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Project Eden

第5章 男女の法

1.「男女の法」を語る難しさ

2.究極の悟りは、自分の魂のパートナーと出会う旅

3.まず自らと出会いなさい

4.今回の文明では聖職者に独身が多い

5.まず自らを高めていくこと

6.自らを縛っている鎖を解き放ちなさい

7.魂は永遠です

8.神は愛のエネルギーそのもの

9.愛の喜びの中で

10.ひとりよりもふたりで学ぶ人生を勧めたい

11.自由意志の中で自分に正直であること

12.天上界における結婚について

13.男性原理、女性原理が一体になって天地創造をしていく

14.愛なくして何も生まれないのです

15.仕事は喜びをもってするもの

マヌ

古代インドの法典「マヌ法典」の伝説上の編纂者である。
「マヌ法典」は、ヒンズー教の基礎となる天地創造から、日常の生活、道徳、儀式や作法などに関する細かい規定が、記載されている。
洪水、神話においてノアと同様な役割を果たし、「人類の始祖」と称されることもある。
英語における「man」(=人間)は、「manu」(マヌ)に由来するという説もある。
レムリア時代には、マルガリットという名の指導者として活躍し、芸術を中心とする文明を築き上げた。
天上界では、緑色光線(自然・調和)を担当し、芸術および民族問題などを担当している。

1.「男女の法」を語る難しさ

みなさまこんにちは。マヌです。
お久しぶりです。

いよいよみなさま方が待っておられた「男女の法」ですか。
どうやら、エル・ランティが逃げてしまったので、僕が言うことになったようで、みなさま方のお気持ちに応えられるかどうかわかりませんが僕なりに精一杯、男女の法というものを、お伝えしようと思います。

「女性の法」とか、親になって、子どもたちに対するとき、とかそういう部分的なものは、今までの方々が出してらっしゃったと思います。
僕がみなさま方にお伝えしたいのは、男女というエネルギー体が、どのようにして神により創造され、どのような役割に進化発展し、使命を全うする過程を歩むのか。
それが今の地球、今の文明に、どのような意味合いをもっているのか。あなた方がなさねばならないこと。
どのように、あなた方が男女の法というものを学ぶべきか。その観点でお話ししたいと思います。

初期の頃に、男女の法という根源的なことを、宇宙の神理、神のありのままの姿ということを話していても、古代の人びとにはわからなかったのです。
法を求めていくということ、男女が合体して、神の法を求めていくということを、ひとことでも言おうものなら、それが享楽的な、ひじょうに退廃的なものを生むような、そういう精神的な段階にあるときは、うかつなことが言えなかった。

法を指導していくこと、信仰、神との出会いを人類の流れの中で、精神文明の中で、どのように発展成長させるかということを、僕らは常に天上界で考えながら、人類を指導してきたわけですけれども。

その中でいちばん誤解を生みやすく、かつ、人類にとっては根源的な問題、それが男女の法ではないかと僕は思うのです。

2.究極の悟りは、自分の魂のパートナーと出会う旅

まず、大宇宙の神のご意思があります。
その神のご意思、神の存在というのは、あなた方が学ばれたように愛そのもの、愛の摂理そのもの、愛のエネルギーそのもので、根源的な表現形態をもって、この大宇宙を創造しておられるということを、あなた方はもう学びましたね。
そこがしっかりわからなくては、男女の法の根源的な意味はわからない。

愛が根源的に表現形を持つということは、どういうことか。
神の根源で、男性の性、女性の性という、男女のエネルギーは一体化して宇宙の根源に入っているのです。
しかし、それだけではーー、神は、愛のご意思を、宇宙を創造することで表現していこう、形あるものとしてご自分を表現していこうと思われた、そのような芸術的な要素、芸術家である要素をお持ちなのです。

この地上に、宇宙全体にご自分のご意思を、愛のご意思を表現しようと思ったとき、神はまず、根源的なエネルギーを男性のエネルギー、女性のエネルギーに分けられたのです。
(根源のエネルギーが)男性のエネルギー、女性のエネルギーに分かれていくことで、それぞれが「男性の性」、「女性の性」という陽性、陰性ーー、「陰」と「陽」という言葉がありますね。

女性がひじょうに受動的な受身的なエネルギーであるのに対して、男性のエネルギーというのは、陽の、ある意味では攻撃的な、外に向かって自分の意思を表現していこう、社会で何か進歩的なものを打ち出したいという、そういう欲求を、神は男性に埋め込んでつくっておられるのです。

分かれることにおいて、それぞれが学び、進歩し、成長していきなさいという課題を与えられたのです。
それぞれが自分自身の魂を、女性の性、男性の性の原理の中で努力し、自分たちなりに一生懸命進歩していったとき、学ぶことがいくつもあるということなのです。

その初期的な段階を終えると、根源的にーー、以前少しお話したと思うのですけれど、宇宙の根本エネルギーというのは、本来は、男性、女性ということはありません。
ひとつの男女、一体のエネルギーが分けられたものなのです。
とすると、あなた方の中に男性たちがおられます。
女性たちがおられます。
男性がいて女性がいるということは必ずパートナーがいるということなのです。

それは、誰でも彼でもむやみにいていいものではなくて、ひとつの自分という個性のエネルギー体、神の子としてのエネルギー体があるということは、僕なら、僕という男性の性、マヌというものを補完し、補い、共通な磁場をもつ共通なエネルギー体の片割れとしてのパートナーが、僕が存在したという同時瞬間に、存在しているということなのです。

あなた方一人ひとりにも、すでに根源的な原初的な部分で、パートナーが存在するということです。
しかし、それに気づいていくにはーー、オリオンにおいても、ある程度の境地に達さなければ、自分のパートナーと、しかも、パートナーと出会ったからといって最初から安易にパートナーと合一して、融合してそのエネルギーだけを得るのではなく、まず、男性原理として、女性原理として努力し進化発展しそこで男性原理、女性原理というものを発揮していくことにより神の世界を彩っていく。
そして、表現していく。その美しさをまず表現しなさいということ。

女性は、女性の原理において美しさをこの地上にもたらします。
男性は、男性の理性と知性、そしてその意志力の強さ、行動力のすばらしさにおいて、地上を発展させうる可能性があります。

そのように、原初的に分けられているのです。
あなた方一人ひとり、男性であってもみんなそれぞれに役割が違い、個性が違います。
その個性に基づいて、男性原理として、女性原理として、己の個性を最大限に表現して、自分自身を高めよとそのように神は言われたのです。
地球の世界においては、まだまだ原初的な部分においての悟り精神的な成長を学ばねばならぬ段階があるのです。

その地球においては、あなた方はまだ魂の伴侶、パートナーと出会っていたとしてもわからないでしょう。
なぜなら、まだその段階に至るほどには男性原理、女性原理としての課題をクリアしていないからなのです。
あなた方が十分習熟し、学んだなら、行き着いた後に、自分の魂のパートナーとの出会いを、悟りの究極の中で、理解し出会っていくことが許されるのです。

そのときになってはじめて、男性原理、女性原理として別々で表現して、自分を高めて、自分たちの仕事をするところから、自分のパートナーと一体融合化して、本来の根源的なエネルギー体として、男女融合した形で、神の世界の使命を果たしていく。
そのような役割に転化していく。
そういったプロセスがあるのです。

だから、進化発展した星においては、自分のパートナー、魂の今の時代では「ソウルメイト」という言葉を使っているようですが、僕からすると、ちょっとその言葉は、若干ニュアンスが違うのですが、ソウルメイトね、誰でも彼でもいいというのではなくて自分の根源的な、男性に対しては女性、女性に対しては男性というその原理の、本来ひとつのものたとえば、りんごでも、スイカでもいいですがーー、

ひとつのりんごを半分に割ったら他のりんごを割ったものと並べると形が違うでしょう。
切り口が違うでしょう。
どれだけ真似てつくっても、本来の形が、りんご一個一個みんな違うのです。
色も違いますよね。
同じに割ったように思っても、ほかの半分をもってきて組み合わせたときそれは異質であり、一個のものにはならないのです。
最初に創られた自分のエネルギー体の片割れ、魂のパートナーと出会っていくというのはそういうことです。
それと出会っていく旅が、ある意味での「悟り」である。

究極の悟りの中に自分の魂のパートナーと出会っていく旅がある。
オリオンではそのようであることを、以前お話ししましたね。
それがオリオンの悟りです。
オリオンではそのようにして自分のパートナーとめぐり会っていく人が多いのです。
割合が多いというのは、オリオンは霊的な進歩も、科学の進歩も地球世界よりひじょうに進んでいるので、すでに男女が一体となる段階にきていて、その中で自分たちの役割、使命というものを果たしていく形になっているのです。

それは、ひじょうに根源的なものです。
その相手に出会ったとき、神がおつくりになった自分の魂の相手と出会ったときは、他のどんなに美しい女性がいようと、どんなに素敵な男性がいようと、心の底から魂が震えるような感動とともに、磁力で引き合うように惹かれていく。
そして、その相手以外との結婚、その相手以外との共同生活が考えられないくらいになる。

自分がパートナーに会ったときには、他の異性に対してとても優しくなるのです。
浮気心とかいうことではなくてね、自分の愛が満たされたとき、他の方がたの愛を、すべての方がたの愛を祝福したくなる思いが湧いてくる。

そこには、ひとつもやましい気持ちなどは湧かなくて、多くの人びとを祝福していく思いにあふれ、愛の中で生きていく。
そのような境涯に達していく。
そういう惑星もあるということ。
つまり、地球の今の魂も、進化発展していったら、最終的には同じようにそのようになっていくということなのです。
他の惑星においても同じです。

では、相手を見分けるためにはどうするのか。それは、自分の心の中に埋め込まれた魂の、神の子としての魂が知っているのです。理屈ではありません。

たとえば、異星人というのは、みんながあなた方地球人のような形をしているわけではないでしょう。
他の惑星に転生していた場合もあります。
自分では考えもしなかった形をもった異星人たちと出会っていたりする。
そこに生まれ落ちていたりしますね。

そういう魂を見分けるのに、外見はさほど重要ではない。
目鼻立ちがこうだったから、このような気質だったからとか、そういうことで自分のパートナーを見分けるのかというと、そうではない。
自分の根源の、深い深い部分で魂が、パートナーの波動を覚えているのです。

3.まず自らと出会いなさい

その段階へ行くには、まず地球系神理で説かれていたように、自分が神の子であるという悟りに至らなくてはならないということなのです。
外にある物質的なもの、そんなものに惑わされるのではなく、頭や理屈などで考えるのではないーー。

