Project Eden

役小角(えんのおづの)
飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した修験道の開祖。山岳信仰系の神道に大乗仏教の教えを加えて、修験道を創設した。鬼神を使役できるほどの絶大な法力を備えた天才呪術者で、前鬼、後鬼を従えた図像が有名である。
役小角以前の過去世として、古事記に神代7代の最初の神で、荒神として有名な国常立乃神としても転生している。
第一、第ニの計画までは裏神道に属する神として敬遠されてきたが、今回のもうあとがない第三の計画においては、地球をシフトアップさせるため、もはや表も裏もなく日本神道の神々が世界中の神々とも連携し、全総力を結集して警護にあたっている。
霊言では、思わず襟を正し、背筋がピンとなるような厳しさの中に深い愛を感じさせる神で、神理普及に際しては、「常に大局を見極め、ひとりでも多くの神の子たちを救うために命を捧げてこそ愛の使者と言える」と、救世の熱き思いをほとばしらせて、語りかけてくる。

1.これからの天上界の計画は、地上に光をもたらし法を伝えること
~ 役小角は、国常立之神としても転生しています。 ~
役小角: 参上したてまつろう。我は役小角。そなたたちを守護し、指導するために今日は参った。
そなたたちは、そなたたちの計画の重大性に少しも気づくことなく、おめおめと時を過ごしていることを、そして、自らに甘いことを肝に銘じ、今後一切、少しの精進も怠ることなく、そなたたちの使命を果たし、本懐を遂げることを、ここに誓うことを、私に今日約束しなさい。
これよりのち、天上の神のご計画は地上に光をもたらし、法を伝えんがためにのみこれから存在するということを、その時がきたることをそなたたちはわきまえなさい。
我は役小角。そなたたちを魔より護り、道なき道を開き、国を立て、そして、この地上を神のお国にするために、神の御心に沿う国にするために、御国にするために、我らはその力を結集し、この地上の使命を果たさんことを、地上と天界とが一体になりて、これよりのち、そなたたちは我々の指導を受けて、この地上の隅々にいたる国民たちに、神の御言葉を、光を伝えなくてはならぬ。
我らが力を最大限に発し、人びとの心に届かんために力を果たすことを、指導することを、我は今日ここに誓おう。
この者(T)生まれし時より、我は指導霊としてこの者の後ろにいた。この者は我と縁近き者。我の導きの中で法を学び、法力を学び、今まで用意をしてきた。されども、この者が法を学べども、我らが一門の者によりて、そなたはそなたの使命を果たさねばならない。頭ばかり、法ばかり知っているからといって、いざとなると怖気づくような、弱き者、うつけ者にこの救世の事業を任していくことはできぬ。
そなたはそなたの力を持って、全身全霊の力を持ちて、道を切り開け。それだけの力と、それだけの法と、それだけのパーニャパラミタを、もうすでに学んでいるはず。そのために今世、力を持ったということを知りなさい。
そなたは、「これから、明日のことを、何をするかわからぬ」と言うけれど、私はそなたに、ここのところ力を、本来の力をもたらすために、気づかせるために指導している。他の者の指導などはいらぬ。私の、わしの声だけを聞きなさい。
そして、本来の力を出し、法と法力と、すべてが一体になりてより、この地上に救世の大事業が具現されていくということを思いなさい。法だけが入って、少しの危機感もない、少しも行動力もない者たちが、ただただ法だけを語るからといって、地上の隅々まで法が語り伝えられるなどと思う者は笑止千万。わしの思いから見たらば、「何を甘いことを言っておるか」と、怒りそのものである。
我らが世界にも、表と裏というのがあり、我らはとても屈強な中において、阻害されたる思いの中にいた。しかし、今は表も裏も一体となり、そして、日本神道とか、そういう枠を超えて、仏教もすべてを超えて、天上界は一体となりて、この天上界から降ろされたる救世の大事業の、クライマックスの中において力を発揮しようとしている。そなたは今、その中心にいるということをわきまえなさい。
2.自らの才能に気づき、その力を出しなさい
されど、そなたの欠点を、今言っておく。そなたは今まで法よりも法力のほうが強く、空回りし、一途に走り過ぎ、ぶち壊してくるということをしてしまった。
我らが荒神、国常立之神にしても、我らはどうしても法力のほうが先に出て、周りの者との強調というものを欠いて、創造するよりも破壊に回ってしまうことが多かったかも知れぬ。今それを、法をじっくりと学ぶことによりて、両輪の中で事業をなしていくということを学んでいる。
今そなたにおいても卒業試験だと思いなさい。法を学び、高橋信次、エル・ランティにより法を学び
数々の宗教遍歴の中により心の教えはたっぷりともう学んだであろう。
しかれども、そなたの本来の力というのは、この地上において道なきところに道をつくり、国を建てるという意味において、国なきところに国をつくり上げている、神の御国を建設していくという、その意味がある。
