい命をおつくりにならない。
すべての人に意味がある。
その命、一人ひとりが尊いのです。
それぞれに重大な使命があるということを思って、自己研さんしていかれる道。
それが、結局のところ、一芸術家とか、一科学者とかいうことにとどまらないと思います。

12.芸術家たちの使命

あなた方の中にあるうずき、神につくられたうずき。
愛の思いの中で昇華していって、そのうずきを表現してごらんなさい。
そうしたら、あなたたち一人ひとりにいちばんふさわしい、すばらしいものが出てくるでしょう。

それを、仲間、神の子たちと分かち合うのです。
その開かれた思いの中にね、あなた方の能力、才能がどんどんと、溢れんばかりに出てくるでしょう。
それは無尽蔵に、あなた方、神の子の心の中に、大宇宙の愛の思いというもの、神の子は、親である神と同通してるんですから。

だからあなた方を神の子という。
僕たちを神の子というのです。

その扉を開くのです。
そうしたら、無尽蔵に、溢れんばかりの愛と、すばらしい高度なインスピレーションが降り立ってくるんですよ。
ただし、自己本位な思いがある限り、その扉は開かれない。
自分の名声を高めようとか、自己評価を高めたいがためにやるのであるなら、その扉は開かれないのです。

自分自身を捨てて。
よく言うでしょう。
このレムリアでだって、「無私なる思い」で、とか-自分自身の名前や、名誉とかー代表者だとか、そんなくだらないことにこだわれば、無尽蔵な神へのステップは閉ざされてしまうのです。
いいですか。
結果として名誉がついてこようと、結果としてお金が儲かろうとね、そんなものは結果論なんです。

儲からないかもしれないでしょう。
ゴッホとか、芸術家は生きている間にいい生活をしない人が多い。
でも、彼らがすばらしい作品を降ろしたということは、生きているうちに名声やお金が欲しいと思って、作品をつくっているのではないからですよ。

自分の心のうずき、本来自分が命をかけて表現すべきものは、神から使命を与えられたものは何であるかという、ほんとうに捨て身な思いで神のインスピレーションを受けていった。
そして、食べるものがなかったとしてもかまわず、作品の中に表現していった。
それが時代を越えて評価を受けるのです。
自分が楽をしたい、お金が欲しい、権力が欲しい、名声が欲しいなどと思う者に、本物のインスピレーションなんて降りないのですよ。
そこを考えなければいけない。

今、たとえ恵まれない不遇な状態にあったとしても、自分本来の誇りある使命というのは、神に直結した、真に普遍的な、価値ある作品を地上に降ろして、それが後世の者たちの幸せに役立つのだという、神さまの使者としての仕事をやれる人生であるのだということに、誇りを持てるかどうか。
そこの一点に尽きているのです。

わかりますか。
そこに打算があってはならないし、もし打算があれば、そういう心に応じた次元のものしか降りてこないのです。
そのようなものは、一時、時代のちょう児と呼ばれても、後世に残らないような作品です。

高い境地に自分たちをもっていき、神のメッセンジャーとして、アートという部分で、光の天使としての仕事をしていきたいかどうか。
その覚悟を問われているのです。

すべての人が、誰ひとり間違いなく神の子であるように、すべてが神の子であるというその無限の扉、パーニャパラミタから神の根源的な叡智への扉は、すべての人びとに平等に開かれるのです。
いくらお金を払ったか、どれだけ研さんしたかで決まるものではない。

その覚悟、それを「悟り」というのです。
その境地を、境涯を手に入れられるかどうか。
そこに至るための宗教者たちの方法が、過去いろいろ言われていたかもしれません。
ですが、芸術は、芸術家というのは、理屈ばっかり知っていても、感性の部分でとらえられなければ意味がないのです。
理屈を越えているのです。
逆に言うと、とても正直なのです。
作品を見て「いやだな」と思えば、どれだけうんちくかまして、「これが神理のもとにあるのだ」と言ったとしても、受け入れられないではないですか。

音楽もそうではないですか。
すばらしい波動の音楽なら、好き嫌いは別にして、多くの人びとを幸せに導くのです。
心地よいのですよ。
神の子としての心に共鳴するのです。
そのようにならなくてはーー、
そのような作品を打ち出していかなければ嘘であるということです。

今日、僕はとても観念的なことを話したかもしれない。
でもこれはね、
宗教も科学も芸術も、すべてが統今されるべき時代が来たということなんです。
地球の文明におけるターニング・ポイントであることが何度も言われています。
この意識改革が成功するかどうか。

成功すれば、すべてが文化として、政治機構においても宗教においても、すべてがひとつのるつぼに入れられ、統合される時代がくるということ。
それだけの境地を、天上界が望んでいる。
地球はそのような次元の修行場として、修行の星として、生まれ変わるべき時代が来ている。
それをまた期待されているということ。
そういうことを今日お話しました。

まあ、もうひとつ私の得意な「男女の法」については、また別の機会にしましょう。
いくつも話をすると論点がぼやけるので。
今日は、「芸術とその受け方」、そして「芸術における悟りの方法論」、そういうものを、地球の観点においてお話しました。

では、今日はこれにて失礼します。

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