Project Eden


マヌ
1.男女の道にも悟りある
直接、星から連れてきた方で、知っていると思うけど、オリオンには、男性系があって、女性系があって、いわゆる第三の性という中性系の方がいらっしゃるんです。だから、芸術関係においては、どっちかと言うと、そういうふうな形で、今でも芸能界とか、芸術の世界で力を発している方は、多いですね。
オリオンから来た場合に、芸術関係の人が今も活躍、されていますけれども、オリオンでは男性系の方と女性体って、さっきお話しした、その悟りがあるんですけど、いわゆる第三の性という中性体の方がやっぱりもうそれは、そういうものとしてあって、逆に芸術を担う意味において、その男女の性を超えて、両方の意識から表現したいというものの中で
そういう形態の人たちがすでに肉体を持って存在していたということは事実です。
その方たちも一緒にやってきましたので、その方たちが今逆に言うと芸術において、世界において、ひじょうに力を発してる人が多いはずなんです。
だから、それが性の混乱という形で、現代の問題になっているように思いますけれども、我々の感覚で言うなら少しもおかしなことではなくて、逆にそういうものからも自由になりたいという、彼らは基本的に結婚しようとか、子孫を残そうとか、そういう衝動は全くないのです。芸術作品が彼らの子どもであり、その人生すべてである。それにおいては何ものにもとらわれない。
そして生活において基本的には、まあ、我々の星では、生活にあまりあくせくしたことは好まなかったという傾向があるので、この者(アマーリエ)の日常生活、とても下手でしょう。
あまり日常的なことは得意ではないように思うんですけれども、あのあまり、そういう修行をしてないのですね。どうなることかと、私は今回見ていたんですけれども、五人の子どもを、何とか育てているように見えるので、皆さん、助けてあげてください。
とても私はあなた方とお目にかかれてうれしく思っています。昨日の夜、皆さん方にごあいさつしようと思って、私は脇にいたんですけれどもね、私の話題が出たので、とてもうれしくなりまして、今回「レムリアの風」ということで、レムリアという名前をいただきましたのでーー。まあ、はっきり言って、私が責任者として今出てくる場ではないのです。
今回の文明においては、イエス・キリスト、モーゼ、エル・ランティ、孔子セラビム、モーゼという方たちが、やっぱり主流になっているということはもう、以前に説明はもうしたと思います。
やっぱりその時代、その時代における文明の責任者というのがあり、色づけ、個性において我々九次元も分担、担当しているということ。そこのところをご理解いただきたいと思います。
私はこの者とたいへん縁が深くて、私がこの女性を私のパートナーとして母星から連れてきた者なのです。ひじょうにいろいろな事態がありまして、長いこと別れていることが多かったのですけども、このたびもう一度、和解をして、これから共に歩んで行きたいと思っています。
まあ、そういう個人的な事情もありますので、あのちょっと、皆さん方には説明ができないところもありますけれども、まあ私はこういう性格ですから、聞かれれば何でも答えます。
私はたいへんロマンチストです。神様の道を歩むということ。神の子として使命を果たしていくということ。それをもっとおおらかな明るい、喜びをもってあなた方にも生きていただきたい、使命を果たしていただきたいというふうに私は思っているんです。
そんなに堅苦しく考えることないんですよ。いいですか。いろんなお酒も体を壊さないように召し上がってください。私も芳醇な酒というのはとても好きですし、豊かな香りのするコーヒーも大好きですし、そういうものを全部九次元が拒否して、何もそういうものを楽しまずに生きていると思ったら
それは大間違いです。
使命を果たす意味での原動力として、多くのものを嗜好し、楽しみながら生きていくという、それは芸術作品においても、音楽においても、そして食べ物においても、味覚、嗅覚、そういうあらゆるものを私はこよなく愛し、楽しんで、たしなんでいるのです。
それにおいて、男女の性においても、どうもこのお坊さんたち、修行者というこのかたち、形態というのは、私にはひどく不自然に思うのですけれども-ー。