我が使命と、そなたの使命を同じだと思いなさい。神の国をこの地上に建立する、建国していくということ。それをもって国常立之神という名前がある。使命がある。役割がある。そなたにおいても我と同じ使命であるということ。神の国というのはそういう意味である。今まで多くの者たちが躊躇してきたことを、そなたは躊躇することなく荒神の一神として、役割としてやりなさい。
今まで、そなたに多くの法を学ばせてきて、その方向に導いてきたのも我なり。我はそなたの守護霊にあらず。指導霊にあるということを思いなさい。
そして、これより後、そなたが死ぬ時まで、最後の使命成就の時に入りたることを思い、そなたの使命の中において、あらん限りの努力をし、そして、己の才能を最大限に発揮し、このレムリアのために、救世の大事業のために、神の御ために、そなたは力を尽くし、思いを尽くし、命果てる時まで行動して、行動して、お役に立って帰って参れ。それがわしの弟子としてのそなたに言い渡す使命である。
そなたは我が弟子なり。我が一門の者なり。そなたの力に気づく、そなたの力にまず気づくことをもって、そなたは自分の力を出すのである。力に気づかなければ、才能に気づかなければ、その力を操ることもできぬ。
裏が悪いとか、法力が悪いとかいうことではない。時には法力を使ってしかものが解決できぬこともある。このように初期の団体、道なき道をつくる、フロンティア精神の最初の時においてこそ、我らが力は最大発揮するものなり。
モーゼ神においても同じなり。モーゼ神においても道なき道をつくられ、初期の開拓者としての事業を起こされる方である。
地獄においても、悪霊の悪しき波動の中においても、我らはそのようなものは、ものともせずに歩める者なり。そなたもそのような使命があるということを感じ、そこら辺のちょこざいな悪霊たちに怯えることなく、怖気づくことなく、法を頼りとしてこの使命を最後まで果たしなさい。
そして、これから神の御国を建国するのだ。神の御国を建国していくのだ。そのための一助となり、一筋の光となって、そなたは足跡を残しなさい。そなたの後ろに、裏神、裏神道と呼ばれている荒神一同、すべてがそなたの後ろに、法力と、力と、エネルギーというものをバックアップして、そなたを支えることを、指導することを伝えよう。
そなたにおいて、占いなどというものはひとつの判断材料にすぎぬということ。大事なことは、天上界の神々のお言葉を羅針盤として自らの力を発揮し、この地上の中で具体的になせることをなしてゆけ。
これから方法論において、さまざまな工夫と創意発展ということが必要になる。ただただ力だけで押してもダメな時もある。されど力を発揮することも必要である。
法だけでも、頭で学ぶことだけではなく、我らは体を使って、それを体現していく。道をつけていく、切り開いていくということをもって、荒神と呼ばれている。その力をそなたも出しなさい。その力があることを恥じることはない。
今はこのように最後の救世の土壇場の時である。みんなが自らの力の中に、才能を最大限に発揮することをもってのみしか、この窮状は、追いつめられた状況を打開することはできないのだということを悟りなさい。
3.対局を見極める者だけがこの大計画を実行できる
我らの出番も出てきたということ。裏神道、荒神一同、これからは表面に出て来るであろう。そのような者たちの力を、理屈が通らぬとか、荒々しいとか、無礼であるとか言うような、そのようなうつけ者は放っておけ。そのような者に仏国上、ユ―トピアなどは建立できぬということを伝えてやれ。
頭だけで何ができる。多くの人びとを一人でも救いたいと思うのならば、ほんとうに愛をなしていきたいと思うのならば、我が身を捨てて、この道を切り開け。神のお心のために、命を捧げて仕事をなせ。そのことができぬ者に愛を語る資格はない。愛の使者などとはうつけ者。帰って来て、自分の自らの意識の低さに驚くであろう。そのような者は置いていきなさい。
さっきから聞いているとなぜだ。そなたたちはなぜ、神の仕事のために命がけになろうと思わぬ。仲間を大事に思うことは大事なこと。しかし、人間は大局を見て学ばねばならぬことがある。大局の中において必要なことは何か。そなたたちの一人の仲間を救うことが大事か。全人類を犠牲にしても、一人の仲間を救うことのほうが大事か。
一人の仲間を置いていったとしても、その者は必ずや神の御心の中にいるのならば、御胸の中に抱かれているのであるのなら、いつかは気づいてやって来るであろう。でも、全人類が滅びようとしている、死んでいこうとしている。その時に一人でも多くの者を救っていこうと思わずして、そなたたちに何が愛の使者と言えるのであるか。神の使者と言えるのであるのか。
その大局を見極める境地がそなたたちにはない。なさ過ぎる。そのような安易な小さな友情のようなもので、このような使命が果たせると思うな。その厳しさのない姿に、我はひじょうに立腹しているということを思いなさい。