深い、深い自分の愛が溢れる、神の子の内にある扉を開いていく。自己と出会っていく。
究極には、自らが神の一部であることを悟り、神に出会っていく。まずそこを見つけなさい。まず自らと出会いなさい。

自らと出会い、自分が愛の表現形であり、愛の子であり神ご自身が愛そのもののエネルギー体であり、それと同通する一部であるのが自分自身であるというーー。

そして、根源の神より期待されてつくられた、自らの個性をしっかりと悟る。
自分と出会ってこそ、自分の役割が何であるかをわかってこそ自分自身が何であるかということを悟ってこそはじめて自分のパートナーがわかるのです。順番はそこなのです。

だから、地球系神理は、仏陀やモーゼやイエス・キリストが説かれたように、神との出会い、神の愛とは何か、神の子とは何なのか、天地に分かれて人類は住んでいるけれど、神の子たちはどのように神を礼拝し、神を崇めて、神性に目覚めていく過程を学んで自己向上していかなければいけないかということをーー。発展の精神的なプロセスを経てきている。

だいたい、原始社会、古代の農耕社会から、中世に発展していく段階において、昨日もエリヤが話していたようですがーー、ミカエルも言っていましたね、あなた方の中にある、多くのドグマ的なもの、教会とか一部のローカルな宗教を通しての弊害を、昨日言っていましたけれど、確かにそうなのです。そのような弊害があるのは、僕らも承知している。

でも、人工衛星もないコンピューターもパソコンも、電話も普及していない時代にインマヌエル、イエス・キリストは法を説かなければいけなかった。仏陀も悟りを、神に至る精神的な段階というものを説かなくてはいけなかった。救世主と呼ばれて地上に降りたった者たちは、精一杯、法をそれぞれの地域、習慣に応じて、自分たちの個性を通して、地上に提供してきたのです。

それがひとつにまとまる時代がきて、人々は、自分が神の子であるということを知り、愛のエネルギーであるということを、愛の表現形であるということを学んだーー。
その究極のときに、自分自身の個性自分がどういう愛の表現体であるかということを、仕事をしながら理解したとき、自分のパートナーを最終的に認知することが悟りの究極にあるわけです。
そのときに出会った相手が、大事な、大事なパートナーであるというそういう段階なのです。

あなた方の質問を聞いていると、まだ、究極的なパートナーがどういうところにあるかということが(わかっていない)――それは最終的な目標だと思っていただきたいのです。いつかはそうなる、ということです。

出会っている方もいる。パートナーとともに地球に来ている方もいます。けれど、そうでない人たちもいる。それは、今、学んでいる過程の方たちなのです。

学びの過程では、結婚したときの相手が、魂のパートナーでない方もたくさんいます。ですから、離婚とか、結婚をしてもうまくいかないとか、そのような段階が多いので、地球上に男女の苦しみが多い。
満たされるものが少ないからこそ、外に行って浮気をするとか、他の女性に目移りするという数々のトラブルが起きてくるのも事実なのです。

逆に言うと、究極的に進歩発展した星は、とても物事がシンプルになってきます。
ある程度の悟り、ある程度の理解をした段階にあれば、愛一元の世界になったときには、今言ったような男女の問題で苦しまなくて済むのです。

でも、この地球には数々の苦しみや悲しみが満ち満ちています。それは、根源的な意味において、真実の自分のパートナーと出会っていない――、女性を裏切る男性も悪いけれど、男性の中にも、どこか相手が真実自分のパートナーではないと思う気持ちがある。
満たされない気持ちがあるゆえに、そのような行動に走ってしまう、それによって、恋人、妻を苦しめてしまう――、そのような悪循環が起きているのが、この地上生活だと思います。

ですけど、自分の根源的なパートナーとめぐり会っていないから、相手をおろそかにしていいということではないのです。今あるということ、今ある現実は、すべてが今の自分に必要であるから、学びの場が与えられているということなのです。

今ある人生の中で、恋人を、結婚相手を、子どもたちを、感謝し、ほんとうの意味で幸せにしていこう――。
男性として、女性として、どのような務めを本来学ぶべきなのか、もし今の相手が違えば、ですよ。違う相手であった、真のパートナーではない人といっしょになった苦しみが多少あったなら、次の転生においてはより魂の波動に近い、自分の魂に縁の近い方といっしょになる、それが許されていくということなのです。
ですから、今あることはすべてが必要なことであり、けっして、真の魂のパートナーでないからといって、現実から逃げていいということにはならない。それを、ひと言申し上げておきたいのです。

4.今回の文明では聖職者に独身が多い

あなた方を見ていて、以前もおもしろいなと思いましたが「お坊様系」が多いですね。
法の神理を、このような時代で、計画を潰されても潰されても、神のもとに、神理の運動のためにがんばろうと思う方がたは、やはり、幾転生越えながらも根源的に法を一筋、神との出会いを、魂の底から渇望してこられた方が多いということでしょうね。
ですから、お坊様であったり、聖職者であった方がたが多い。また、独身歴が長い方が多いですね。

で、これが、以前にも話しましたけれども、今回の文明においては独身で聖職者となる、という色合いがどうも強くなってしまっている。
イエス・キリストも独身でした。仏陀も、妻子の元から離れて法を説かれた方でした。
そういったことが、どうも聖職者たちの中にストイックさを女性と付き合ったり、交わったりすることに罪悪感を持つという、そのような傾向をつくってしまったということがあるのです。

それは、過去のアトランティスなどでもそうであったかというと、そんなことはないんですよ。
レムリアでもそうではない。アガシャー王は結婚なさっていましたし、奥方も、お子様もおりました。
ラ・ムーと呼ばれる方も――、ムーのときの仏陀と言われる魂ですが、お子様はなかったのですが、ちゃんと奥様がおりました。

ですから、法を説かれる方が妻帯するということ、子どもがいるということ、そういうことが(いけないわけではないのに)―ー、人びとの手本になる、救世主と呼ばれていた者たちが今回たまたま結婚をしなかったので、独身だけで、男性だけで、女性だけでがんばらなければ神に至れないという、そういう風潮が今回の文明においてひじょうに色濃く打ち出されてしまった。
しかも、先生の後に続いた弟子たちが、先生のいいところだけではなくて、その環境までを学ぼうとしてしまった。それゆえに、このような結果になったのかなと思うのです。

それと、聖職者の仕事をするうえで、自分が結婚し子どもや妻を養わねばならなくなった場合、もっともっとストイックに仕事をしたいと思う聖職者は、やはり、足手まとい――、言葉は悪いですけれど、足手まといになると、自分の負担になると――、こういう考えは芸術家にも多いのですが、「結婚したくない」と言って、好きな道を歩みたいと思う、そういう者が多かったから―ー、それと先生がそういう見本を示したということもあって、独身のほうが圧倒的に多いという現象を今回の文明においてつくったのではないかと思うのです。

そうなるのではないかと、僕やゼウス神などはひじょうに危惧しておりまして、それを避けたいがゆえに、ゼウス神は、ギリシャ文明という大らかな側面、男女の神々が大らかに、まあ愛を謳い合うというような、そういう自由な世界が神々の世界なのだよと打ち出す、ギリシャ文明というのをおつくりになったのです。
その後に厳しい法がくるからこそ、最初に大らかなものを出していった。

そして僕も、今回、この者(アマーリエ)が知らないことだったんですけど、僕はレムリアにおいてもそうですがマヌと呼ばれている――、今呼ばれている名前ですね。
その、マヌがどういう者かっていうと、古代のインドにおいて、『マヌ法典』というものを生活、儀式、宗教、社会構造におけるまでひじょうに細かいことまで(定めた)――、古代の方がたに、宗教や、信仰というもの、法というものを説くときは、まだ認識力が発達していませんから――。

発達していない、学問もそれはどない人たちの中で、ある程度――「こんな細かいことまで規定するなんて、神はなんてひどいことを」と思うかもしれないけれど、神の子としてより間違いのない道を、原初的なルールにおいて、モーゼの十戒ではないですが、手取り足取り教えていくことが、社会秩序においてプラスになると判断して、マヌとして僕が生まれたときに、ひとつの教えというものを出したのです。

その後に、いろいろな地域、ヒンドゥー教とかさまざまな教えを統合しながら結局『マヌ法典』という膨れあがったものになったので、すべてが逐一僕が言ったことばかりではないのです。
ただ、マヌとして出たときに教えたもの、そして古代インドの上空霊域の指導をしてきた、僕の管轄において、タントラの教えというのがあって、そこで男女合一の性ということを初期の段階に打ち出しています。

男性原理、女性原理というのが一体となって、それが融合することで最終的に神につながり、神の仕事をしていく。
その道があるということを伝えたのですけれども、それが、性交というものだけをクローズアップしてしまって、退廃的な混乱を招いてしまったこともあって、あまりその路線は前面に打ち出さないことにし、それを今回の指導方針として、他の仲間たち、神々と話をしながらあまりその色彩を前面に出さないできたということがあります。

でも、いつかはいわねばならぬことであり、それをテーマとして出しておいたからこそ、今あなた方に、「ああいうことがあったでしょう」「ああいう教えもあったでしょう」と言えるのです。

5.まず自らを高めていくこと

本来、男性だけである、女性だけであるということは、ひじょうに不自然なことなのです。
バランスが取れないということなのです。
バランスが取れないがゆえに、自分自身が高まりたい強烈に安定したいというエネルギーが働くものなのです。
そこに、自分自身を高めていこうというエネルギーが働く。
その過程において、まず自分自身を浮上させ進化発展していく、向上させていく。
上昇するエネルギーをつくろうとすることがあなた方に求められていた段階でした。

最初から簡単に合一、融合してしまうと、その後の進歩発展というエネルギーが止まってしまうこともありましたから、あなた方に対して、まず男女の性というものを分けて、そうですねえ、ある意味でハングリー状態にしていた。
その中で自己と出会って、自分の内奥の神と、神の子の部分と出会っていったとき、そのときあなた方は、究極の姿として、自分のパートナーと出合っていくのです。

以前に僕が磁石のたとえを使ったことがありましたね。
離れすぎていたときは、磁石というのは引き合わないものです。
でも、ある程度の悟りが出てきて、その者の近くにきたなら多少離れていても、磁石と磁石というのは、跳ねるようにして、ポーンとくっつくではありませんか。
ここが許される段階にいく。そこまで近づく。そこにいくまではまず、自分と出会う旅ですよ、自己を高める旅なんです。

