Project Eden

出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)
(1871年-1948年)
明治時代に出口ナオが創始した大本教の教義を整備した実質的な教祖。戦前の日本において有数の巨大教団に発展するが、その過激な終末論により、2度にわたる政府弾圧を受け、ほぼ壊滅的な打撃を受けた。
なお、大本教は、日露戦争の立役者である海軍参謀秋山真之が一時入信したほか、合氣道開祖の植芝盛平、後の「生長の家」開祖谷口雅春らを輩出している。出口王仁三郎以前の過去世として、驚異的な暗誦力により古事記の編纂に重要な役割を演じた、稗田阿礼としても転生している。
役小角同様、裏神道系の神に属するが、その豪放磊落な性格は人気を博し、K会時代に出版された霊示集も人気があったほか、今回のレムリア・ルネッサンスにおける霊言集においても、「間違わないことばかりを恐れて、ケチくさい小さな器になるな」「自己限定をせず、神の子としての力と可能性を信じて、自由にのびのびと、愛深く、おおらかに生きよ」と豪快に語りかけている。

1.大物として、器の大きな、魅力的な男として輝け
出口王仁三郎: このたびは、国常立之神(くにとこたちのかみ)がお出になられ、そなたたちにとっては余りある名誉の中で、霊言を受けることができたことを幸せに思うがよいぞ。
ついでにわしも出て来た。そなたたちに祝福しようと思って出て来たのじゃ。わしの世界の中において、最高位にあられる神であられるということ。その方の指導を受けられるということが、どれだけ幸せなことであるか、そなたたちはほんとうにわかっておるかのう?
わしが出て来ただけでも、そなたたちは目が潰れんがばかりの栄誉に浴しているということを
わかっておらぬようだが、どうやらここではあまり歓迎されないのであるが、わしは他のところに行くと、大人気な指導霊であるという、神様であるということを、そなたたちも、もう少し、ちと理解しなくてはいかんぞよ。
そなたたちが負っている、この使命というものが、これからやっと具体化していくということ。今までは時を待っていたということ。それゆえに我らは長いこと待たされていた。荒神一同、最初の頃、あいさつに出たことはあれども、そなたたちに、このように指導を直接する段階にきてはいなかったから、あまり長いことしゃべることは許されなかったのである。
しかし、喜ばしきことに、無事に幾多の霊言が降り、法の中核が降りて、そなたたちが具体的な行動をする段階にきたので、そなたたちの使命が、やっと我らが指導のもとに回ってきたということ。そのことを我はとてもうれしく思い、国常立之神とともに喜んでいる。
そなたたちは、見ているとあまりにも自己限定が多いということを、わしは思う。何をそんなに恐れておるのだ。なんと言われようとよいではないか。女好きと言われようと、酒飲みと言われようと、わしのような、素晴らしい境地に達している者もいるのである。
そうやって、「女に触ったから地獄に堕ちる」とか、「酒を飲んだから道を迷う」とか、そのようなつまらないものを考えるから、ほんとうの意昧での大きな器の仕事ができないのである。大物という者はつまらないことは詮索せず、大きな大目標だけに焦点を据えて、自ら研さんしたことを命がけをもってやる者のことを言うのだぞ。
そなたたちの中で、そのような大きな器の者がどれほどおるかのう。おなごが好きでなけりや、この世は少しも楽しくない。酒も飲めなければ、喜びも半減するであろう。そういうものをすべての活力と変えて、そなたたちは命がけになってこの使命を果たしていく。そのぐらいの度胸とおおらかさを持て。
先ほど、国常立之神が言われたような、そなたたちの使命というもの、それを繰り返す気は毛頭ないが、わしはそなたたちに、「もっと大物として、器の大きな、魅力的な男として輝け」と言いたいんじゃ。
おなごが、キャーキャー騒がんような男でどうする? 酒の一杯や二杯、一升瓶の一本ぐらい飲めないでどうする? そんなことで地獄に堕ちるなどと思ってるような輩がいるから、この地上においてろくな仕事ができぬのじゃ。そのようなことを言うからわしは、「裏に行っとけ」とか言われてしまうのじゃがな。