この者(アマーリエ)もひじょうに怒っているのだけれども、それを表現することをひじょうに躊躇しておられることがよくわかる。だからわしが代わりに、そなたたちに言おう。「何を甘ったれたことを言っているんだ」と言いたい。「何が起きようとしているのか、今そなたたちが、今どのような場所にいるのかということが、ほんとうにわかっているのか」とそなたたちに聞きたい。
我々がどのような思いで、どんな思いで、天上界から通信を送っておられるか。天上界の神々が、どんな思いでそなたたちに期待をして、この使命を預けているかということをーー。どのような思いで九次元の方がたが、ミカエル大天使がどのような思いで頭を下げて、この計画の続行ということをしておられるかという、厳しさがわかっていながら、そなたたちはあのようなうつけ者のために、いつまで時を無駄にしているのかということを我は言いたい。
その厳しさがなくてどうする。大局を見極める者だけがこの大計画を実行できるのである。小さな器の者に限って枝葉末節のことに関わり過ぎているのだ。そのような者を、情を大事にすることは大事であろう。しかし、そなたたちは、大局の中において全人類を、地球を救っていくという使命をも預けられているのである。そのことを思ったなら今、何をせねばならぬか。何を切り捨て、何を実行しなければいけないかということくらい、わかるであろう。その厳しさがわからぬのならば、そのような者はここから去りなさい。そなたたちが去ってもいい。他の者が来るであろう。
まだ時が満ちていない。多くのみかたがやって来る。その者たちが神のために命がけになり、やりたいと思っている者たちがいるのである。頭ばかり、頭でっかちで少しも実行力のない、核心に触れるような、不退転の境地のない者に、ほんとうの意味での力などは出ないということ。人生の力は出ないということ。
ほんとうに学んだことが実行の中で生きてこそ、愛というものは、神理というものは、知恵という形を取ってこの地上に現れいでるということ。
それは自分の命を捨てて、神の御心のままに、一人でも多くの神の子たちのために、この地上を幸せにするために命を張ってこそ、我が身が散ろうとも、この我が身、生身引き裂かれようとも、それは少しの苦もなく、命をかけて、この地上の仕事のために体を張ることができるという、それが我らが生きる道である。
4.ひとりでも多くの人を、魂レベルで救うことが「愛」
そのためにできる限りの力を使う。その時に法力を使うことが悪しきこととか、理屈が通らぬことが悪しきことであるとか、そのような自己限定、そのような、小さな、小さな判断の中において、自らの力を出し惜しみし、他者を愛するという、愛を狭めて何になるというのだ。
そなたたちの思いというのが、ほんとうの意味で知恵になっていないということを、我はとても深く悲しく思う。もし、ほんとうに、これだけの霊言を聴いている者たちであるのならば、体が動いて当たり前であろう。
これだけの神々の期待が自分たちにかかっているのであるのならば、小さな自分など打ち捨てて、自ら行動して当たり前であろう。
覚悟を決めるのにどれだけの時間を使ったというのだ。これから、あとから来る者たちが短い間に覚悟を決めていかねばならぬ。今までと同じことが、いつまでも、百年でも、千年でも続くような思いで、悠長な気持ちでいるから、このようなことが起きるのである。
やる気のない者は置いて行きなさい。
それが愛であるということ。
切り捨てることが愛であるということ。
いつまでも小さな自分に絡んでいることが恥ずかしいことであるということを、ほんとうに正面から受け入れられないような者を連れて行って、その者が逆に不幸になるのをあなた方は見るのか。
この間も、一人、夏に別れた者がいるであろう。ああいう者を無理やり連れて行ったって、そのあと結果的に本人が苦しくなる。そなたたちも歩みを遅くしなくてはいけなくなる。
これからは実行部隊が動く時である。これからは実行できる、やる気のある者たちが集まって来る。呼び集めていく時がやってくる。その時こそ、我ら裏神道、荒神一同が出て来て、道なき道をつける時期が始まっている。
知恵の、法の編纂というのは、仏陀光線の、黄金光線の方がたがしっかりとやってくださっている。そしてその核となるものを、そなたたちは大半つくり上げてきている。
そしたら、それをいかに具体的にし、一人でも多くの人をほんとうの意味で最後、救っていきたい、魂のレベルで救っていけるかと思うことが愛ではないのか。それが愛ではないのか。神の使者としての役割ではないのか。そんな簡単なことがなぜわからぬ。なぜ実行できぬ。なぜ決意できぬのか。それを我に言われなければわからぬのか。
天上界の神々が毎回出られて、じーっとそのことを、言いたいことを我慢されて、数々の叡智をメッセージとして伝えてこられている。誰も荒々しく怒る者はおらぬであろう。だから我が今日来て、そなたたちを叱っていかなければいけないかと思って出て来た。
