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Project Eden

谷口雅春(たにぐちまさはる)

(1893 - 1985年)
生長の家創始者にして初代総裁。真理の言葉による人類光明化運動の実現を目指し、その生涯において400冊以上の著作を残した。主著は『生命の實相』。
生前の氏の説いた教えは、人間は神の子であるとする光一元の光明思想に集約される。また、「万教帰一」を説き、諸宗教はその根本において一致するという立場をとった。
前世は、ローマ時代の哲学者プロティノス(204―270年)、さらにその前々世は、日本の神代の時代(紀元前760年頃)、伊邪那岐命として転生をしてきた。
8次元如来界の最上段階にいる生命体。第2の計画においても、霊言を通して復活をなした。アマーリエを通した霊言のなかで、光一元の思想が紫の光線に限られるものでないこと、また生前の主著『生命の實相』が単なる日本神道の教えにとどまるものでなく、天上界の意思においても、プロティノスを含めた氏の人生においても、その集大成でもあったことを明らかにされた。

第3章3 谷口雅春:「光一元」という神のまなざし

1.これからの信仰のあり方

2.今こそ「地球の法」の集大成のとき

3.常に「光一元」を説いてきた

4.逆境など本来なし

5.光一元とは人間が神の子であるということ

6.実証こそが我らの使命

7.我が志を伝えるために

1.これからの信仰のあり方

~ プロティノスからのメッセージのあと、谷口雅春からのメッセージに入りました。アマーリエが霊視した姿についての話からです。 ~


アマーリエ: あの、すくっとした感じの、細面?
小林: そうですね。わりと細い方ですね。

アマーリエ:細いでしょう。そんな背は低いとは思わないけど、そんな、こう太ってないというか、華奢なというか、細い。
小林: そうですね、細い。

アマーリエ: カリカリ(笑)。何でこんな細いのかなと思ったらーー。
デル: 若いときに病弱だったんですよね、確か。
小林: そうですね。

アマーリエ: あ、そうなんですか。
デル: 三十代ぐらいまではけっこう病弱で、それから悟りを開かれてからは健康になって、九十何歳まで長寿を全うされたという方ですね。 

アマーリエ: 髪の毛は? 短い? ちょっと。
小林: 若干、長めかも知れないですね。まあ、そんなに長くないですけど。

アマーリエ: で、着物着て、キリっとした感じの、やせすぎの男の人(笑)。年の頃は、うーん、いくつくらいかな。五十手前くらい。
小林: あ、そうですか。じゃあ、もうーー。

アマーリエ: おいくつで亡くなられたんですか。
小林: 九十何歳で亡くなられたんですけれど。

アマーリエ: そんなんじゃない。えーとね、壮年期っぽい。平原さんくらいかな。四十代、四十七、八から五十二、三。そんな感じの雰囲気、目はけっこう厳しい感じの光、うん、キリっとした感じ。目が厳しいけど、なんか、自分も他人も、あんまりこう、妥協を許さないような感じの、松陰先生ほど厳しくないんだけどなあ。何か背筋がピーンとした感じの人?

小林: あっ、それはそうですね。
アマーリエ: ほんとう?
小林: はい。

アマーリエ:私みたいな大ざっぱなのと違う。竜馬ちゃんとも違う。あのー、しゃきっとした方。わかんないから(笑)、まずいかなあ、変?
小林: いや、まさしく、そういう方だと思います。

アマーリエ: そうですか。着物を着ていらっしゃる?
小林: ええ、いつもそうですよね。

アマーリエ: いつも着物着てる? 満足気にね、こうやってね、「うんうん」って首振ってる。
小林: そして、日本のことをとても愛してくださっていた方です。

アマーリエ: そうですね、着物着てますよ。几帳面な人。ものすごく几帳面な人。ごめん、おかしかったら言って、私の感覚で感じる波動だから。

デル: 毎日すごく早起きして、一日を少しでも有効に、時間をいかに有効に使おうか、毎日をいかに有効に使って、しかも、何十年も重ねていくことによって、どんな体現もなせる、っていうような教えを説かれておられましたよね。
小林: 時間をかけて仕事を果たしていかれるという、勤勉な方ですね。

アマーリエ: 私の対極にあるかもしれない(笑)。
小林: ですから、わりと長距離ランナーみたいだって、言われてました。
デル: ああ、そうですね。

アマーリエ: 食が細そうな感じする、この人は。精神の強さのほうが肉体の強さより勝っている方だな、この人は。几帳面で、すごく理念が、すごく芯が一本通っている方で、高潔な感じの人だわね。愛の人っていうよりは、信念の人に映るけどねえ。ごめんね、私、谷口先生の本って何ひとつ思い出せなくて。たくさん出ているのに。
小林: そうですね、すごくたくさん出していますよね。