だけども、そのような力も必要だということじゃ。それがそなたたちの心の垣根を取り払い、鎖を取り払って、そなたたちの魂の中にある本質的な力というのを開花する。そのような力となっていく、そのような突破口となっていくということをわしは言いたいのじゃ。
自己限定がある限り、自分はこうあるべし、これはできないと思っている限りは、ほんとうにその力を使いこなすことはできぬ。そこに、ひょっとしたら素晴らしい力が宿っているかも知れんぞ。でも、それができないと決めてしまったら、永久に出ないのじゃ。
あらゆる方向の扉を開けておけ。あらゆる自分に対する可能性を開けておけ。そして、ひるむことなく、そして、失敗を恐れることなく、それを味わいながら楽しみながら仕事をしていくのじゃ。
大きな目標さえ、自分が何をしなければいけないかさえわかっていれば、そなたたちが道を誤ることはなかろう。数々の失敗があるが、あまりにも細かいことに、教条主義的なことにこだわり過ぎて、人間としてのおおらかさを、神の子としての愛の深さという素晴らしさを、寛容さを見失ったときに、釈迦教団は堕ちていったのではなかろうか。
自らを偉しとし、知天狗になったということはそういうこと。知だけがすべての上に立ち、知の階段を登ることだけが、すべての悟りの、究極の唯一の道であるとおごり高ぶったとき、人はおおらかさをなくす。
縛りをいっぱいつけ、自らのあらゆる可能性を、自己限定の鎖で縛り上げてしまう。だから、みなが同じような型通りのやり方でしか、修行という形態の中で悟りを上がってはいけぬ。
でも、あらゆる道があるということ。その個性の分だけあらゆる階段があり、道があるということをそなたたちが理解するのであるのなら、いくらでも道は開かれようぞ。
魔が来ても、こっちから捕まえようと思ったら、あちらからするり、あっちから捕まえようとしたら、こちらからぬらり、そのように出てみよ。それぐらいの変幻自在の思いを持ってみよ。
そうすれば、そなたたちはいくらでも魔に引き倒されることはない。あまりにも頑なであり、あまりにも一本気であり、あまりにもひとつの方向性しか、柔軟性の中に持っていなかったがゆえに、釈迦教団の今回の救世事業は倒れたのである。もっとおおらかに、もっと寛容さを持って、人の数分だけ可能性があり、人の数分だけ素晴らしさがある。入り口がある。
自らにおいてもそうであると思うのならば、人に対する裁き心もなくなるであろう。裏神であるとか、表であるとか、仏教系であるとか、キリスト教系であるとか、はたまた男が優秀であり、おなごは優秀でないとか、そんなつまらぬものに何ゆえに縛られるかというと、登り口がひとつしかないから、ひとつの方向しかないから、そなたたちは自己限定をするのである。
2.自らの力を限定せず、恐れず、自分の力を出していきなさい
アマーリエ: (Tに対して)気を抜きなさい。気を抜きなさい。そうそうそう、放って、放って、放って。そうです。そうです。深呼吸して。はーい、いいですよ。気を上に逃がしてください。危ないですよ。強いですからね、荒神さん。はい。そうです、はい。結構です。上にあげてくださいね、気をね。はい。いいですよ。溜めないでください。止めないでください。
出口王仁三郎: この者も、裏の自らの力を使いこなせるようになるまでは、まだ修行が必要と見る。だけれども、ここにいて自らの蓄えてきた力を発揮せねば、今まで何ゆえの修行であったかということも言えるであろう。
この者も、そして、同時に来た者たちにおいても、自らの力を限定することなく、恐れることなく、自分の力を出していきなさい。そのような力をもって神の恩に報いる道もあるということ。この救世の事業に役立つ力も、扉もあるということ。
それを、自分のすべての可能性を受け入れ、認め、そして許して、自らの弱さもともに許して、それを受け入れるということ。それをもってこそ、トータルな力でもって、神のために使命を果たすことができるという、そのおおらかさをそなたたちは学ばねばならぬ。
今回のことを見ていると、やはりおおらかさというか、寛容さがないがゆえに、このような窮屈な思いが出てきている。裁き心が出てきている。今回、裁いていった者たちの心を見よ。やはり知により、仏陀光線のような者、法だけの道しか道がないという、そのような思いに縛られているから、ほかの価値観を、表現を受け入れられないのであろう?