自分が神の子であるということにまず気づきなさい。
自分自身がまず「愛」だと愛を分けてつくられた神の子だということに気づきなさい。
それが最も大事なことなのです。
そう、もし、ほんとうに根源的な相手と出会いたいという衝動、そのハングリー精神を埋め込まれなかったなら、たぶん、ひじょうに低い次元で満たされたまま、人びとは自分を進化発展させていくことを止めてしまうでしょう。

それくらい、人類というのは怠け者にできている、というか、それほど向上したいという原理を持たないのです。
しかし、学んでいくということ、それがひとつのテーマになっています。
進歩、発展していくことを神は求めておられるのです。

まず自らを高めること。進歩すること。
その究極に、男女のパートナーが出てくるということ。
そして一体となって、神の根源的なエネルギーの中で、愛の奉仕者としてその喜びを、ふたりが一体となれたという喜びをもって、神の愛に報いていく。
神の子たち、仲間たちに対して、その使命を果たすために、本来の個性としてなしていく。
それが神の子としての使命なのです。

そこに至る道が、ある意味で、僕が言う「男女の法」であるということです。
そこに至るまで、自分の本来のパートナーも得られず、認識力もひじょうに低く、あろうことか自らが神の子でなく罪の子、悪の子かもしれないという罪悪感でがんじがらめになっている。
そういう現在の人類の状況では、人びとは自ら、数々の苦しみや悩みをつくり、家庭生活や男女の愛情問題に苦しんで、数々の悩みの中に埋もれている。それが地球の現状です。

それをトータルに解決するには、あなた方が、まず神の子であるということ(を知って)。
愛のステップアップ、愛の大ルネッサンス運動に地球人が至らなくては――。
そこに至って、自らの人生を通して、愛の奉仕者として、この地球を愛の星に変えていくことができれば、愛一元の世界になって、すべての地球人が神の子として、愛の光の奉仕者としての認識ができたときには、自分自身のパートナーに次々と磁石の原理のように出会えるのです。

愛に清められた魂たちは、本来の姿を取り戻します。
そのとき、ほんとうの自分のパートナーと出会っていくのです。
ですから、僕らが今願っている、この救世の計画、第三の計画の後に訪れるのが、あなた方の魂のパートナーとの出会いだと、ようやく、そのような状況になるわけです。

今抱えている、離婚とか数々の問題、それは、発展段階の途中で、あまりに認識が低いために、そのような苦しみを自らがつくり出してしまっている、因果応報の摂理における、因果の果として、自らが呼んでしまっているに過ぎないのです。

一人ひとりがいろいろな課題で苦しんでいたとしても、それは誰がつくったものでもない、誰のせいでもないのです。
離婚しようと、男性運が悪かろうと、女性運が悪かろうと、それは、自分自身が、過去世からおこなってきた、その想念の結果であるということなのです。

6.自らを縛っている鎖を解き放ちなさい

昨日も「あなた方のまわりについている鎖を取りなさい」ということを、言われたでしょう。
大事なことなのです。僕が男女の法を説く意味の中で、昨日エリヤが言ってくれたことは、基本的な認識として必要なことなんです。

鎖というもの。それは、鎖をもって自分を統御することで、放縦に流されず、自らを律して、神理の道に、学問の道に、そして救世の初期には、鎌倉仏教や、原始キリスト教、仏陀の教えーー、多くの貢献をあなた方はなさってきてくださったのです。
自分自身のやりたい放題なこともしないで、人生の限られた時間とエネルギーを神に奉仕するために使う、そういう人生を送ってこられた。
その意味では、自己を律することは、ひじょうに尊い教えでもあったのです。

八正道において、自分自身を中道に保ち、自身を神の方向に向け、正しさを追求する中で、エネルギーを神の方向に、プラスの方向に(発揮し)、人類に貢献するための道として、教えを堅く守って普及してくださったというのが、あなた方の過去世の姿そのものだったのです。

今は、そこから一歩先のこと、一歩進んだ法を説く時代がやってきたということなのです。
そこをご理解いただきたい。けっして、独身で、一生懸命自己を律し、学問や、神理の道に励んで、こられたあなた方の人生が、尊くないとか、間違っているなどと言ったわけではない。
それは尊い尊い姿であったのです。
その姿があったからこそ、今日の、これだけの法を降ろせる時代をつくることができた。
あなた方の過去世のお仕事があったからこそ、僕らはこの愛の法、宇宙の法に至る法を説く時代を、やっと招くことができたのです。

ですから、そこを極論して、今までやったことがすべて間違いであった、というふうにはとってほしくないのです。
発展段階として多少の個性はあったとしても、ここまで神理というものを通して、多くの人びとが神に至る道というものーー。

そして、神に至るために自分をどのように研鑽し、努力したらいいかーー。
愛の言葉を通して自らの魂を高めることが、どれだけすばらしいことか。
そのことを学んできたキリスト教や仏教や、ユダヤ教やイスラム教の歴史があったということなのです。
それは、すばらしい過程であったということ。

そして、それぞれの宗教の中から、ひとつに地球教として統一されていく、そういう時代がきたということ。
人びとは、今でもイスラム教や、仏教やキリスト教という枠の中で、自分たちの救世主やドグマや戒律によって、殺し合いまでしている、まだまだ幼さのある時代なのです。

エリヤが言ったように、「視野を広く持ちなさい。そうすれば鎖はなくなる。それが宇宙の法である」と。
まさにその通りなのです。地球がひとつの星である以上、いくつもの宗教などは、本来はないのです。
地球の神はひとつであり、天上界はひとつであり、神の子たちは一丸となって、神の指導のもと、天上界の指導霊のもとに、大いなる宇宙の根源に至る道を見つけ、地球だけでなく、地球以外の星の者たちに対しても愛を差し伸べていけるような、そのような精神的段階に至らなくてはいけない。
この計画で繰り返し言われているはずなのです。

男女の法も、今までは、まだまだ自分のほんとうの魂のパートナーにはめぐり会っていない、でもどうでしょうか、最初から自分の魂と出会ってしまっていたら、魂のパートナーと出会ったときの喜びがはたしてわかるでしょうか。
失われていたからこそ、見いだしたときの思い、喜びは、愛の思いは深いのです。
感動も深いのです。

だからこそ、神は一時的に、自分の魂のパートナーを別々のところに分けて、わからないように生まれさせていくのかもしれません。
その中で、多くのことを人類は学びました。
多くの女性も、女性原理がどういうもので、そして、どのように愛というものが、自分の根源的なものに埋め込まれているかーー。

男性における愛の原理というもの、女性における愛の原理というもの、その幸福感はまた別のものがあるのです。
女性というものはやはり、いかなる悟りがあろうとも、「この地球すべてをくれる」と言われたとしても、愛をその命の中心に、魂の中心に据えて生きていく、そういうエネルギーであり、男性は、その女性の愛を受けながら、自分自身の魂からくる叡智、智慧、行動力を通して、進歩発展のために、自分の仕事に全身全霊で打ち込めたときに、限りない幸福感があるのです。

しかし、それはひとりでやるものではなく、愛する女性の愛を受けながら、自分の智慧、叡智を、神に期待された個性を発揮できてこそ、自分のエネルギーが満たされた幸福感が与えられるということ。
そのことを、もう人類は学んできたはずなのです。

もうそろそろ、それを認識して、その段階に至らなくてはいけないということなのです。
男性の聖職者たちが女性と結婚することや、女性の法を求めたい者たち、巫女さんや、尼さんや、シスターでいる方たちが、男性と結婚していくことが、ひじょうな罪悪感をもって、魂に刻まれておられる方が多いのです。

でもそんなことは全然ない。異性を愛し、異性に愛されて幸せに生きることは、本来神が望まれていた根源的な姿であるということを、受け容れる段階が来ているのです。
そこにおいての罪悪感などは、一度たりとも神の世界において、言ったことはないのです。いつの間にか、人びとの偏見と、自分たち自身の中で、罪悪感がつくられてしまった。

キリスト教でも、原罪説のようなものの中で、自分自らを卑しいものとし、罪の子という意識とレッテルを貼ることで、自分たちが謙虚でいなければ、とうてい神の道には至れないなどという,そのような思いがーー。
そんなことをインマヌエルはひと言も言わなかった。そんなことはひとつも言っていない。

迫害された、娼婦と呼ばれた者たちですら、インマヌエルは愛され、そして、取税人と呼ばれていた、その時代で最も卑しい職業として軽蔑された者たちですら、取り巻きの中に置いて、ひじょうにかわいがっておられた。そういう方であったのです。
あの素朴な、愛深いインマヌエルの性格、イエス・キリストの性格の中に、どこを探したら、あなた方は悪い罪の子であるとか、原罪があるとか、常に正しい道にいなければ駄目だとか、そんなことを、人を裁くような言葉があるというのでしょう。

「汝、人を裁くなかれ」

愛の教えの中で言われたのにもかかわらず、中世のキリスト教の中においては、人びとをがんじがらめにし、原罪というものの中で人びとの魂を縛り、鎖に巻き、そして、多くの人びとから、喜びをもって神と出会うことを奪い、喜んではいけない、信仰の喜びを持ってはいけないのではないか、神への道に到達できないのではないかとーー。
常にしかめっ面をして、苦しい難行苦行をしていくーー。
そして常に、傑になっていく姿にこそ信仰者の道があるという間違った思いを、キリスト教の中に埋め込んでいった。
それは後世の者たちがやったことです。
インマヌエルが言ったこととは全然違います。

それは仏教においても同じなのです。仏陀も、そんなに難しいことは言わなかった。
説法を通して、弟子や、集まってくる衆生に対して、ひじょうにわかりやすく法を説いていかれたのです。
それが、数々の仏教経典となって、哲学化していったものの中で、一部の仏弟子たちだけの専売特許であるかのように、難しい、難しいものにしていって、庶民には解放されなくなった。
難しい難解なものを、しかめっ面をして理解するからこそ、まるで偉い人であるからのように自らを取り繕い、自分たち自身のステータスを確立し、上げていった。

キリスト教でなくても、仏教でなくても、様々な宗教の流れの中にそういうことがあるでしょう。
これらは、時代の流れの中で、人類がつくっていったものなのです。
一部の特権階級のための、箔づけのために、あえて難しくしたのかもしれない。

でも、「本来、神の世界は違う」ということを、僕は言いたい。
僕は、ひじょうに自由な魂ですし、芸術系統を担当している魂でもあるので、自由なことを勝手に言える立場におりますのでーー。
仏陀が言ったら大変なことにもなりましょう。
インマヌエルにおいても遠慮がありましょう。でも、僕は言えます。