でもこの思いというものを、必死さというものが、そなたたちの惰性の中でなくなってきているから、そなたたちはもう一度、原点に帰らねばならぬであろう。その気持ちができぬのならば、甘えた根性がある者は去りなさい。構わぬ。この者と、あと一人、二人でもいい。本気でついて来ようと思う者だけが残りなさい。本物しか頂上まで行けぬということを何度も言われているではないか。
その気持ちがなくて、みんなで、なあなあムードで励まし合って、いたわりあって、傷をなめ合っているのかわからぬが、この時期に、一人でも多くの者たちを救いたいという、神々の必死の思いがわかっているにもかかわらず、このような傷をなめ合っているような姿をもって、そなたたちが神の使者というのは笑止千万。我らが世界であるのならば、一発で下のほうに落とされてしまうであろう。
裏を、裏をと言って侮ることなかれ。この力をもっても八次元まで来る者たちもいる。どの道を使ってもよい。その道を使っても九次元まで行かれる方もおられる。そのことをもって、山に登るのに、頂上に登るのには、いかなる道だって可能であるということ。どのような入り口からだって、階段からだって登って行けることを思うのならば、自らに与えられた、神から与えられた才能と個性というものを通して、精一杯、そこから正面から登って行きなさい。自らを光らせて行きなさい。
5.理解できないものから学ぶ姿勢が、自らの器を広げていく
借り物のものを持っても、少しも周りを照らすことにもならなければ、自分自身の力を出すことにもならぬ。道なきときに、これからくる時代の、以前の、このレムリアの初期の時代に、そなたたちが今ここに集うということ。それには意味があるということ。それぞれの役割を持つということをもって、我ら荒神の力も必要であるということを、神々は御計画のうちにあるのである。
今、仏陀光線の、知的に優秀な、日蓮聖人に率いられる優秀な仏門の方がたがおられる。そして、芸術関係の者を通して、一般伝道の方、広げていくための方がたも来ておられる。
それと、我らのように道なきところに道をつけていく、方法論を提示していく、年齢、力で道を切り開いていく者たち、すべてが必要であるということ。どの者が欠けてもダメであるということ。
その中において、方法論において、意見の交流において、さまざまな軋轢もあるであろう。ぶつかり合いもあるであろう。しかし、それを受け入れられぬでどうする。
そのすべての役割を神が期待されて、七色の光の光線を通して、人びとに個性と役割というものを与えられたのではないのか。であるのならば、自分が理解できぬからといって、その者を排斥してどうするのだ。自分が理解できぬものからこそ、自分がないものを学ぶ。その姿勢があってこそ自らの器を広げ、自分自身の中で学びというものが深まるのではないのではないのか。
その謙虚さがないから、自分が持ってることだけが最大であって、最高であるという鎬り高ぶりがあるということを、そなたたちはわからぬか。そのような、自分だけが知の頂点で、知天狗になっているからこそ、このようなことが起きるということ。
小心であるというだけではない。自らの中にうぬぼれがあるからこのような判断をするのであるということ。それがひじょうに隠されているからわからないかも知れない。でも、そのようなおごり高ぶりがあるということ。
自分にはない者たちが、自分にはない素晴らしさを持っている者たちがいるからこそ、神の国というのは成り立っているのである。宇宙というものは構成されているのであるということが認識の中にあれば、他者の違いというものを、意見の違いというものを、互いに学ぼうという歩み寄りがあるはずであり、理解し合おうという意見の交流があるはずである。
すべてが神がおつくりになった素晴らしいものであると、尊重し合う気持ちがあるはずである。そこがないということ。それは自らの、自分だけの世界だけを偉しとする気持ちがある。
それはかつてのORも同じであった。どうしても知に頼る者は、それだけがすべてであり、最上のものであると思って、自らの狭い世界を閉ざしてしまう。最高であると思ってしまう。法力を使う者たちを侮り、軽蔑したような目で見るかも知れぬ。
でも、いつの時代においても、日本武神においてもそうである。先ほど出られたアレキサンドロス大王、マリア・テレジアと呼ばれている、ああいう戦闘系の方がたの力というのは、法力と、我々の言う法力、力というもの、ひじょうに念の力というのは強いものをお持ちである。そのような者たちが常に時代の大きな骨格、国の体制の、政治体制の骨格というものをつくってこられた。
そういうルーツというのがあるのならば、そなたたちがこれから神の国という、大ルネッサンスという、精神活動を通して新たな国を、新たな神の御国を建立するということをもって、建国していくということをもって自らの力を発揮しなさい。躊躇することなく、そして、自分にないものから学びなさい。
6.法が人びとの心に届いてこそ、救世運動は成功する