アマーリエ: ほんとうに? もう、まったく忘れて。何か、波動が似ていますよ、やっぱり。日本的な、ジャパネスクっぽい感じのプロテイノスさん(笑)。何か質問してください。私、もう今日、独演会してもらいーー。
今、何分ですか。
平原: 両方合わせて五十分くらしですね。 

アマーリエ: なんか聞きたいことがあったら、ガンガン言ってください。もう。



小林: はい。レムリア・ルネッサンスでは、神とは、宇宙の根本的な愛の法則そのものであるという理念を、教えていただいておりまして、先日は天之御中主様からも、そのご説明をいただきました。

これまで、普通、信仰というのは、信仰の対象としては人格神としての神というものが考えられていたと思いますけれども、神というものが人格を持った高級霊というよりも、法則そのものであるという理念になった場合に、信仰の内容とか形も、これまでのものとは変わってくるのではないかと思うのですけれども、今後、どのような点に気をつけて、そういった今後の信仰というようなものを考えていけばよろしいか、教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

谷口雅春: 他の者たちも、もし質問があるなら今のうちに言いなさい。
今の質問だけでよろしいですか。
平原: 今ここにいない人が、今の逆境ーー。

谷口雅春: ああ、その質問はよい。
平原: はい。

谷口雅春: わかっておる。
平原: はいーー。

谷口雅春: 他にはないですか。でも、今の質問に答えよう。
では、そなたに聞こう。日本神道とは、古来より多神教である。
そうであるな?
小林: はい。

谷口雅春: 多神教であるということはどういうことかわかるか?
人格神であるということである。それが、同じような形態を持っているのが、世界宗教の中に、まあ他にもあるけれど、特にギリシャの多神教の中にも根づいているであろう?
小林: はい。

谷口雅春: 日本神道、ギリシャの神話の中に、「神々」と言われる者たちがいる。その者たちは多神教である。人格神であり、それぞれが喜びも、悲しみも、苦しみも、情欲も感じている高級霊たちである。

多くの者たちが、神が神であるということがどういうことであるか、多くの地上の者たちを導く担い手として、神よりその神格を与えられし者たちであるということが前提の多神教であるということ。
であるならば、神とは本来なんぞや。

根源である神が、宇宙の愛の法則であり、人びとの心の中に、人生の中に、自然界すべてのものを貫く法則であるということを前提とした人格神たち、高級神霊たちを「神」と申す。それを多神教の基盤となしている。

一神教であるというヤハウェとか、エホバであるとか、アラーであるとか、そういう一神教の者たちは、そういう、まあ言ってみれば、エル・ランティと呼ばれているような破格的な高級神霊を通して、宇宙を貫く表現体として、法則としての、愛の法則の神というものを代表している者として、地球を指導して来られたということが、違い―ー。

我らが日本神道、ギリシャの神々においても、高級神霊が神としての名を名乗るということは、人格神であるという弱さも十分わかりつつ、本来、いつか時がきたのであるのならば、神とは本来、我々のような喜怒哀楽を持った者ではない、根本的な、貫いた、愛の法則である、そのようなエネルギー体であり、自然界すべてを貫くものであるということが明かされるという、その指導するべき立場の者として、多神教という我々の、高級神霊と呼ばれている神格を持ちし者たちが出て来たというのが事実。

そうであるのならば、そなたは答えはわかるであろう。それに対して、疑問があるなら答えよう。

2.今こそ「地球の法」の集大成のとき

そなたが言った、「愛の法則」と呼ばれているものが、今レムリアで明かされている。それは、明かされるべき時期が、今この時になってきたということ。
法においても、宗教においても、知においても、愛においても、科学においても、最終的に統合されていく時期がきたからこそ、明かされるべきことである。

本来であるならば、九次元におられる救世主界の方がたは、本来は「根源神」と呼ばれ、「神の中の神」と仰がれてきた方がたである。
その方がたが神と呼ばれるよりは、自らが高級神霊であり、自らが修行している途上にある者であるということを、明かされていることをもって、本来、神というのは、地上に肉体など持てるものではない。肉体を持てるものではないが、神の神意というものを代表し、地上の者たちを指導し、かつこの三次元において神の国を打ち立てるための、光の使者としてこの地上に命を持ち、神の化身としてこの地上に使命を果たす者たちを、我々、多神教の者たちは「神」と呼んでいる。

そのような魂の格のある者たちを、神格持ちし者といって、その使命を与えられている。そのような者であるということ。

だから、今レムリアが言っていること、そして数々の神話をもって伝えられてきたことも、けっして矛盾しない。プロセスにおいて、過渡期的なものにおいて明かされてきた真実と、そして、今の時をもって、集大成の時をもって明かされてきたものは、今の時の、高さというのは多くの者たちが知的に、ある程度理解力においても発達しかこの時代なればこそ、明かされたものである。

今明かされている真実においても、そなたたちはわかるかも知れぬ。しかれども、この日本において多くの者たちがわかるぞよ? わからぬ者たちがたくさんおるであろう?