神の世界というのは大らかなものです。何の鎖もありません。
そして、喜びをもって、存在の喜びをもって神の世界に奉仕し、神に出会っていく。
そんな道が、そんな世界が、神の世界なのです。
少なくとも、地球における天上界と呼ばれている世界は、そういうものですよ。

そうでなかったら、僕らの世界で、救世主界と呼ばれているところは、数々の宗教の根源神みたいな者ばかりがいるわけですけど、みんなけんかしてなければいけないでしょう。
でも、みんな、とても仲がいいんです。違いを認め合うからこそ、ほんとうの意味で手を取り合い、協力して、地球の歴史をつくってきたのです。
誰だけが偉いとか、どのドグマだけがすばらしい、誰の教えだけがすばらしいということはない。

みんなが、九次元十人が、十人の個性を尊重し合い、それぞれの時代の中で、個性を発揮していく。
そうして人類を指導していく。
その喜びにーー、僕らは、仕事の苦しみではない、仕事の喜びとして、この魂を神により創造されたことが、すばらしい喜びとして人類を指導していくーー。
その中において、自らが与えられた個性を発揮することができる。

その感謝をエネルギーとして仕事してきた。それが僕らの世界なのです。

そこでは、「こうあらねばならぬ」とか、「こうしていかなくてはいけない」とか「こうしたら罪の子になる」ということはないのです。
ただひとつだけあるとしたら、「愛深くありなさい」ということだけなのです。

愛の思い。それは、僕らが、自らが神の子であるということを、ただ知っているだけかもしれない。
知って、それを人生の中で、生き様の中で、生き抜いているだけの存在かもしれないのです。
難しいことは何も決まっていないのです。ただ愛の奔流として、神からつくられたそれぞれの個性を大事にして、自らの命を、神の愛に報いようと捧げて、地球の霊天上界で仕事をしているだけの魂なのかもしれない。

天上界にいる天使たちもみな同じなのです。
みんな同じ思いなのです。
あなた方が知っている天使もおりましょう。知らない天使もたくさんいるのです。
たくさん、何万、何十万といる天使たちもーー、彼ら一人ひとりを「一位(いちみ)」といますが、一人ひとり、すべてが違うのです。
すべてが、すばらしいエネルギーを持ち、個性を持った、尊い神の使者たちなのです。
彼らは喜びに満ち、ともに助け合い、神の世界の中で、少しでも地球世界をすばらしいものにするために、身を投げうって、奉仕して生きているのです。

そこに共通しているのは、「自分は神の子である、愛の化身である。だから、愛をなしていきたい。愛を、実際の行為として地上に返していきたい」とーー。
共通原理としてはそこだけかもしれないのです。
それ以外の、宗教的なものや、いろいろな義務とか、ノルマのようなものは天上界にはないのです。

低い世界、って言うといけないかもしれないけど、天上界でも、宗教の枠の中でしか動けない者たちもいます。
そのような者たちの世界においては、自分たちはどういう、これこれの宗教の者であるから、他の者とは話をしたくないとか、そういうこともあるかもしれない。
でも、僕らの世界まで上がってくると、キリスト教であれ、仏教であれ、イスラム教であれ、天使たちは、みんな力を合わせて仕事をしております。

いろいろな霊系団というのはあるんですよ。
霊系団というのはあるんですけれども、みんなが力を合わせて、今、天上界は、みんなで心と心の手をつないで、一致団結して、最終的な第三の計画、地球ルネッサンスの計画実現のために力を合わせてやろうとしております。
そこの中で一度鎖でもって自己を統御することを覚え、正しい神の道を上がって来て、自らと出会ったなら、その先にあるのは、自らの鎖を解き放つことです。

すべて一切が、万物一切が神の子なのです。
何も怖いことはない。何も恐れることはないではありませんか。どこに行ったって神の神殿、この地球は神の神殿なのです。
あなた方はどこまで行ったって、神の愛の懐から逃げられないのだということ。
自分は罪の子ではない、愛を表現された、愛を込められた神の子であることがほんとうにわかったら、あなた方は何を恐れるのですか。
何も恐れる必要はないのです。愛を表現して、実行して生きていくことだけが必要になるのです。

今、数々の不信感の中で、男女の問題に限らず、家庭の問題、地域社会でも、不信の念が、人びとの苦しみの原因になっているのだと思うのです。
しかし、一人ひとりが神の子であり、愛の化身であることを実感し、行動の中で、日常の中で、人生の中で、誠実に、愛をもって生きることができたら、今あなた方が抱えておられる数々の難問、苦しみ、不幸の種は、ほとんどが解消されてしまうのです。

あなた方一人ひとりが、愛というものをほんとうに認識して、どうですか。友人に対しても裏切らず、愛をもってなしていますか。
家族にも、妻に対しても、恋人に対しても、親子でも、ほんとうの意味で、誠実に愛をなして生きていくならば、今人びとの心を苦しめている不幸の種は、大半が連鎖的になくなっていくものなのです。

人と人というのは、合わせ鏡とも申します。自分が愛ある姿でいれば、相手の中にある神の子としての神性、愛が啓発されて、愛豊かな表情になるのです。
地獄にいるサタンたちも今はあのような形相をしておりますけれども、ほんとうに愛されているということが実感できたなら、彼らの顔は、あっという間に普通の人間の顔に、それどころか、本来の気高い天使の顔に戻るのです。
人の心というのはそういうものなのです。

7.魂は永遠です

あなた方も、愛というものをもっと深く理解し、日常の中で、ささやかなことの中で返していく、そういう積み重ねをしてください。
それをやっても裏切られず、傷つけられず、不幸の種を蒔かない、そういう社会を実現するために、愛の教えを基盤とした社会改革をするための、改革者の一群が出てきます。
その者たちが、社会を構造的に変えなくては、いつまでたっても虐げられる者たちが出てしまう。

しかし、愛一元、愛を基本にした、世界の統一ルールに従う、愛の統一政府のようなものができれば、人びとはその中で、無防備に愛し合って生きていくことができる。
自分自身の本来の、ほんとうの姿に正直に生きることができる。
けっして、正直に生きることが放縦になったり、人を傷つけたり、悪意をもつのではなくて、神の子としての神性を表現していくことになる。
それができたなら、地球は大いに変わってくることでしょう。

その過程は、どの惑星も通過してきたことです。戦争を味わっていない星はないのです。
人間が肉体というものを持った時、動物的な部分が、どうしても物質界に引かれていく。
権力、力のぶつかり合い、支配による欲、そういうものも、基本的に学ばなくてはいけない段階があるのです。
その意味で、戦争もやってきてーー。

でも、魂は永遠です。魂は永遠なんです。だから、戦争はいけないけれど、戦争の悲しみを魂に刻んで、戦争を体験したことも、永遠の魂から見たら尊い経験です。
このような浅はかなことをして、自分は、過去世、人を殺してしまった、とーー。
愚かな思想に踊らされて、人を傷つけてしまったということは、魂の記憶の中に、永遠に残るのです。
だからこそ、愛する人を戦争の中で失って、悲しんで、苦しんだからこそ、平和のありがたさが理解できるのです。
尊さがわかる。そのことを学ぶために、神は、最初のうちはそういう、浅はかなことも許しておかれるのです。

男女のことも同じです。
魂のパートナーに出会ったということ、その喜びを、最初からいっしょにいるとわからない。
相手をおろそかにしてしまうかもしれない。でも、最初に分けられ、引き裂かれ、別々の環境に投げ入れられて、お互いが魂のパートナーだとわからない状況、記憶喪失のような状態で、女性霊、男性霊として、この地上に誕生させられたからこそーー。

これは、霊的な意味でも分けて創造されたのです。それは、さっき言ったハングリー状態、人間は、なんでもそうですけど欠けたものを本能的に求める力が働きます。本能的に自分の相手を求め、エネルギーとして希求していく。
望んでいく。渇望するものがある。
そのエネルギーが、自己を向上させる浮力になるのです。
それが自分を進歩発展させていく、そういうエネルギー源になっている。

それが向上の原理になり、男性霊をひじょうに高い境涯にもっていく。
女性霊も、悩み苦しみながら、暗に傷つきながらも、切磋琢磨し、自分自身を向上にさせていく。
向上し、自らが神の子だとわかり、自分の内にある悟りを得て、愛の奔流であるということをほんとうの意味で理解していったとき、その段階にきたときに、自分のパートナーと出会って、恋愛も、結婚生活も、男性に、女性にーー。

どうですか。異性に対して、失恋や、恋愛で苦しんだり、泣いたことのない人など、ひとりもいないでしょう。
みんな、報われぬ愛に苦しみながら涙を流し、男性の理想はどうなのか、女性の理想は何なのかと、悩むきっかけができたではありませんか。女性の法とは何なのか。
男性として生きるということは、どういうことなのか。分けられたからこそ、わからないからこそ、人は求め続け、学ぶことができたのです。
それが、今までの人類の歴史です。

ある程度の段階に至れば、その答えは与えられます。
自分のほんとうのパートナーと出会ったときに、それは万感の思いをもって、感動をもって迎えられるでしょう。
そのとき、他の女性たち、どれだけ美しい人がいても、どんなに素敵な女性がいても、他の人には一切見向きもしなくなります。

以前申し上げたように、ペナルティーを課せられるから浮気をしないなどという、そのようなことではなく、自分の魂においての宝であると、深い感動をもって魂のパートナーと出会っていくのです。
出会ったときには、一切の迷いはなくなるということ。
そこに至れば、今地球が抱えているような、結婚や離婚や、不倫や、そういった問題が解消されていくのです。

でも、今のような、不倫や結婚、離婚、相手とうまくいかない、相性が合わない、傷つけ合う、その苦しさが学習され、体に刻み込まれるからこそ、あとで魂のパートナーと出会ったときに、どれだけ相手を大切にしなくてはいけないかがわかる。

戦争で、悲惨なーー、原爆の番組をテレビでやっていましたが、あのように、ひじょうにむごたらしい状態で、一瞬にして多くの人びとが亡くなった。
そこには数々の人生があり、亡くなった方はもちろん、生き残った者たちも、失ったという苦しみ、悲しみを通して、戦争の悲惨な体験を刻んでいるのです。
愛するものを失った苦しみを通して、なぜ、どれだけの平和を人類がつくり上げていかなければいけないのかを(学ぶ)ーー。