そなたに前半、法をたくさん、たくさん学ばせたのはそういう意味である。そなたの欠点が出ぬように、なるべく多くの法を学ばせ、そして、ちゃんと知的な判断、法の判断をもって、これからのそなたの本来の力というのを出させるために、我は指導してきたつもりである。
そなたは我が、ひじょうに頼もしい優等生の、我が自慢のできる弟子であると我は思っている。そして、今この席に高橋信次、エル・ランティより呼ばれ、この席に座る栄誉に浴したということを、我が身の最大の幸せと思いなさい。そして、ここでできる限りの恩を返していきなさい。
高橋信次氏に呼ばれたということが、どれだけ栄誉に浴することか。我が指導することがどれだけ栄誉に浴することか。そして、これからのちの第三の計画において、レムリアの、この十二の席のひとつにあなたが座れているということが、どれだけ栄誉に浴するかということを、あなたはまだまだわかっていない。
そして、ここにいる他の者たちにも言いおく。
そなたたちが座っているこの席は永遠ではないかも知れない。そなたたちの心構えが甘く、やる気がなくなった時にはいつでも自ら席を立って出て行きなさい。他の者が来て座るであろう。
十二という数字が決まっている。でも他の者たちがやって来る。そなたたちの中で、もし甘い気持ちがあるのならば、不退転の境地が築けないのであるのならば、他の者に潔く席を譲りなさい。
それぐらい事態はひっ迫している。これが成功するか、失敗するか、まるで成功したような気持ちでそなたたちはいるけれども、全然、成功しているかどうかなんかわからないのである。
今この巫女を通して、この方を通して、我々の言葉を今地上に降ろしている。それにおいては成功しているということ。文書化するということにおいては成功しているということ。
でも、このような知を降ろすということだけであるのならば、高橋信次、エル・ランティが、OR、仏陀が降ろされた法というものも、すでに文書として法としてなっている。書物としてなっている。
それでも曲がった。それでも実行できなかったという、第二の計画までの失敗があるから、逆に法を地上に降ろしたあとに、この地上にどうやってそれを広めていくか、これを伝えていくことが可能かーー。
そして、この本体、レムリアが曲がらずに、そなたたちが最後まで駆け抜けて行くことができるか。それがこれからのほんとうの山場になるということ。ここから間違ったら、また第二の計画までの失敗と同じではないか。
高橋信次はあれだけの素晴らしい法を残された。本を残されたではないか。ORにおいても素晴らしい書籍を残されたではないか。でも残しただけでは世の中は変わらぬ。それをもって人びとの心に届けてこそ、それで国家体制を変えるぐらいの力を持ってこそ、影響力を持ってこそ、この救世運動は成功したというのじゃ。
それをこれから出していくには、一人ひとりの力がどれだけ発揮されていくかということ。その覚悟があるかということ。その方法論を、地上の者として必死に問いかけ、編み出していくということ。いつまでも、いつまでも知識の中で、法悦にひたることだけで、時をむやみに過ごすことなかれ。
今もうすでに、アメリカなどで多くの者たちが犠牲者で命を落としている。これから地球規模の大災害が起きてくる中で、少しでも世界の果てまで、この神理というものを、価値観というものを伝えなかったのならば、知って亡くなっていった者たちと、知ることなく逝った者たち、時が遅ければ、それだけ多くの者たちが知らずして天上界に帰って来る。
少しでも多くの者たちに伝えていけるかどうか。それはそなたたちがどれだけ迅速に行動でき、具体的な行動ができたかということにもうかかっているのだ。
7.簡単なことから始めなさ
最初、初期の頃、この方のアンテナを復活し、これだけの精度で地上に降ろすということに我々はひじょうに心を砕いてきた。でも、降ろしてきて、これだけの神理知識が降りているのに、それを具体的に広めていく手段になると及び腰になるというとは、どういうことであろうか。
これをもっと、ほんとうに人を救いたいと、ほんとうに人を愛したいと、ほんとうに神の思いに感謝して、報いたいと思っているのであろうか。その行為をもって、感謝行をもってしか、神の使者としての使命はない。仕事はないと思いなさい。
これから法というものをまとめ上げ、それをわかりやすい形で編纂しなさい。黄金光線の者たちよ、仏弟子たちよ。今学んだことをこれだけ膨大なものの中から、誰が聞いても、女、子どもが聞いてもわかるような形で、大事なところだけを、因果法則、原因結果の法則、魂の永遠性、根本的なひじょうに初歩的なものだけれども、そういうものをまず小冊子にせよ。よいか。まずそれを、一冊渡せば、簡単な永遠の生命というからくりがわかるというものを、先ほど持って来たような小冊子でやりなさい。
いろいろな霊人の言葉をむやみに並べることよりも、まずいちばん大事な、根本的なレムリアの精神というものが伝えられているはずである。それをまず伝えなさい。その中に数々の霊人が言われたことを載せていく。それをわかった上で、数々の霊言を聞かねば、多くの国民たちはわからぬ。