しかれども、時がたつにつれ、いつか、今わからぬ者たちも、そなたたちが残す文献において、いつか魂の成熟をもって理解する時もくるであろうということをもって、そなたたちの使命があるということ。そのことを認識されよ。

そなたたちは、神が愛の法則であるということ、宇宙を貫く愛の法理念そのものが、本来の神の根源であるということをもう理解しているけれども、未開の者たちにおいて、学問がない者たちにおいて、知において認識力の発達していない者たちにおいては、一度にそのような高き高まいな神理を伝えたとしても、それはけっして理解されず、そしゃくされず、人びとを逆にいたずらな混乱に陥れることである。

それゆえに、人びとの段階に応じて神々は、天上界の救世主の神と呼ばれている高級霊の方がたは、数々の計画を打ち立てられ、人びとに噛んで含む、幼子に口移しに神理の言葉を伝えるように、今まで数々の段階を経ながら、やっと今日の状況において、あの救世主界の方がたにおいても、親神であられるという根源神を表すこの機会を、今やっと持たれたということ。

それを、レムリアを通して伝えられてきている。その最終的な集大成をもって「地球の法」と言い、それが、その地球の法のレベルが、対外的な宇宙空間の他の惑星の者たちにとっても、「宇宙の法」としての格を持つものとして、地球の法がイコール宇宙の法として、そして地球自体が宇宙連盟の一員として認識されていく、その時期に値したということをもって、今この集大成の法が説かれているということ。

だから、民族神と呼ばれてきた神格持ちし高級霊の者たちと、宇宙を貫く愛の法則であるという根源的な愛の法理念というものは、けっして神が表されたひとつの神の側面の一部、神が表されようとした多面的な神理の実体であって、けっして矛盾するものではない。

それぞれが民族において、地域において、それぞれの神々たちが工夫を凝らし、自らが責任を負うエリアにおいて、地域において、様々な宗教と信仰において多くの人びとを指導してこられたというのが実態なのである。

だから、けっしてそのすべてが否定されるものではない。ヒンズー教においても、仏陀の説かれる法においても、イエス・キリストにおいても、ユダヤ教においても、すべてがそれぞれの神の神理の分け御霊として、分光として、多いなる神の表れの一因として行われてきた結果であって、けっしてサタンによりどうのこうのということではないのである。

3.常に「光一元」を説いてきた

すべてが神の世界より発せられた計画のプロセスであったということ。その段階において、未成熟な上に、まだまだ達しない習熟度の段階において、結果として完全な結果は、期待された通りのことは起きなかったかもしれないけれど、それは単なる未成熟なことによる結果であって、けっして悪そのものではないということ。

子どもが失敗をして、泥んこで前を汚しだからといって、けがをさせたからといって、他の者たちに、子どもたちにけがをさせたからといって、親たちはそれを、だからといって、その子どもたちを悪であるとは言わぬであろう。それは単に、この子が理解していなかっただけ、まだ幼かっただけというふうに母親たちは許し、いとおしむであろう。

それが神のまなざしであり、それこそが「光一元」と呼ばれている本来の神のまなざしの視点であるということを、そなたはいちばんよく知っているはずである。

けっして、失敗した子どもを悪というのではなく、失敗したがゆえに学ぶことがまだまだあるよねと、逆に励ますような、そのような視点も神の中にはあるということ。

それに対して、西洋に対しては、二元の善悪の対立というものがある。我らの発想に対して、善悪、善により悪というものの力があって、ともにせめぎ合っているという発想、理念がある。
我が教えは、かつてのローマの時代に出ていたもの、そして西洋の時代に出ていたものもすべてが、本来が紫神道ーー。

アマーリエ: 古神道って何? 古代のーー。
谷口雅春: 古代の神道の教えに貫かれているのが、我が教えである。
光一元と申すが、それは東洋だけの専売特許ではない。東洋であれ、西洋であれ、本来光一元であると、神の教え、表れであり、その未成熟なゆえに人びとがせめぎ合い、争い合い、傷つけ合うのが今の段階であるというふうにーー。

サタンであろうと、ルシフェルであっても、まだまだ未成熟な我らが兄弟である、友であるという発想が、我らが神道の中にある。
そのようにとらえているのが我が教えのひとつである。だから神道であろうと、キリスト教であれ、ローマの教えであれ、哲学であれ、かつてアトランティス、ムーを通して、我らが教えが数々あったけれども、私は常に光一元の教えの中に、「神こそ真実」、「神こそ絶対」、「神の教えこそがすべてである」ということを説き続けてきた者である。