そのために、この地球という限られた大気圏の中で、我と我を張り合う戦争が、いかに、ばかげたことかーー。
戦争をすることが集団自殺行為であることを、もっと深く認識していけば、人びとの間に、戦争というものはなくなるのです。

視点が低いから、認識力が甘いから、このような苦しみを平気でやってのける。
男女の問題においても同じです。それを通して、魂は深く学ぶのです。何度でも言います。
魂は永遠です。永遠の転生輪廻を繰り返して、あなた方は生きていくのです。
その永遠で何を学んだか。何を魂に刻み、何が尊いとほんとうに実感できたか。
それを学んだなら、学びを宝として、平和を、人びとが互いに愛し合うこと、信頼し合うこと、自分が神によってつくられた、かけがえのない魂だということーー。愛の奔流であることーー。愛の表現形であることーー。

そして、神は確かに大宇宙におられ、それは、人格神などという、怒りや罰を与える神ではなくて、宇宙の愛の奔流、愛のエネルギーそのものであることを理解していく。
愛そのものとして、神の懐に帰っていく、信頼していく、そういう旅なのです。

何も怖いことはないのです。人びとが互いを傷つけ合うのは、恐怖心によって行われている。
信頼したなら、無防備に愛したのなら、自分は裏切られて傷つくのではないか、という恐怖心ゆえに、人びとは傷つけ合うこともあるのです。

ほんとうの意味で魂は永遠ですから、もし裏切られて殺されて、死んだとしても、たかが肉体です。
肉体など脱ぎ捨てて、実在界と呼ばれている永遠の世界にまた戻ってくればいい。
そして、そこで学んだことを通して、次の転生のときに、より深い愛を表現していけばいいのです。

8.神は愛のエネルギーそのもの

愛をひたすらに表現していく。根源の神が愛そのものであるということ。
そこに全幅の信頼をおけたとき、自らに対する信頼感としても、愛というものを、奉仕しようというエネルギーが、自然に魂の奥底から湧き上がるものなのです。その信頼感を抜きにして、男女の問題においても、地球すべての人びとが愛し合うということにおいてもあり得ないのです。

自らが神の子であるということを知り得たときに、はじめて、人びとは絶対的な愛を信じることができ、誰も裏切らない、誰からも裏切られない、そういう自らへの愛に報いていこうとする。
愛の奔流として、自らを愛に向けて解放することができるのです。

神が、愛のエネルギーそのものであるということを知らない、自らが神の子であるということを知らない魂にとっては、そんなことは恐ろしくてできないのです。
そして、一回きりの、たかが数十年の人生がすべてであると思うからこそ、恐怖心が湧いて、何が何でも、人を傷つけてでも、人を蹴落としてでも這い上がって、自分だけでも今世いい思いをしようという、そのような欲とエゴのぶつかり合いが出るということなのです。

そんな認識から、もう解放されねばなりません。
一時この肉体をまとっていても、病により傷つき、使い物にならなくなったら「早くほんとうの、幸せな実在界に帰っておいでよ」と、上から手を差し伸べているのが、天上界なのです。
数十年の命、長く、天寿を全うしたといって、百年、二百年、生きたいと思うかもしれないけれど、そういうものが今の地球において、ほんとうの意味で幸せであるとは思えない。
我々の世界に行くと、肉体というものはそれほど老化しないですみます。
質は変わってしまいますが、ずっと持っていたいと思ったら、持っていけるのです。
記憶も、維持したければ維持していくことができる。

記憶を失ってしまうから、今回の人生だけがすべてであるという無知蒙昧なところに、人間は墜ちていってしまうのだけれども、ほんとうの意昧での記憶を維持して、永遠の魂であると実感するなら、人びとは、永遠のときの中で、ゆったりと愛を表現していくーー、心の豊かさとゆとりを取り戻すことができるのです。

その中で、むやみに、人を支配していきたいとか、自分の思いを実現するために、戦争を起こしてでも、人びとを自分の支配のもとにおいておきたいとか、そのような思いは自然に消えていくのです。
ただただ愛を願い、ただただお互いに愛し合うことの喜びの中で、ともに信頼し合って、喜びに満ちて、感動に満ちて生きていく。それが、本来神が望む、神の子としての生き方なのです。

そうすると、社会はたいへんシンプルなものになります。数々の取り決め、自分を不幸から、脅迫的な、侵略されるものから守ろうとするゆえに、地球はひじょうに複雑化しています。
そのようなもので自らを守ろうとするから、複雑な鎖、バリアが張り巡らされているのです。
愛と信頼がほんとうに理解できたとき、あなた方の世界はひじょうにシンプルなものになるでしょう。
生活もシンプルになってきます。あなた方の肉体までも、変化していく時代がくるのです。
その質量も変化するでしょう。ただ愛の思いで変わるということ。
愛の浮力で、余分なものが自らの想念から消されていったとき、物質的にも変化が起きるのです。

そうなれば、今の医療とは違うものが出てくるでしょう。
肉体というものは、魂が一時、地上界において、愛の奉仕者としての仕事をするための仮の姿、舟として与えられたものです。
それがほんとうに認識できれば、いたずらに肉体に執着をして、人の臓器を奪ってまでも永遠に生きていたい、いつまでも生きていたいというむやみな執着もなくなるから、医学も根底から変わってくるということなのです。

9.愛の喜びの中で

幸せ、喜びというものは、愛を実感したときに起こります。物質を所有したところからくる喜びなどは、一時のものなのです。永遠には続きません。愛の感動、愛の喜びの中で、神の子としてほんとうに愛を実現したときに、人の幸せというものはあるのです。その究極の姿が、男女の合一の姿にあるのかもしれない。

本来、男女というものが罪悪なものであるなら男性と女性が交わるということが罪のものであるなら、神はなぜあのような喜びを、引き合うような、陶酔感を与えたのでしょうか。
最終的に、男女が睦み合ってクライマックスに達したとき、宇宙の根源のエネルギーに同化していくーー。
上昇していって、神の懐に、ふたりで一体となって飛び込んでいく。
それを喜びとし、究極のエクスタシーとして神が人の体に埋め込んだのです。

「あなた方は霊的にも進歩成長しなさい。
そして悟りを開いて、自分のパートナーと出会い、ふたりで一体となって手を取り合って、最終的にわたしのもとに戻っていらっしゃい。神の愛の化身として、わたしの元に戻っていらっしゃい」と、それを、魂においても、肉体においても、神は埋め込まれているのです。
それが、本来の性というもの、セックスのクライマックスエクスタシーの構造原理として、人間の体に埋め込まれているのです。

喜びを持つことが神と出会う道には至らないと、罪悪感を埋め込まれてきた人類だから、そこに罪悪感があるだけのことです。
喜びがあるということは、その道が、神が望まれておられる道だということなのです。
ただ、今は性の喜びというものを濫用しているだけ、ほんとうの意味での喜びとして、神が望まれておられる道へは活用していないというだけのことです。

野獣性を帯びた、男性が次から次へと女性をあさるような、最近では女性も男性をあさっていくようなーー、「そのような道が、ほんとうの意味で幸せであるか」と、そういう者たちに聞いてみたい。
次から次へと女性を変えて、愛なきセックスだけを渡り歩いている者に、「ほんとうにあなたは幸せですか」と、聞いてごらんなさい。
常に彼らは飢えているのです。
男性遍歴を、女性遍歴を繰り返せば繰り返すほど、自分の中で、「それは違う、こんなはずではなかった」という飢えだけが、塩水を飲むように蝕むのです。

遭難したときに塩水を飲むと、もっともっとのどが渇くでしょう。それと同じです。
むやみやたらな異性との交遊、性的な体験の積み重ねは、繰り返せば繰り返すほど、自らの中に飢えを生んでしまうのです。
そして、ますます自分自身の幸せから遠くへと、自分をいざなってしまう。
だから、仏教においても「みだりに女性と交わるな」「交遊するな」と、そういうことを言っているだけなのです。

だからといって、「かけがえのない相手と出会うな」とか、「結婚するな」とか、そんなことはひと言も神は言っていないのです。
男女が出会い、アダムとエバが会ったときのように、ふたりが出会って「産めよ、増やせよ、この地上に満ちよ」と、男女の性というのを分け、祝福し、子孫繁栄を願ったのです。
子孫繁栄を願うということは、つまり、男女が出会って愛し合うということなのです。

そこには、ひとつの罪悪もあるはずがないのです。
そこに罪悪感を埋め込んでしまった、今回の文明における宗教の責任は大きいかもしれない。
でも、それはその段階では必要だった。
そして今、この罪悪感から、あなた方人類は抜け出さなくてはならない。
健全に、抜け出さなくてはいけないのです。
そして、真に愛し合う魂に、男女において性的なものは、この地にて、子孫をつくって繁栄していくという目的と同時に、恋人、男女の夫婦愛、それを最終的に完成させるためにある。それがセックスであるということなのです。

究極的に統一していくこと、統合していくという過程において、セックスという行為があるのです。
そこにおいて究極の喜びがあり、クライマックスには、ふたりでともに神に通じていく、昇っていく瞬間がある。

、タントラの中で、男女が性的な意味において、ほんとうに深く愛する男女がですよ、ほんとうに深く愛し合う男女が、セックスの中においてクライマックスに登り詰めていくときに、一躍菩薩の境地に、神に合一していく道があるということを唱えているはずなのです。それを説いているのです。

ヒンドゥー教の中にも、仏教のタントラと、密教とか言いましたかーー。今回そのことを少し、彼女(アマーリエ)に勉強させたのですけれども、その道は、僕はそのことを言ったのです。「けっして、間違ったものではないよ」と。それは、かけがえのない愛、分けられたものが再び出会って、そしてともに神のもとに帰っていく、神の子として、親のもとに帰っていく道そのものであるのだとーー。

別にセックスがなくたって、男女は愛し合うことができるのです。
でも、セックスがない男女の愛はどこか不完全です。霊天上界においては、セックスはありません。
魂と魂が出会うというだけで、互いに手と手を握り合っただけで、感動、喜びがあります。
でも、肉体をもつこの地上においては、感性として受け入れていくべきものが、ひじょうにろうかいにできているから、肉体の機能の中に神の存在を埋め込まれ、その中で、愛の喜びを、肉体器官に埋め込まれてつくられていますからーー。
それが神の慈悲でもあるのです。