まず永遠の魂があること。
転生輪廻があるということ。
神が愛そのものであるということ。
我々は神の子であるということ。
愛の光そのものであるということ。
そして、天上界がひとつであること。
すべての宗教がひとつであるということ。
そういう簡単なことがわからないから、世の中の、世界中の混乱があるということ。そこをまずまとめ上げなさい。
簡単なことから始めるのだ。多くの者たちには、赤子に口に含んで伝えるようにわからせなければならぬ。それが愛である。一人でも多くの者たちを救ってこそ、愛というものは具現される。
自分たちだけの知の、知によって、その陶酔の中だけでマニアックになっているのならば、人びとに対する愛のある行為ではないということ。そのことをもっともっとわからねばならぬ。
我にとって愛とは、信仰とは、実行あるのみである。
一人でも多くの者たちを幸せにしてこそ、愛してこそ、多くの人びとに神の御心を伝えられてこそ、我はその、神の使者としての使命があると心から思っている。
実行なき者、どれだけ頭が良くても、その時代の知に酔っている者などは、我は、神の子としては、神の使者としては認めぬ。そのような臆病者はいかん。
そのような中に数々の、我々のように実践に継ぐ実践の中で、真の勇気とは、叡智とは、神とつながるということはどういうことかということを体をもって学ぶ。
法力というものは、間違った方向に使えば、すぐその場で反作用として体にぶつかってくる。だから我々の中においては、自分が何が正しかったか、正しくなかったかを、体の中で即、反応の中において学ぶことができるのである。それが我らが階段を上って行くための、修行の方法である。
知に酔っているときは、ぐるぐる、ぐるぐる回っていても、それがほんとうに正しいか、間違っているかわからぬものである。で、いつの間にか正しかったような、自分がまるですべてをわかったような、世界中の叡智を知ってしまったかのような錯覚に陥るのである。
でも、そのような道は我らはとらぬ。実践あるのみ。正しいものは正しい。原因結果の法則によって、正しい思いを出せば正しい結果として、他の誰よりも何倍として返ってくる。間違った結果を出せば、我が身の苦しさとなってすぐ反応が戻ってくる。
それをもって我らは道をはい上がって来た。そして、この国というものを少しでも、伝道という形は使わなくとも、一人でも多くの神の子たちを幸せにするために、この国を幸せな国にしていくために、統一していくために、その力を使うために、国というものを平定し、広げてきた。それが荒神と呼ばれている、戦の神と呼ばれている、自由の神と呼ばれている者たちとの、我々の仕事の役割であるということ。
そなたたちは、そのようなフロンティア精神、開拓精神の名において、これから神より与えられし、素晴らしい叡智を、メッセージを、この地上に広めねばならぬ。その厳しさを持ってほしい。不退転の境地を持ってほしい。
次の世代の者たちが出てくる前に、そなたたちにもそのような開拓者としての気持ちがなくては、次の世代の者たちに、ここに光があるのだということが伝わらんではないか。
伝えていくためにも、そなたたち自らが光りなさい。
光り輝き、輝いて自己限定することなく、どこまでも高く、高く、のろしの光を、のろしの火を、たいまつを掲げなさい。そのようにすれば、次の時代に生まれて来た者たちが、その光を求めて集って来ることができ、そして、彼らの使命を果たしていくことができるであろう。
8.問答無用でこの地上に神の国を具現していきなさい
これよりのち、そなた(T)を指導していこう。よいか。自らの占いの方法を確立しようなどという、そのような小さな思いを持つことはなかれ。占いというのは、あくまでも判断材料にすぎぬということ。
神の子が、神の子たち同胞を少しでも幸せにできるかどうか。この神より与えられし、前代未聞のこの神よりのメッセージを地上に開いて、広げいくことができるということ。その使命を持って最大の使命となす。
そなたがそなたの自分の名前を広げるがために、もし占いなどに関わったら、それこそ裏の、裏としての下に堕ちてしまうということ。そのようなことをやっている暇はないのだということ。そこにおいて自らの使命というのを悟っていきなさい。
我はこれからそなたに直に指導していこう。わからねばいつでも聞きなさい。そして、本来のそなたの力というのをこれから出すために、この間から現象というものを起こしている。怖がることはない。少しずつ、少しずつ自分の力に気づいていきなさい。
この巫女においても今、力が発揮されようとしている。まだまだここにきて不安定であるけれども、もともと過去世において修行した者である。そなたも過去世において多くのものを学んでいる。法力自体というものをひじょうに学んでいるということ。