先ほど、この者が言っておりましたけれども、オリオンの悟りの中には究極においては、男女の結合ということ、男女の自分が宇宙の創造原理において、創造された時、それは陰陽合体であり、そこから男性系、女性系というものが分かれる。
そして、それが分けられて、女性、男性というものがつくられていって、そして再び相手を見いだしていく。見つけていく過程が修行である、悟りであるというのがオリオンの悟りなのです。
だから最後、私たちが悟っていった時、自分が原初、魂が宇宙の中で創造された時に、自分が切り離されたパートナーを見つけ出せるかどうか。そこが大きな悟りの最後のハードルになってくるということ。その相手を見つけるということ。
だから、ひじょうにある意味自由に、男女の性が大らかに過ごされているように思うかもしれないけれども、それは私から見たら、地球の者たちの方が迷っているようにしか見えないのです。
けっして不自由な、それを拒否するものではないけれども、でもそのかけがえのない相手を見つけた時、他の女性に心惹かれるかと言ったら、それは惹かれる余地もないということ。その意味において男女の倫理というのが確立されていくということ。
法的に縛られるから、ペナルティが課せられるから浮気をしないとか、フリーセックスにならないということではなくて、自分にその気がなくなるということ。それくらい根源的なものが男女の仲にあるということ。
2.陰陽合体が創造の原理
宇宙の創造原理というの、皆さんわかってらっしゃいますか。陽の要因と陰の要因というものが出会い、ビッグバーンがおき、そしてあらゆる生命活動が始まっていくのです。生物においてもそうでしょう。陰陽が合体したところから、創造の原理というのが、すべてが開始されていくのです。それは宇宙の創造の基本、太初の根源的な始まりから、神の中でそれが始まっているのです。
たとえば、磁石がありますね。プラスとマイナスの磁石があります。そこに置いておきます。しばらくそれを置いておきます。しばらく離れすぎている時はわからないです。ある程度近づいてきたらびょ~と、お互いにピシッと付くではないですか。これなんです。これが宇宙の原理なのです。それが男女の分かれている意味であり、そして男女の性の結合なのです。
そこにおいて男女、プラスとマイナスというものが出会っていた時、そこに宇宙においても、すべての創造原理が始まり、地球意識ですらそうやって、この惑星というものが進化発展し、多くの生物、鉱物、動物が繁栄してきた。
あなたたちから見たら、何億年、何万年というふうに見えるかもしれないけど、私たちにして見れば、早送りの画像を見ているように、それは陰陽合体、陰陽合体の中で創造原理が繰り返し、絶え間なくきた結果が、今日の地球という環境をつくってきた、生物をつくってきたということ。それは宇宙の法則なのです。
その宇宙の法則のもとに人間の創造もありました。だから、まあ、我々の中では第三の性というのもありますけれども、これは芸術家たちが希望して、そのような形態をつくってきたということであり、基本形においては男性系、女性系、プラスとマイナスということ、それが出会って創造原理が始まっていくというのが星々の誕生においても、すべてにおいてそこの原理が一貫して流れているのです。
それが我々オリオンにおける宇宙の悟り、宇宙の法であるということなのです。そこまで悟れるということなんです。そこにおいて自分が、前も話したと思いますけど、我々にとっての悟りということ。あなた方の好きな悟りということ。それは難行苦行し、修行しなければということではないのですよ。
いいですか。結果的に最後は、自分に出会っていく。まあ、おのが自分の中に神の子としての神性に、仏性に目覚めるというふうに、まあ地球的に、仏教系的に言うならば、そのように説明しておられると思いますけれども、我々的に言うならば、その根源的な創造原理の時から自分に期待されて神が創造された、己自身の魂、魂の役割と個性に気づいていく旅である。それが私たちに言わせれば、悟りの階梯であるということなのです。
そして、その中で本来は、陰陽は合体したエネルギーなのです。完全系なのです。それが分けられることにより、個人個人の個性というものが、また男性、女性というものがつくられ、そして修行が始まるのです。