この喜びを通して、摂理を通して、「あなた方は、神の子として神の世界に戻っておいで」という、その悟りの道も、ちゃんと自然界に埋め込まれているのです。動物たちがーー、どうでしょうか。
動物たちが愛し合って子どもを産んで、かわいい子猫や子犬たちが生まれてくる姿、その姿を見て卑しいとか、汚らしいとお思いになりますか。
そんなことはない。かわいいでしょう。いかなる動物も、そしていかなる植物も、種をなしていきます。

そして、愛し合う恋人たちの姿を見て、まあ、他の人が愛し合っているのを見て、うらやましいとジェラシーを感じるのは別ですけど、どの恋人たちでも、どの夫婦でも、仲睦まじく寄り添う姿は美しいではありませんか。
自分とは違う人たちで、まったく知らない人たちであったとしても、愛し合う姿、仲のいいご夫婦、特に、年齢を重ねたご夫婦が仲良く歩いておられる姿を見て、美しいと思いませんか。愛とは、究極的に美しいものなのです。

10.ひとりよりもふたりで学ぶ人生を勧めたい

ですから、男女の姿というのは、あなた方が思っている以上に自由なものであるし、そして、ちゃんとした意味があるということ。
その意味を人類は知らないから、間違った方向に濫用しているから、不幸の種を、混乱を、混迷を導き出してしまっているのです。

ほんとうの意味で心惹かれるものーー。
魂のパートナーに出会っている方がひじょうに少ないのが、今の地球の現状です。
その中で、あなた方が何をなしうるかといえば、心と心で引き合った相手、神より与えられた相手を、心から感謝をもって受け入れて、ともに歩んでいくこと。

もし、その相手が魂のパートナーでなかったとしても、そこから学ぶ意味は大きいのです。
ひとりで生きていくよりも、ふたりで生きていった方が、愛が何であるかということを、根本的に学ぶことができるのです。
自分の魂のパートナーでないから一緒にならないなどというのは、思い上がりです。
傲慢です。自分自身を幸せにするのではなく、まず自分のパートナーを、愛する者を、家族を幸せにしていくことができなくては、その先の、ほんとうの魂のパートナーに出会う道はないということなのです。

確かに、自由を束縛されたり、不自由なことはあるでしょう。自分のやりたい時間も犠牲にすることもあるでしょう。
でも、どうでしょう。あなた方はこのレムリアのために、どれだけのエネルギーと、時間と、お金を使っているでしょうか。でも、喜びをもって、奉仕の心で使っていますね。これが神に対する愛の奉仕です。愛なのです。

あなた方が、大事な貴重な時間、小説を書きたい方もいるでしょう。ね。ここになんか来たくない、うちに帰って小説を書いていたいのに、こんなところに来て何日も泊まってーー。やらなきゃいけない。時間とエネルギーをどうしてくれるんだ、と思うかもしれない。けれども、それでも来てくださってレムリアでたくさんの仕事をしてくれている。みなさんも、ほんとうに多くの仕事をしてくださっている。自分がやりたくない、ほんとうはやりたいことがあるのに、やりたくないことのために、自らの時間と、お金と、エネルギーを犠牲にして、やれることをする。

そういうことが愛なのだということ。それをどうか、学んでいただきたいのです。あなた方がそういうことをもっと学ぶ、実践的な日常の中で、愛を日常の一コマ一コマの中で重ね、積み上げ、愛を学んでいるということ。
今回の人生があって、次の人生がある。一歩一歩、階段を上がっていくように、学んでいくのです。

でもね、自分の魂のパートナーにめぐり会ったとしても別れてしまう場合もあるわけで、でも、一時別れていたとしても、別れていたことが、お互いの魂にとって、どれだけマイナスであったかということ、苦しかったかということを思えば、再び出会ったときに、より一層、前以上に大切にすることを学べるのです。
そんなものです。

だから、すべての人生が、すべての一コマーコマが、かけがえのないものであるということ。
無駄なものは何もない。
そのことを、僕はあなた方に伝えていきたい。愛というものに無駄はないのです。
もし縁があるなら、ひとりでいるよりもふたりでいること。
そこから学ぶこと、そういう人生をお勧めしたいと思うのです。

だからといって、強制するわけではありません。
ひとりで生きていきたい方はそれでいい。
でも、もしご夫婦でいて、結婚しているなら、ここにも「お子様が――」という方がいますけどね、あなた方にも縁があるのです。
子どもがいるかいないかということが、男女の魂にとっての縁の強さ、弱さにはならない。
霊天上界に帰ると子どもはいないのです。
子どもはいないけれど、魂同士は引き合うのです。
そうやって、男女の性はあるのです。

男女の性は、いっしょに暮らしていても、子どもができても、そこで学ぶことがたくさんあります。
確かに、愛というのはいろんなものを学びます。
しかし、いずれ、子どもというのは巣立っていくものです。
最終的に残るのは、夫婦です。男女なのです。
そこから、愛の根源的なことを学ぶのです。
子どもがいるから、いないから、それが成功失敗の要にはならないということ。

逆に言うと、それを通して、自分が今回何を学びたいかということーー、何を第一義にしてきたかということーー。
そして、自分ではわからないかもしれないけれど、それこそが、過去世からのカルマの刈り取りであったりするのです。
そのようなことを考えて、あなた方の今回の人生というものを、大事にしていただきたいのです。

魂は永遠です。永遠の魂の流れの中に、「今」というときがある。
それを少しでも豊かに、愛の実り豊かなものにするために、男女というものがあるのです。
そのために、一切のものがある。だから、自分が、ひとりで生きたいと思うならば、それはそれでいいのです。
それを、その質問をした方の中にも、「あらねばならぬ」という思いがあるのかもしれない。

どうしても、自分が、男性として独身で生きていたいなら、そのように生きればよいのです。自分で選べばいいんです。
僕は「お勧めする」と言っているだけであってーー、「ならねばならぬ」などという言葉は、僕は大嫌いです。
義務感で結婚などするものではないし、義務や責任だけを課せられて、付きあわなくてはいけないなんてことはないのです。

Fall in loveって言うでしょう。愛するというのは、愛の中に、気づいたら落ちているものです。
ハートがときめくものです。喜びがあるものです。
その中で生きたいと思えば、選択すればよいのです。

「ひとりよりもふたりで出会っていく、愛の中で生きることのほうが、より豊かな人生になりますよ」「学ぶことがありますよ」「愛を豊かに学ぶことができますよ」と、そう申し上げたいだけなんです。

そして、もし、愛というものを学ぶことが、あなた方の中で、自分自身の中で、つまらない罪悪感があるとしたら、僕は、その罪悪感からあなた方を解放してあげたいと、そう思うのです。

気持ちを解放して、喜びをもって男女の愛を睦み合っていくような、よりオープンに表現していけるような、そのような地球世界にしていきたい。
それが、愛のルネッサンスが起きた後の、男女の姿そのものかもしれません。

どこに行き交う者たちも、恥ずかしがることなく手と手を取り合い、愛するパートナーとともに行動し、ひとりよりもふたりでいっしょにいるからこそ、ともに仕事ができる。
その姿を、僕は、今回あなた方に見せているのです。本来の根源的なパートナーでなければ、このようなことはできない。
男性のエネギーと女性のエネルギーが合一するからこそ、このようなことができるということ。
しかもそれが、男女が合一するだけでなく、エネルギーが合一するだけでなく、天と地を結ぶ架け橋にもなるということ。
そのことを、あなた方に見せているのです。それほど、神のエネルギーは偉大だということ。奥が深いものであるということ。

なのに、男女が出会っていくことが間違っているとか、罪であるという意識を、もういい加減、神理を学ぶ者たちから、拭い去らねばいけないと、僕は思うのです。
性がいたずらにもてあそばれている現代だからこそ、根源的な愛がいちばん基本にあり、最終的にそれが帰結する姿として、性的に合一する姿があり、性的なものが合一する姿は、クライマックスには神の懐に戻っていく旅であるという、そこへ昇り詰めていく姿であるということがわかれば、少しも卑しいものでなく、少しも醜い、いやらしいものであることはないはずなのです。

そこから、大いなる神の子孫が、人間が持つ創造エネルギーの究極として、男女がめぐり会うことによって、新たな魂が、生命が誕生するのではないでしょうか。
生命が誕生するということは、人間に与えられた創造、神より与えられた創造原理を、そのまま創造者として、この地上に行っているということなのです。

だからこそ、男女のエネルギーが出会っていくこと。そのことを、もっともっと喜びをもってーー、そして、何が根源的な姿であるか、それを今日申し上げたのですが、そのことに則って、愛を行っていただきたい。
日常というものを行っていただきたいのです。

11.自由意志の中で自分に正直であること

今、ひとりでいたいと思うなら、ひとりでいてください。それが悪いことというわけではありません。それは、自分がやりたいことがあると、生まれてくるときに書いた、人生の青写真にあることです。
ですから、うずきがあるなら、そのうずきに正直に生きるべきであると、僕は思います。ですから、そのことに、少しも罪悪感を持つことはない。自由に、自分らしく、ひとりで生きていけばいいんです。
次の転生のときに、今回は独身をいやというほど楽しんだから、今度は絶対結婚してやろう、と思うかもしれない。
そこは、神から任されたあなた方の自由意志ですよ。自由意志は、いかなるものも侵すことのできない、神の子としての当然の権利なのです。ですから、自由意志をもって、自らの人生を選択してください。

僕はただ、男女の創造原理、男女の性の原理をお話ししているだけで、それを、すべての方がたに押しつけるわけではありません。
「こういうすばらしい面がありますよ」「ですからお勧めですよ」ということを申し上げているだけです。
より豊かな、愛ある生活をしていくということ。
それが、ほんとうの意味で人類を幸せにしていくということなのです。

幸せの根源は、まず男女の結びつき、家庭という小さな、小さな単位にあります。
それが拡大化され、地球意識まで広がっていったとき、地球世界が、根源的に幸せな世界に変わっていくのです。
まず、基盤は家庭です。どれだけ社会で成功を収めている男性でも、女性でも、家に戻ってきたとき、そこが不幸であれば、心に幸せはないものなのです。それくらい根源的なものなのです。

家庭をもっと突き詰めると、男女の結びつきですね。すばらしい配偶者、パートナーにめぐり会っている者は、ほんとうに幸せであり、神より祝福されし者であるということ。
そのことを理解してほしいと思うのです。

そして、もうひとり、次の芸術論のときにも申し上げようと思いますが、芸術家という魂は、お坊様たちと同じように、ひとりで、自由な時間とエネルギーを使いながら、創造性というものを、作品の中で昇華していきたいという思いがあって、結婚をしないという選択をしている者たちがいます。
そういう者たちには、そういう者たちの使命があるということを、ひと言お断りしておきたいと思います。