逆にそれを前半で出すと、法を学ぶということから、自らの超能力に有頂天になり過ぎるから、閉じていたということがある。でも前半たっぷり、もう法を学んだのであるから、これからは自らの持っている、本来の得意とする法力というものを出して、このレムリアのために、神のためにその力を使って、ご恩に報いていく道を出しなさい。それこそが我らが持っている、荒神と呼ばれている者たちの真の使命なり。
甘えたことはもう許さん。我が世界に返って来ることは、甘ったれたことを言う者は許さん。我らが直々で指導しているということを思うのならば、自らの心に厳しく思い、そなたの人生、最後、命果てる時まで、そなたの使命を果たしなさい。力を出し切りなさい。
そして、問答無用でこの地上に神の国を具現していきなさい。そのためにそなたの守護をしよう。そなたが生まれし時より、我は多くの守護をしてきた。そなたを導いてきたということを、もう思い出しなさい。そなたにとって、我こそが本来の師であるということ。高橋信次師、数々の師というものを通して学んできたであろう。今生の師というものがあるであろう。でも、我はそなたの魂の師なり。それを思い出しなさい。そうすればそなたの力が出てくるであろう。
みんなここに来て、自分たちの力を出すことをもう要求されている。新たに来た者たちが、自分の、自らの力というものを出すことにより、神々のお役に立つ時がきているということ。
お役に立ててこそ、過去世までの修行が報いられるというもの。お役に立てぬ過去世の力など、なんの役に立とうか。神のお役に立ててこその我らが神の子の使命が果たされるというもの。修行の甲斐があったというもの。パーニャパラミタを蓄えてきてよかったと、真に喜び合えるもの。
それなくして、増上慢の中において、自己の名声のためによって、その法力などを使ったならば、それこそ地獄に直下で堕ちるやも知れぬ。それぐらいの危険の中にいるのが、我らが法力を扱いし者たち。自らをよく戒めよ。
法力を使う者は、少しでも力を誤ったところにおいて使えば、真下に直行で、真下の地獄界に行くということを思いなさい。それぐらいの厳しさの中で、ひじょうに怖い、恐ろしい思いの中で、一歩一歩を歩みながら山の上に上がって行くのである。
されど、我らのように、ちゃんとその山の頂上に登って行ける者たちもいるということを、そなたたちの希望の原理として修行してほしい。これからはこの者を通して、この巫女を通じて、我はそなたのことも指導しよう。
そして、そなたたちにも言いおこう。他の者たちにも言いおこう。これからはそのような時代が、そのような局面が展開していくときであるということ。そして、自分が理解できぬものだからといって排斥するような、そのような狭い思いを持ってはならぬ。そのようなことがあっては、この救世の大事業を果たせぬということをそなたたちは思いなさい。
これから多くの者たちが集まって来るであろう。その者たちの力を最大限に引き立て、信頼し、愛し、そして、みんなでこの力を合わせた救世の大事業を少しでも展開していくことをそなたたちの目標としていきなさい。
失敗しないということを恐れることよりも、精一杯やって失敗しても神々はけっして怒られぬ。逆に、精一杯やることなく、ぶつかり合うことなく、最大限の努力をせずに、あきらめてしまうような怖気者、小心な者、そのような者に対しては、神々は評価はなさらぬということ。
それは最初の頃、モーゼ神がそなたたちへの霊言で伝えているはずである。失敗してもよい。精一杯やってきなさい。元々が失敗に、もうほとんど失敗しかかっているこの救世の事業である。これの、最後の逆転満塁ホームランで成功に導くには、最後、そなたたちの不退転の思いの中での、必死さの思いがなければ、この救世の事業は成功しないのである。
だから、怖気づくことはない。もうだめならば、だめで失敗するだけなのである。でも、失敗したくないから、最後の瞬間まで頑張ろうと言っている。そのような状況であるのならば、この期に及んで何を臆することがある。どっちみち滅びていくのならば、最後まで努力をして、頑張ってエネルギーの限りを尽くし、情熱を持って散って、滅びていったほうが美しいであろう。
そのぐらいの思いを持って、この救世の事業のために命がけで当たれ。そのような命がけの思いがある者たちだけが寄り添ったときに、このレムリアの事業は成功するであろう。
それ以外の中に言っているのは、もし隙があるのならば、言い訳をつくるのであるのならば、排他的な思いを思うのならば、魔がもう、すぐそこまで寄って来ている。そなたたちの弱き心の中に、すでに巣食い始めている。その思いというのが、その危険がわからずして、その危険をレムリアの中枢に引き込むつもりか。
そのようなことがあるのならば潔く切り捨てよ。そのような思いで、自らの気持ちを、厳しく、厳しく統御することの中で、この最後の救世の事業を、魔に攬乱されることなく、神の御心のままに、自らの神性を光らせて、力を出して我らとともにこの成功を導く計画の中に生きようではないか。そのようなことを思い、今日我はそなたたちにあいさつに参った。
9.自分の中で言い訳をつくらず、本気で最後まで生き抜け
役小角: 何か質問はあるか?