でも最後は、そこに帰っていくものなのです。そこが結ばれることによって、大きな、大きな仕事、大きな、大きな子孫繁栄、そういう創造原理というものが働いていくということなのです。
それがひじょうにあなた方から見たら新しい角度かもしれません。で、そこの部分をひじょうに毛嫌いし、そこの部分をひじょうに悪と見なすような傾向性が、どうも今回の悟りの中に色濃く根づいてしまったので、逆に私のような、本来はあまり出る場ではないのですけれども、そのような役割と色づけにおいて、私が出てきたという過程もあるのです。
3.新しい時代の女性の法が求められている
そしてこの者においても、女性の理想像という形態を打ち出してもらいたい。そのような期待がありました。なぜであるならば、今まで女性の法というものが説かれることなく、仏陀においても、イエス・キリストにおいても、モーゼにおいても、女性たちの姿は出てこないのです。
ただただ信徒として、尼僧としてついていった者たちが、女性がどのように修行していいかわからず、男性のまねをする中で苦しみながら、独身の中で、男性原理の法を学ぶというだけのことであったのです。
そんなものは本来女性の悟りとは縁がなく、女性が女性の本来の、先ほど私が言いましたように、女性として深く深く自分を見極めるならば、女性には本来の女性の使命があり、女性の悟りがあるという、その方向性がひじょうに地球的で、今回の文明においては追求されないで終わっているのです。
そしてたまたま、高名な女性たちというのがあると、天照大神であるとか、今世あなた方が知っている限りはですね、彼女は過去では別な形でやってらっしゃいますけれども、まあ、マザー・テレサであるとか、そのような方がたである。卑弥呼様であるとか、あなた方知ってるのは、あとどんな方ですか、聖母マリアですか、そのような方がたであるとか、いるんでしょ。
でも、今の現代の女性たちが、では彼女たちを見てですね、そのようになりたいと思うか。あこがれるか。あこがれはあると思います。清まっていく過程の中で、あのように美しい、汚れなき、聖母マリアのように、あの清らかさのようになりたいとか、天照大神のような、あのような優雅さを持ちたいとかあるでしょう。
でも実際ブランドだのなんだの言っている、今の若い女性たちの心境を見ていて、彼女たちは目に見えない神を信じることすらできない。で、逆に言うと、パートナーに対する、恋人や夫に対する、その謙虚な本来の愛の姿すら失い、その体を単なる快楽と、そして物質を呼ぶ、受け入れるための武器として使うことしかわからない状況に陥っているように思うのです。
目に見えない神ということ。その信仰の世界の美しさ。信仰していく女性の美しさ。そして女性が最後、悟って神に至る道。それをもっと理解させるには、当たり前の生活の中で結婚し、子どもを、夫を持つ者たちがやはり理想的な姿として現代に打ち出していく。そういうことが必要なんだということなのですね。
だからそういう意昧での期待がこの者にはあるし、この者に続く女性たちが今出てきています。日本神道からも出ているし、日本神道以外のところからも出ているんですね。
だからそういう新たな女性像を打ち出すということは、もう尼僧、修道女という、それがイコール神を追求する女性であるということ、その足枷から女性たちは離れなさいとーー。
夫の愛を受け入れ、それを、喜びをもって、日常生活の中に信仰という姿を現していく。もっと自由な立場でーー。
そういう形態の女性の姿というものを、健全なものとして打ち出さなければいけない時期がきていると、そういう期待があるのです。
修行している女性であるからといって、結婚もしないという孤独の中に生きる、汚れないことだけを望んでいくというーー。それでは彼女たちには、少しも悟りはしないし、袋小路の中に自分自らが迷いこんで行っているだけなんです。
だから、我々オリオンの場合は、女性は女性としてものすごく高度に進化を遂げているのです。女性としてあそこまで行けば、「男性になど絶対生まれたくないぞ」というくらいの、彼女たちには自負心もありますし、誇りもありますし、役割もあります。それは、それは美しい、それは、それは愛深き思い、慈愛の思い、そして、ある意味で、とても男性に対して忠誠を誓い、謙虚な姿というのが誇りとともにあるのです。