そういう方たちは、魂のグループの中に、男性と女性が半々くらいに入っていたりするのです。そうすると、魂のグループの中において、男性原理、女性原理が両方入っていて、それが自分の中に統合されたとき、その本体エネルギーの中で男性原理と女性原理が、パーニャパラミタの集積によって融合することで、男女の合一というものを学ぶー。

究極的に合一し、神の根源的なインスピレーションを受ける道、神へ戻っていく道が、小宇宙のような形で出てきている。そういう形もあるということです。
ですから、そういう方たちに関しては、無理に「結婚して」ということは言わないようにしています。
だから、こうあらねばならぬということはけっしてないけれども、「大方の者においては、自分の魂のパートナーがいるのだよ」と伝えたいと思うのです。

12.天上界における結婚について

スウェーデンボルグが言った「結婚愛」ということがあります。その中で、結婚というものを「黄金の時代」、「銀の時代」、「銅の時代」というふうに分けて、究極的な、黄金の時代という結婚の時期を生きている者、その者は、ふたりが一体であると。
僕たちが霊的に見ると、男性霊と女性霊が重なっているんですね。そう見えるんです。
そして、「彼は彼女であり、彼女は彼である」という言葉があるのですが、それは、彼らが究極的に、自分の魂のパートナーとめぐり会って、霊的に合体している姿なのです。その姿を「融合」と言うわけです。

僕はね、語弊があるかもしれないけれども、「結婚」という言葉を使うのが好きじゃないんですよ。
夫とか、妻とかいう言葉の中に、結婚制度による因習、慣習、義務的なのもを感じ取ってしまうので、結婚、夫、なんていう言葉を使うのがあまり好きではない。
だから、「魂のパートナー」という言い方をするんです。でも、地上では結婚という言葉を使うので、僕も使うんですが、本来結婚というのは、神より祝福されたものです。
究極的に神の世界に戻っていくには、自分が、一体であるものから分けられた相手と出会っていく。
そして、魂の相手と会ったときは、ふたりは、別々で生きることが許されないくらい、引き合ってしまうということ。

そして、僕たちの世界では、ひとつのエネルギー体として、男性でも女性でもない、一切を含む、完成されたエネルギー体として存在している者たちがいるということです。
それを、スウェーデンボルグが言ったのです。
それは、霊的に見るともう一体化しているのです。
それは、霊界でも結婚はあるのですよ。
セレモニーをするときもあります。祝福されて、自分たちがともに生きていきたいと。

そして今回、他の霊言を見ていて、僕は「おやおや」と思っていたのですけど、どうも、神界以上になってくると結婚というものはなく、男性霊、女性霊が引き合ってともに暮らすことはないという。
そのような、またまたおかしな固定概念が定着してきているように思うので、そこをちょっと直しておきたいかなと思います。

そんなことはない、そんなにこの世界からロマンがなくなったら、僕は生きていけない。
「僕はロマンティストだ」ということを前も言ったけど、神の世界はとてもロマンティックなものなんだよ。
そういうことをもっとわかってほしい。愛し合う者たちが惹かれて、ともに手を取り合って、励まし合って、高め合って、そして他の者たちの愛のために生きようとする。それがこの世界、神の望まれている世界なんだ。

芸術、「神自体が偉大なる芸術家である」ということをいつも言うように、もし正しさだけを求める神であったら、こんなに世界を美しく彩りつくることはないと思うんだ。
でも、ありとあらゆるところに、美しい色彩が、そして、宇宙にも、美しいシンフォニーのような調べが、旋律が流れている。
それは、無駄な偶然の産物ではない。神のご意思の愛の表現の中に、大いなる愛と、芸術や彩り、豊かさがね、あるということ。
その豊かさというものが、どうもその、なんていうか、法だけを求めてる人たちの中に、ぎすぎすしたものとして出てきている。
ゆとりや豊かさ、それが、ある意味で、芸術的な彩りだったり、音の豊かさだったりする。
おいしいビールを飲んだり、おいしいワインを飲んだほうが、まずいワインを飲むよりいいでしょう。そういう喜びがあるじゃないですか。


それと同じで、愛する女性といっしょにうっとりと愛し合って生きていく。
その喜びがあったほうが、人生、より一層幸せではないですか。
そのトータルなものを、神は、すでにその内側に携えておられる。
先ほど、ちょっと、エル・ランティが言ってクレームがきたようなことを言いましたが、性的なクライマックスということがね、いやらしいものではなく、すでに、神が喜びとして、人類にくださっているということ。
それを埋め込んで、神の姿に似せて、僕らはつくられたのです。この肉体も、神になぞらえてつくられたのですよ。

ということは、この中に神の叡智が、神の神理が、あなた方の肉体を、魂を解明したのなら、神の思いが、すべて、この肉体の中に詰まっているのです。
悟れるのですよ。
その答えを、神はちゃんと埋め込んでつくられた。
自らのミニチュアの愛の姿としてつくってくださったのです。
ですから、最終的には、スウェーデンボルグの黄金の結婚の形態、彼は彼女であり、彼女は彼であるという、そういう性別を超えた、一体としたエネルギー体になる。
そこにおいてより深く、トータルな愛を表現していく。愛の姿を、究極に示していく。
それが、結婚愛の究極の姿なのだということを、人びとに対して教えている。それを言っているのです。

それ以前の銀の時代、銅の時代という言葉があるけれど、それは、銀の時代だと、肉体的には愛し合っているけれど、世間的な慣習に強く縛られているということ。
とても不毛な、ほんとうの意味で愛し合っているのとは違う世界。
それ以前の段階は、愛も何もないけれど、習慣だけ、義務だけで、人びとが結婚という形態を維持している。

そういう歴史における景観のようなものが、結婚とか、夫とか、妻という言葉に染み付いてきたように思うので、あまり夫とか、妻という言葉を使うのが好きではないけれど、神が祝福された結婚愛の、神が望まれる夫、妻という形態の中には、すばらしい結婚愛が満ち満ちている。喜びが満ちていて、その中で、肉体をもっとときに、性愛が、セックスのことですね。性愛が発生してくる。

地上において、子どもを産む過程の中で、そういう動物的な部分というものが、地上の肉体を、物質的なものをまとうことで、どうしても出てくる。それの間違った濫用によって、人びとは今日、このような混乱した社会を地上に築いてしまった。

大事なのは、霊天上界にある男女の姿こそが原型であるということ。
子どもを生み出す創造者として、神の似姿として、その能力は神の子たちに与えられている。
芸術作品をつくったり、さまざまな思想を生み出したり、子どもをつくる、それらを創造するということ、創造者としての部分は、僕たちの中にあるけれど、でも、究極的に僕たちに必要なことは、男女の本来の姿に戻ること。
男女本来の姿、合一していく姿、これが究極の男女の姿であるということ。愛そのものであるということ。

13.男性原理、女性原理が一体になって天地創造をしていく

あなた方は、僕たち九次元の者を、救世主界、指導霊と言ってくれるけれども、僕なんかまだまだ若造でね。
はるかにキャリアの長い方がたから見ると、僕やカイトロンなどは、まだまだ若造ですよ。

九次元の中でも、そういうものがあります。九次元は、修行を終えると、十次元や惑星意識になっていくんだけど、そこに至るとどうなるかわかりますか。
自分のパートナーを連れて行くんですよ。
男性意識だけでは天地創造はできないということです。
自分のパートナーと一体になることによって、男性原理、女性原理が一体になることで、その惑星に、万象万物を創造していく、物質界における天地創造がはじまるのです。

ひじょうに狭い世界です。
根源の、大宇宙の愛の神から見たら、ひじょうに小さいものだけれど、その惑星を通して、惑星はみんな違います。
どうですか。
太陽系を見ても、金星、木星、火星、水星、天王星みんな違うでしょう。
違う色をして、違う雰囲気を漂わせているでしょう。それは惑星を形づくっている、内在している霊体が違うからです。
霊体の個性が違うから、惑星には個性がある。
そして、それぞれ違う役割があるのです。
地球には、地球神霊と呼ばれている方が入っています。
その方は、男女の性を超え、合一された、融合された方です。

男性原理、女性原理が一体になっていくことで、天地創造をするということなのです。
であるならば、大宇宙の、これだけの大宇宙を、根源としてつくられておられる神の愛、愛ですよ。
神は、男性だと思われますか。男性ではありません。
「母なる大地」と言うではないですか。父なる神があるならば、母なる神もあるのです。
それが愛のエネルギーによって融合された、ほんとうの意味での根源的な愛の思いが、宇宙大に拡大してつくられているのが、この大宇宙です。そこまでのレベルには、僕ら九次元は、たとえ十次元というレベルになっていても到達できない。

でも、自分の担当した惑星では、自分のパートナーとの融合の中、天地創造をしていくのです。
それが、惑星意識の方がたの姿です。そういう方がたから見たら、僕などまだまだ若造です。

自分のパートナーとめぐり会い、そして、パートナーとともに生きていく。
それは、けっして、お互いに束縛したり、占有したり、お互いの自由を奪うものではなく、手を取り合うからこそ、より大きな愛の中で、大きな仕事ができる。相手といっしょにいるからこそ、自分ひとりではなしえない仕事をなしうるということ。
それが、愛の姿そのものなのです。

愛は奇跡を生みます。愛は、すべてのものを創造する。
根源的なエネルギーそのものなのです。その愛のエネルギーが、大宇宙の中から、神の愛の中から僕たち一人ひとりの中に流れ込んでいるのです。親である大宇宙の神により創造され、分け与えられた愛が、その魂の伴侶に、パートナーに出会い、手を取り合って、一体となって親のもとに戻る。帰っていく。そして、神とともに、同じ天地創造をなしていく。
次の段階が許されていくということなのです。

それが、男女の原理の循環であり、愛の姿であるということ。
神の子であるということは、僕たちが愛の化身であるということ。
圧倒的な愛の摂理、愛のエネルギーの奔流そのものが神の愛であるということをほんとうに理解しなければ、男女の法の究極がわからぬと言ったのは、そういうことにあるのです。

そこが理解されていないから、間違って濫用されているから、間違った相手と、間違った形態によって関係を結ぶから、苦しみが湧き上がってくるのです。
ですが、それもまた成長のための一環、学びの一環であり、かけがえのない「今」であるということ。学ぶことに臆病になってはいけない。失敗することを怖れないということ。