そんな狭い、ケツの穴の小さい男でどうするのじゃ。男たちが力を合わせて、ほんとうの意味で地球規模の救世の大事業をするということ。そのことをそなたたちは心に決めよ。それでこそ男じゃろう。それでこそ男としての本懐というものがあるのだ。
そなたたちの中に、おおらかな、海より広い、山より大きい、空のように広大な、そのような大きな器の瓦落な気持ちというものを持てば、その心の広さの中に、全人類の弱さも、悲しさも、喜びも包み込むことができるであろう。受け入れることができるであろう。
自ら狭い器の者は、他者の喜びや、悲しみや、喜びを受け入れる余裕がどこにあるのだ。ほんとうの意昧でのおおらかさというものは、愛の深さであり広さであるということ。それを学ばねばならぬ。
それがわからないようでは、そなたたちの中には悟りはない。悟りから程遠いということ。そなたたちの気持ちの中に迷いがあるということは、まだまだ自らが思う信仰とか、神という形態について、こうあらねばならぬという思いが強いから、わしのように仙女にキャーキャーされるような者が出て来て、そなたたちよりもよっぽど霊格の高いところにいる者として、こうやって天上界でものさばっていられるということを、もう一度考えよ。
小さなことで自己限定している坊さんたちのことを思うと、人生を何も楽しんでおらぬ、この神がおつくりになった、この宇宙の素晴らしさを少しも味わっておらぬ者たちであると、不潤に思うのである。
3.宇宙の素晴らしさを味わい尽くそうではないか
神の国は素晴らしい。この宇宙は素晴らしい。それを味おうて、味おうて、味わい尽くそうではないか。
神の世界の素晴らしさは尽きることなく、おなごの美しさも尽きることなく、わしは今回、日本神道だけではないおなごがいるということを知って、すっかりファンになったのだが。仙女たちも美しいが、金髪の女もいいぞ。日本酒もうまいが、たまには赤ワインもいいぞ。
わしにも注げ。そなたたちの中で味おうている美しさ、味おうている多様さというものを、もっともっと前面から受け入れ、赤ワインを飲んでいる者たちも祝福できるような男でなくてどうするのじゃ。そうであろう?