それは役割の違いということを、ちゃんと彼女たちが認識しているということなのです。その意味においては男女はしっかり同等であるということ。それが確立されているところの悟りを持っているのです。
まあオリオンの悟りをすべてこの地球に出すということは、それは地球神としてのお考えもいろいろありますので、私は差し控えますけれども、私は皆さん方に提示できるのは、そのような星もあるのだということ。そして、今地球の偏った状況の中で、そのような由来を出していくということが、とても意味のあるというふうに、他の九次元の方がたも判断なされたようなので、私かやってきたということもあるのです。
まあゼウス神なんかにおいても、初期のギリシャの文明の中で、解放的な部分を、男女の性においてもひじょうに解放的な、明るく屈託のないものを出したということが、このあいだゼウス神自体から皆さん方に通信があったと思います。私はそういう意味においては、たいへん馬が合うと言うかーー。いやあ修行という、修行という言葉そのものがいやなのですけどもね。
4.美の親善大使のような役割
神の子として生きることはこんなに楽しく、こんなに自由で、こんなに喜びがあり、そして、自らもまわりも共に光り輝いた、神の国をつくり上げていこうーー。そして、我々の意識の中にはもうすでに地球ということだけではなく、宇宙そのものを神の宮として素晴らしいものを広げていこうと、美の親善大使のような役割を持っているのが、オリオンの人びとであるということなのです。
だから私たちから見たら、さきほどおっしゃっていましたけど、未開の地という感じの地球から、これから地球としての文明をつくるから、という要請を私は受けたのです。
そしてまた、私もひじょうにエネルギッシュにやる気もありましたので、あなた方のご存知のように、マイトレーヤーとかクートフーミーという方たちといっしょに、分担して多くの者たちをこの地球に運んで来た。そして一つの地球という新たな神の宮ができる時に、美という観点でこの地球を彩って、潤い豊かな芸術文化というものをつくって、使命を果たそうじゃないかという、固い、固い決意のもとに、はるか昔にやって来た者なのです。
知性を代表したり、理性とか礼節とか、それぞれ各星、みなさん来た星によって、それぞれの使命があるのです。その部署があるのです。
まあ、あなた方わからないでしょうが、神の体と思えば、目のところがあり、鼻のところがあり、耳がありという、脳のところがありというように、星々においてもまたその使命、役割、個性づけというのがあるんです。地球においてもあるのです。
だからそういう意味においては、美を司る星のところからやって来たという私たちの役割、それはとても自由を愛しているということ。いいんですよ、さまざまな嗜好品をこよなく愛するという、そういう意味においては、レムリアのほうが数段上でありましたし
スパイスにおいても何においても、みんなとても洗練された、ひじょうに高度に発達した、そのようなものをたしなんでいたということ。
芸術においても、ひじょうに高度な感性的なものをたしなんでいたということ。音楽でもですね、あります。だから言語を超えてそういうものが今、打ち出されるということ、それはちょっと頭でっかちになり過ぎたあとの、一つの処方篭としては有意義かな、という気持ちもあります。
でも忘れないでください。私は毎回出るのではなく、補佐をするために今回、この者の脇にこうやってきておりますので、一つの雰囲気として打ち出すことは、協力しますけど、基本はエル・ランティが今主導権を握られておられます。
そして、イエス・キリストであり、モーゼであり、ゼウス神であり、セラビム孔子であり、その方たちが責任を持たれてる文明であるということ。そこの位置づけだけはけっして皆さん方、お間違えにならないようにしていただきたいのです。あくまで彩りとして私が応援に来ているということ。主流はあちらの神々であるということ。そこをお間違えにならないようにしていただきたいのです。
5.使命は楽しく果たすもの
高橋信次、エル・ランティという方は、今総責任者で出られているのはわかります。昨日の夜、話題になっておりましたけれども、確かに高橋信次氏というのも、近年肉体を持たれて、ファンもひじょうに多いのもよくわかるんですけれども、大きな計画の中におかれまして、まあ、高橋信次という方も大事ですけれども、エル・ランティという意識が総責任者をやっております。