T: ひとつお願いいたします。私、集中力がですね、どうしても続かないんですけど、これはどういうふうにしたらよろしいでしょうか?
役小角: そなたの必死さがないからだ。必死さが出てくれば、やっていくうちに集中力などというものはつく。
このように長時間、霊言をとる者がどのように集中力を集中させているかわかるか。命をかけて霊言をとろうと、わが身のエネルギーを切り裂いてでも神の言葉を、御言葉を降ろそうという、その不退転の、本心の、腹のすわった思いがあればこそ、長時間の霊言をとれる。
この姿を見なさい。学びなさい。我が身がなぜこのように集中力がないなどということを思うことなく、この姿を見て学べ。本気さがあれば、集中力などというのは続く。好きなことなら何時間でもあのように楽器を弾いているではないか。あれはなんだ。集中力がるであろう。その世界に陶酔しているであろう。我を忘れているであろう。それは好きだから、本気でその世界を生きてみたいと思うからであろう。そなたの中に言い訳をつくるな。
今後一切、言い訳は通用せぬ。そなたたちの思いの中でどれだけ本気で最後までできたか。生き抜いたことができるか。それだけを神々は見ておられる。帰って来た時に、「いやあ、わしが、私ができなかったのは、このような事情で、他の者たちの意見と違ったから私は何もしなかった」などということが、言い訳がきくと思うか。
そなたたちが神々の立場であるならどのように思うか。言い訳にしか聞こえないであろう。言い訳にしか聞こえないような愚を犯すことなかれ。人から聞かれても、神々から聞かれても大丈夫なような生き方をしなさい。それだけの力を蓄えたそなたたちであるということ。それだけの時期がきたということ。
もう今は、そのような最終的な試験の段階であるということ。そなたも今回の修行を終えて、それなりの格を授かる。それが授かるか否か、それは今回のそなたの生き様そのものにかかっているということを知れ。法力を持ったり、超能力だけで地上を、空中浮遊などをすることをもって、我らの力の世界とは言わぬ。
ほんとうに力のある者は、神の愛を感じ、神の子たちのために命がけになって道なき道をつくる、この地上に具現させしめる、その力を発揮できることをもって我々の世界の者というのである。
アレキサンドロス大王のような、あのような方がたの、大和武神のような方がたのような、それを本来の裏街道の最高峰の方がたという。目の前でスプーンも曲げて見せたり、空中浮遊してみたり、そのようなもの、人びとを錯覚の目に犯すような、マジシャンたちとかが今もてはやされているようであるが、そのようなものをもって我らの最高峰の者とは言わぬ。
本来の力というのは、法力というものは、この地上をほんとうの意味で道なき道をつくるような念の強さをもってこそ、我らが世界の力ある者という。
神の愛抜きにして、神の使者の使命なぞはごこにもないということ。それは表も裏も同じであるということ。それをそなたは学んでいる。もう表の叡智というもの、知恵というものを十分学んだであろう。
であるならば、裏の力ももう出しなさい。その力を出しなさい。少しもそれをひるむことなく、両方、表も裏の力も出しながら、この地上を変えていきなさい。この救世の計画を具現していきなさい。具現してこその地上部隊の仕事があるということ。そのことを思いなさい。
そのうちに、その魔の気配の中で、魔を切るということもできるようになるであろう。そのような力を持ってこそ本来のそなたの力であるということ。そのことを正面から受け入れて、そなたは十二分にその力を発揮して、この計画のためにお役に立ってくること。そのことを我は心から期待しよう。
今日ここにおいて、そなたの前に出ることがなかったこと、許されたこと、我はもう、前から、そなたが来た時より、もう出たくて出たくて、伝えたくてしょうがなかったが、やはりものには順番がある。格がある。
高橋信次氏が出られたあと、やっと我が出番がきたという、この栄誉に今日、浴したということ。そして、この我が言葉がそなたたち、レムリアの今後において、少しでも役立っていただければと思い、今回はいい機会ではないかと思って出て参った。
この力をあなた方の力とし、今後の活動を素晴らしいものにしていただけることを心よりこい願って、今日は失礼いたそう。
では今日はこれにて失礼いたす。
一同: ありがとうございました。