黒髪の女も美しいが、金髪の女も美しいと思うことにロマンというものがある。神はなぜこのように素晴らしい幾多の女性たちをつくりたもうたか? そのような女性を味わうということかも知れぬ。そのようなものを通して、数々の美しいロマンスと出会って、素晴らしい男としての仕事をしろということかも知れぬ。
違うという声もあるが、でも、わしはそれを活力として仕事をしていきたいぞ。モテて何が悪い。そなたたちも、そのぐらいの気概を持て。僧侶たちは、どうもおなごに触ると、それだけで地獄まっしぐらと思うようだが、そんなことは少しもない。おなごの美しさを味わわなくて、何がおなごを愛するという、愛というものを語ることができようぞ。
酒のおいしさを味わわなくて、人生の喜びを語る資格があるか。まあ、わしの言うことはちと、ちょっと極端なのは知っておるが、でもそのぐらいの気持ちでいけ。
そんなことを言うわしが下に堕ちてはおらぬということ。それを見、聞いただけで、そなたたちは相当、安心したのであろう。しないか? わしでも下には堕ちてはおらぬということ。
堕ちるのは、逆に間違わないように、間違わないように、一生懸命、隠れたところで自分の欲望を募らせた、高位高官の僧侶たちのほうが下に堕ちておるのだぞ。一見、大僧正と呼ばれて、一見、素晴らしい僧侶であると、仏弟子であると言われて、裏にドロドロの思いをため込んで、醜い思いを膨らませてしまった、そのようなへき積した思いで、下に引きずり降ろされている、元宗教家というのがどれだけ多いことか。
不自然な形で自らを、「宗教の指導者とはこうあるべし」と思って、自らを縛りつけたその結果の反作用で、逆に宗教家が下に堕ちる場合も多いのである。当たり前のことは当たり前として楽しむ。神の世界の美しさを、多様さを味おうてこそ、この地上を幸せにする機会もあるということ。
一般庶民の者たちが女を恋い慕い、男を恋い慕い、酒を飲み、おいしいものを食べともに家庭生活をしていく。そして、美しい音色の音楽に聞き惚れ、美しい芝居や、大自然の中で、喜んで遊んで戯れる子どもの姿に感動する。そういう姿を理解できなくて、そういうものを共感できなくて、どうやって衆生の心をつかみ、多くの神の子たちを幸せにする方法論を考えつくというのじゃ。
自分だけが悟りすませ、自分だけは問違いのないように、自分だけは堕ちないようにという思いが、清まり過ぎた潔癖さというものをつくって、一般衆生は男女まみえるが、自分だけはまみえず、自分だけは堕ちないという、自分たちだけは高いところに、一段上の境地において、他の衆生たちを指導してやらねばならぬという思いそのものに、もうすでにおごり高ぶりがあるということ。
みんなと一緒の思いの中で、分かち合い、共感し合い、彼らが望む、衆生たちが喜ぶ、その喜びをほんとうに味わってこそ、分かち合い、ともに彼らが幸せになる手だての中で、使命を果たすことができるのだ。彼らを幸せにしていく道も考えつくというものじゃ。
自分だけが安全なところにいて、他の者たちが不幸になることより、自分だけが安全になることを思っていて、神の使者としての使命なんぞ、仕事の場所なぞはないということ。
それをわしは極端な形かも知れぬが、こういう形で、そなたたちに見せている。だから、わしのような者が、このようなふざけたことを言う者が、下には堕ちていないということ。
そのことを思ったのなら、そなたたちはわしに比べたら、まだまだ放縦生活はしてはおらんであろう。だったらば、喜んで前面から受け入れ、自分を許し受け入れ、そして、多くの人びとを幸せにしていく活力とせよ。
そして、そなたたちが昧おうた、その人間の煩悩としての力をもって、多くの者たちがほんとうに幸せになるには、どのような道がいちばん幸せなのかということを、彼らとともに手を取りおうて考えていきなさい。それこそがほんとうに人を救うということ。神の子を幸せにしていく救世の事業の担い手となれるということ。わしはそう思うぞ。
だから、これからも、わしをこれから呼んでほしい。もう嫌がらずに、悪さはせぬから呼んでほしい。そなたたちの中で、わしもこのように酒を一献傾けさせていただきたいと思う。
今まで竜馬と一緒に飲んでばっかりいて、時を待っていたのだが、竜馬もやにわに人気が出てきて、本なぞ出してもらうようなことを言っておったが、わしの本は出ぬかなあ? これからいくらでも連載で、出口王仁三朗霊示集、以前は出してもらってなかなか人気があったであろう。わしもこれからは連続して出て
レムリア版で霊言集を一冊出してもらってもかまわん。いくらでも協力しよう。だから呼んでほしいと思う。
我ら裏神道、荒神一同、そなたたちの成功を、れからの仕事の門出を祝い、今日は参上した。
では、そなたたちと一緒に乾杯をしよう。そなたたち、頑張ってほしい、そなたにはーー。
乾杯。頑張ってほしい。うまい酒と、いい女はいいのう。
ではわしはこれにて失礼しよう。
一同: ありがとうございました。