エル・ランティの指揮のもとに、イエス・キリスト、モーゼというーー、モーゼは今頑張っているんですよ、皆さん。魔軍がどれだけあなた方に追っているかということを考えた時に、モーゼがものすごい勢いで護り、ミカエルが護っていなかったら、あなた方はとっくにもう殺されている状況にある中で、モーゼたちが必死で頑張ってきている。そして、この救世の計画の大号令をかける。そういう役割が彼らにはありますので、何て言うのですか、檄を飛ばす役は彼らですので、彼らをもっと聞いてあげてほしいと思います。
もっともっと多くの方、孔子様系の方がおいでになられ、今、孔子はちょっと、留守にしておりますけれども、出ておりますのでーー。けれども、他の神々もたくさんおられますので、そういう方たちを均等に出しながら、あなた方の使命というものを、けっして全体の中での自分たちの位置づけというのを、個人的な興味の中で見失わないように、それだけは再三申し上げておきます。どうもその傾向に偏り過ぎるがあまりに、それで内部分裂が起きているように思うのです。
私はまあ、自由人ですので、「去る者は追わず」という方針もございます。自分から嫌で、出て行くものであるのならば、追わないということもありますので、その使命感において、どうしてもやりたいという気持ちがあるならば、必ずや戻って来るはずなのです。その者に対しては、追わなくていいのです。
それよりも、新たに出会う人たち、すでに出会いを待っている方がたに、気持ちを集中して、出会っていっていただきたい。ここに呼び集めていただきたい。そのように思うのです。
これから先のことがとても楽しみです。私はとてもとても楽しみにしておりますので、皆さん方もそのように、こう、しかめっ面をなさったり、辛気面をするのではなく、「使命は楽しく果たすものであるのだ」と、「仕事は楽しくしていくものであるのだ」と、いつもこの者にも言っているのですけども、どうも苦しみのほうが優先しているようにも思えるのです。
このような美しい場所で、このように、まあ温泉を楽しみ、昨日のようにおいしい物を食べながら、そういうバランス感覚を失うことなく
この残りの残された使命を果たしていただきたいと思うのです。
どうしてもすべての感覚を、すべてのこの五感の喜びを拒否して、おいしい物を食べたら、罰が当たるのではないか、お酒を飲んだら罰が当たるのではないかという、そのようなことを感じます。そうすると仕事においても、人格においても、いびつなものが出てきますので、それはいいのです。そのようなものは、神が用意されて、あなた方にひとつの喜びとして、ひとつの仕事をしていく上での励みとして、神が与えられた慈悲であられます。
ですから、それはその体を壊さない範囲の中で、たしなまれ、原動力となされ、本来、真に価値のある仕事を行っていかれる、そちらのほうにこそ意味があるのだということ。
6.過去世の名前は出さない
過去世のことにあまりこだわりすぎぬこと。
多くの、そのような余分な知識ということは、逆に、あとで正しい仕事をしようとする時の足かせになることのほうが、私たちは見ていて多いから、あまりそういうことを言うことを好まないのです。
いいのです。今世生まれた名前、この方アマーリエであって仕事をしてこそ意味があるのです。過去世だれであったということに縛られることはないのです。ただ、たまたま過去世はあまり言いませんけど、この人に対しては、呼びかけがあったということは、その自分の使命の役割において、その名前が有効に、具体的に表す手段であるために、その呼びかけが行われたということ。
あなた方個人、個人においては、その過去世の名前を出したとて、それが、じゃあプラスに働くかといったならば、それはあまりプラスに働かないことが多いのです。下手に逆に、自分の中でつまらぬ自尊心をつくり出して、逆に迷っていくきっかけになることが多いし、言ったとて、名前が別に残ってなければ、残ってないで妙にがっかりされてもまた、私たちは困るのです。
あなた方が名前を知らなくたって、私たちの文明の中では素晴らしい力を発揮された、力ある方がたであるから今ここにいらっしゃるのに