14.愛なくして何も生まれないのです

僕はね、僕だってたくさんの失敗をしてきたのです。
いくつものしくじりをやらかしてきているのです。
でも、失敗したことも、すべてが懐かしい思い出です。
失敗したけれど、精一杯がんばって、自分の中で愛を光らせ、自分なりの役割を果たして生きたいと思い続けてきた。

そして、永遠のときの流れの中で、永遠の命を生きていく過程で、あなた方も僕も、神の子としての使命を果たしていくのです。
それが神の子としての道なのです。愛の道以外、神の子の道はないのです。
愛のために生きていくのです。
愛のために、愛として生きていくのです。
愛として輝くために神の子はあるのです。
ならば、愛し合う、ロマンティックな愛、配偶者としての恋愛が、愛し合う姿が、ないわけないではありませんか。

この地上に男性だけがいたらどうなりますか、アマゾネスのように女性たちだけしかいなくなったらどうなりますか、どこにもすてきな幸せな世界はできないでしょう。男性だけがいたらむさくるしくなりますよ。
女性たちだけがいたら、恐いですよ。男性がいて、女性がいて、恋をして、惹かれ合って、求め合うから、この地上は美しいのです。
豊かさに彩られるのです。その究極で、子どもが、新しい生命が生まれ、未来に対する希望が生まれるのです。
それが、神が望まれている地上の姿です。

人間だけではありません。生きとし生けるものすべて、森羅万象の中にもその摂理が、原理が生きているということ。
これが愛の摂理です。これが愛の原理そのものなのです。
大宇宙を統べている摂理そのものが、愛の原理なのです。
これが愛の原理そのものなのです。

そこの中に喜びがあるのです。
美しさがあるのです。
そこの中において神は、ご自分の創造物を楽しんでおられるのです。
だからこそ、このように美しい芸術作品である、美しい宇宙を創造し、宇宙の中で、さまざまな芸術や、さまざまな人類の生を通して、ご自分を表現されておられるのです。生命体を通して、ご自分を表現されておられるのです。

海の中にいる深海魚も、美しい姿ではありませんか。
ゆったりと生きる、浮いているマンボウも、ね。
あのように、誰にも見られることのない――。
その姿の中に、美しさを感じ、すばらしさを感じるではありませんか。
ミジンコや、アメーバの世界の中にも美しさがある。
その中にもちゃんと神の愛の原理が流れているのです。生きているのです。

ならば、あなた方、神の子として、神に似せてつくられた人間であるあなた方に、神の愛が込められていないわけがないのではありませんか。
神の愛そのもの、神の愛の凝縮された集大成として、あなた方がある。その中に男女があり、愛し合う姿があるなら、それこそが、神の望まれておられる姿そのものだということ。

間違った性の濫用があるからといって、男女が愛し合い、睦み合う姿が、悪として否定してしまうことは、豊かな人生を、自らの魂を否定してしまうことになるのです。愛というのは豊かさを生むものです、希望を生むものです。

ありとあらゆるものを創造する、その根源的なエネルギーが愛なのです。
愛なくして何も生まれないのです。愛なくして、生命も、この世の中も、大宇宙も生まれなかったのです。
そのことを思うのならば、あなた方は愛の思いを解放しなさい。

つまらぬものに束縛されず、自らの中にある、こうあらねばならぬという思いから解放して、罪悪感から解放して、間違うことを怖れることなく、このマヌでもたくさんの失敗があるのです。
しくじりがたくさんあるのです。そのことを思ったら、あなた方だって失敗をしたっていいじゃないですか。

失敗してもいいから、愛を、愛していくことをやめてはいけません。
愛していくことを止めてはなりません。愛し合うことに臆病になってはいけません。
傷ついても、傷ついても、ほんとうに愛し合うものであるのなら、必ず、お互いの大事なものに気づいて、まためぐり逢うものです。
そして、その過程を経たからこそ、お互いが根源的に必要であるということを学ぶのです。

自らの愛を解放していかなければ、あなた方のほんとうのパートナーにめぐり逢いませんよ。
臆病な者、自分の愛を解放せず、人を愛することから逃げている者は、自らの魂のパートナーに出会えないのです。
臆病な者は、自分の愛から逃げてしまうという、逃げるという性格が出てしまうので、(そうならないように)自分自身の中に、愛に正直に生きていく。自分の人生に対峙し、直面して、なお、愛を求めていくという、愛してやまない思いを出していくということ。
その勇気を、どうか忘れないでいただきたいのです。

性格なもの、そういうものが正しくなく、神の子としてあるまじき姿であるというふうに、あなた方に今回は埋め込まれてしまったのかもしれない。でも、もうそういうものから解放されてほしい。

そして、愛を、喜びをもって、勇気をもって、あなた方の行動原理とし、生きるエネルギーとして、活力として、希望として、あなた方の人生の中に溢れさせてほしい。女性を愛する気持ち、男性を愛する気持ち。そういう思いをもち、幸せに輝いている者は、あなた方の隣人も、社会も、そのまわりにある惑星も、地球そのものまでも、幸せにしていく力を持つことになるのです。

溢れんばかりの愛というものを拒否して、逃げていたのなら、愛の力強さにおいてやはり、劣るものになってしまうかもしれない。
だから、どうか勇気をもってほしい。
愛によって傷つくことよりも、愛してやまない思いを無限に出していける。
神は見返りを求めず、ただ愛を与え続けるものだということをあなた方はもう知っているでしょう。レムリアの教えの中で聞いていますね。だから、あなた方も勇気をもってほしい。

今回傷つき、分裂していった者たちによって、あなた方はひじょうな攻撃を受けました。それでも許して、人びとに対しての愛を、レムリアを通して伝えようとした。その思いです。

男性に対して、女性に対して、傷つくかもしれないという臆病な思いで、どうか愛する思いを止めないで欲しい。
そして、無尽蔵に出てくる自分の愛の思いというものを、まわりに対して流していっていただきたい。

愛する異性に対しても、愛が溢れるくらいの生き方をしてほしい。
それによってとても傷つくことが、報われないことがあったとしても、愛というものは無限に、自分の中から与えられ、出てくるのです。
それが、神の子である証明なんですから、だからあなた方も、人類を愛することに関しては認められても、異性を愛することに対しては罪悪感を持つような心が、お坊様たちの中にあるなら、もうそういう思いは捨てなさい。

15.仕事は喜びをもってするもの

幸せに、僕といっしょにダンスを踊ろう。
いつも言うでしょう。
神とダンスを踊る。神に恋をする思い。
それがあってこそ、バランスの取れた神の道を、踊りながら上がっていくことができるんだよ。
ぎすぎすしたゆとりのない思いの中で、全人類を幸せにしよう、宇宙を幸せにしようなんて思っても続かない。
絶対続かないから、豊かさの中で喜びをもって、「仕事は喜びをもってするものだよ」って以前言いましたよね。

難行苦行で仕事をするのはやめなさい。仕事は喜びをもってしなさい。
愛ですよ。喜びは愛し合う者たちの中にある。仲間を愛し合う愛、人類を愛する愛、そしてパートナーを愛する愛、ね。

動物を愛する愛、芸術を愛する愛。
すべての中に愛が宿るのです。
そうしたときに、ウキウキとした喜びの中で仕事ができるのです。
あなた方はどうですか。
辛い勉強をするとき、時間が流れるのがすごく長いでしょう。
残業でいやな仕事をやらされるとき、長くていやでしょう。

人というのはそういうものです。
喜びをもって仕事をしたなら、それは少しも苦しいものではない。
義務でもなんでもなくなります。
喜びの中で仕事をするのです。
それの根源は何かといったら、「愛」なのです。

高橋信次、エル・ランティという方は、人類を救うのが大好きな方です。
本来はもっともっと上に行けるのに、行きたくないといって行かないから、いつまでも親分でいるのですがね。
あの方は、それはもう、人類を救うのが大好き。人間大好きです。
溢れんばかりのエネルギーはどこから出てくるのか。

人類を愛してやまない、愛が湧き上がってくる方なのです。
だから疲れないのです。
どこまでいっても疲れず仕事をしています。
天上界に帰ってきても、精力的に仕事をしているのです。
僕らが、こんなこともするのかと思うような仕事まで、率先してこなす、エル・ランティという方です。

あなた方には、高橋信次、といった方がピンとくるのかな。
でも、僕たちの間では意識体としてはエル・ランティなのです。
エル・ランティという方は、そういう方なのです。
今の仕事を少しも、使命や、重圧や、義務でなく、ご自分の命そのものを、人類に対して救っていく。
それが、楽しくて楽しくてたまらない。
それがあの方のお仕事であり、愛の究極の姿、生きる喜びだからこそ、不滅のエネルギーを放ちながら、あれだけの偉大なる仕事を、次から次へとこなせるのです。
それゆえに、天上界の諸霊たちの尊敬、敬意を受けているのです。

そのような喜びを、あなた方は、高橋信次という方を身近で知り、あの方の個性を知ることができた、数少ない幸せな方がたです。
高橋信次が伝えた八正道だけを真似るのではなくてね、あの方の個性そのものを学んでください。
疲れを知らず、人類を救うことにただただ喜びをもって、嬉々としていつも仕事をする。
それが、エル・ランティです。
神の仕事とは、あのようにするものです。それを、あなた方は学んでいただきたい。

エル・ランティのその姿そのものが、神の子として、見習うべき模範的な姿です。
あなた方が、高橋信次の弟子であると思うなら、その姿を真似て、あなた方の命を、個性を通して、少しでもエル・ランティのように、人類のため、神の愛に報いるために仕事をしてください。
不滅の愛をまわりに発散して生きる姿を見習っていく、それでこそ高橋信次の弟子であると、高橋信次を師と呼ぶ資格があるのではないかと、僕はそう思うのです。

だから、今世のの法、数々のことが、最終段階として地球系神理を統合するために、難しい高度なものが次から次へと降りています。
だから、難しいこともあるでしょう。でも、ひとつひとつ順番に降ろしていますから、ひとつたりといえども、なくていいものなどないということを考えて、ひとつひとつ学んでほしいと思います。

そして、僕たちの言葉を聴いた者として、難行苦行じゃなくて、喜びをもって、感謝をもって、あとですばらしい思い出として語り合うことができるような、そういう仕事を刻んで生きてきてほしい。
そして、僕たちの世界に帰ってきてほしい。
そうしたら、僕たちは、拍手をもってあなた方を迎え入れようと待っているのだと、そのために、どうか僕たちの手足として、がんばっていただきたいと、天上界の諸霊、一丸として、そういう願いを持っているということをお伝えします。

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