有名でなかったというだけで自分を過小評価されたりしてもまた困るのです。だから言わないということに、基本的に我々は守護・指導霊のほうに指導しております。
言うべきことではない。そんなことは必要ないことであるということで、そういう余分な過去世の知識、情報は、我々も出さないということを、皆言っておりますので、やはり、わきまえて言わないことも多いのです。言えないのではなくて、言ってもあなた方のためにならないことは、申し上げないのです。
よろしいですね。そこのところを勘違いなさらず、ここにいらっしゃるだけで素晴らしい、過去世キャリアのあった方がたであるという自信をお持ちになってください。
7.身の丈に応じて人生を一生懸命生きること
力のない者はここにはいられなくなるのです。それは今回の例を見ても、おわかりになると思いますけれども、やはり役不足の者はいられなくなるという、そういうものがあるのです。
だから、深追いをしなくていいのです。それは、その状況の中で、なぜそのようになったかを、彼らは彼らなりに反省をし、そして今の力量で背伸びしないところで生きていくということも、彼らの幸せになるのです。この仕事をするということは、たいへんな危険をはらんでいるということ、今回皆さん、ご存知、わかられたと思うのです。
力がなくて、親が、お金があるから、裏口入学というのが今、ありますよね。それでまあ、裏口入学はないと思いますけど、東大に無理やり親のお金で入ったとする。そこに入って、じゃあ卒業できるかというと、医学部とかはあるみたいですね、歯学部とかは、そういう形態が多少残っているかもしれませんね。別にあなたがそうだと言ってるわけではないですよ、誤解のないように。
あのう、東大は違いますね。国立だということ、私も聞いて知っております。そういう医学部とかねえ、そういうことがある。で、無理に入って、じゃそこに入って幸せかということ。ついて行けずに国家試験を何度も落ち、結果的に医者になれずに去って行く者たち、たくさんいるではないですか。そのような者が、無理やりもし、万が一ぎりぎりで医者になったとして、それが幸せであるかということ。それはけっしてそんなことはないのです。
身の丈に応じて、できる限りの人生を、一生懸命生きることにこそ意義があるのであって、何が何でも高い水準にみんなを入れればいい
幸せであるということではないのです。だんだん苦しくなるのです。自分が理解を超えた、理解の範囲を超えたことが起きてきた時に、いちいち混乱してくることになるのです。
それは魂の力である、悟りの力でもあって、あなた方はこのように話がわかることにおいては、過去世の蓄積があるということ。すでにその段階、初歩の段階を乗り越えているということ。それに自信を持っていただきたい。過去世の名前ではなく、自信を持っていただきたい。過去世の名前ではなく、自信を持っていただきたい。
ねえ、飯島さん。あなたも自信を持っていただきたい。さっき、そのように守護霊の者が申していたと思います。あなたが帰れば素晴らしい方です。高い所にお帰りになる方なんです。最後の締めくくりとして、過去世のお名前をけがさないように、最後の仕事を果たしていただきたいと、私は思っているのです。
神々の中で裁きはありません。すべてが慈悲の、愛の中で、みんな見守っているのです。だから仲間がいる。自分から独りになることはないのです。あなたに言っておきます。無理に独りになることはないのです。あなたは独りになる環境を自分でつくっているということに、もっと気づかねばなりません。多くの仲間がいるのです。多くの人びとと一緒に励まし合って、みんなで群れるのではなく、手に手を取り合って、生きて仕事を果たしていくということ。それはあなたが認めない限り、あなたは孤独の中に入っていくという現状をつくり出してしまうということ。それを守護霊の者が言っていたのだと思うのです。
長くなりました。
でも、私はとてもうれしくて、「レムリアの風」という、この名前をいただいた段階で、皆さんにごあいさつをしたくて、昨日からスタンバイしておりました。私に声がかかり、ひじょうに好感を持って受け入れていただけたことを、とても光栄に思っております。私は今回の文明では出ておりませんので、その個性としては、知られていない場合が多いですけれども、ひじょうに気さくですからね。いつでもお呼びください。
今日はありがとうございました。