そして、あなたも同じように、私とともに、「神の光こそ真実」と言って、あなたも法を説き続けながら、その私とともに歩んでくれた者である。
だからあなたの教えの中に、愛深きものがあるけれども、その愛の根源は何であるかというと、人間はみんな神の子であるから、当然失敗もあるかもしれないけれども、神の子なんだから本来は光そのものであるという、絶対的な確信があるから、あなたは知とともに愛の人になるのである。

それが常に、悪と正義とか、善と悪が互いにせめぎ合い、相反するものであり、半々の価値を持つのであるという善悪二元論の立場を、あなたがもし持っていたとしたのなら、これほどに愛の人として、弱者の味方として、どんな人においても神の子であるという根源的な信頼というものが、人びとに対してもなしえなかったであろう。

そなたは「光一元である」という我が教えとともに生き続けたからこそ、「人間、神の子である」ということを、真実信じることができ、ともに神の子としての多くの者たちの苦しみから、悲しみから解放するために戦い、立ち上がろうと思った、そういう魂の方である。

だから、話はそれたかもしれぬが、神の教えというものは、多神教であろうと、神の根本神であろうと、すべてが、神の教えが、今明かされる時がきた。今は、何なりと解答が与えられるということ。

過去世認定、あとは天変地異に関する人びとのいたずらなる恐怖心を募るもの、そのようなものに関しては固く戒められているけれども、それ以外のことに関しては、わかることは、理解できることは、そなたたちに明かされていいというふうな約束になっている。
だから他にも質問があるのならば、語るがよい。

4.逆境など本来なし

今、私の魂の兄弟である、プロティノスという者が出ていた。その者は私が今世、出たというよりも、そなたは彼とひじょうに近しい魂であり、彼がひじょうな感動をもって、そなたと話をしたがっている。私が今世、出て話ししたこと、伝えたこと、書物、数多くの書物を残したであろう。そのものをもって、あなたが学ぶことをもって、あなたは私のあとを継いでいく、本来の者であるということを認識しなさい。

小林: はい。
谷口雅春: 書籍を、『生命の実相』などをたくさん残したとしても、それを実際に読んだ者はこの中にいても数少ない者であろう。
であるのならば、私か伝えたいと、言わんとしたかったことを、あなたはいちばんよく知っているのだから、それをあなたの言葉において、わかり易い言葉において、そしてレムリアの理念の中に、次の時代を導くものとして、もしあなたが利用し、あなたが発展させてくれるのなら、我が教えも、我が人生も無駄でなかったと思うのである。

アマーリエ: 信仰について、あと、先ほどの何ですか?
消極的な、絶望の人生?
平原: えー、逆境の時代にーー。

谷口雅春: 光明の、光一元の者にとって、逆境の教えがどうのこうのというのは、どういうことであろうか。
すべてその、逆境であるという思いが、逆境を呼んでいるのである。

逆境などというのは、本来なし。
自らが行ったことの結果が今、起きているだけのことである。

高き思いの中に神を信じ、神の本来の、神の子としての自らを信じ、明るい未来を信じ続けるのならば、必ずやそのような未来は自らのもとにやってくるであろう。

それが、原因があり結果があるという、その法則のもとに行われた、この当たり前の現実の世界の具現化である。それをもって光一元であり、「光明思想」と呼ぶ。
そんなことはわかっているであろう。そんなことを私に聞くではない。

5.光一元とは人間が神の子であるということ

谷口雅春: 他に、質問はあるか。
小林: 光一元の思想というのは、やはり愛の光線とひじょうに密接に結びついていると思うのですけれども、谷口雅春先生の場合には、それが紫色光線の中で発揮されているわけですが、そこには何か事情、理由があるでしょうか。教えていただければ幸いです。

谷口雅春: 光一元の思想とは、本来がけっして紫の光線だけではない。青の光線、赤の光線、ホワイト霊団においても、すべてにおいて神が本来、神の子、我々一人ひとりが神の子であるという、光の化身であるということ。その事実をもって、けっしていかなる一人たりとも悪魔の子ではないという、神の子であることを、その思想の根幹としている。

今さら高橋信次という方が、人間がみな神の子であると高らかに言われなくても、我らが光明思想の者たちは、我々はみな神の子であり、光の化身であるということを信じ、語り伝えてきたのである。
それを様々な理念の中において、神の子であるということを表現するために、様々な光線の者たちの間を生き続けることにより、それぞれの光は降りてきたのである。

ときには光の子であるということは、知の中において、知の最高峰で理論的に、神の子であるということを実証することでもあった。
そして、ホワイト霊団の中により、本来神の子であるからこそ、自分の自らの身を十字架のもとにはりつけにしたとしても他者を愛したと、イエス・キリストの姿をもって、ああ、だから人間はみな神の子であるということを実証したのである。

黄金光線の、仏陀光線の者たちは、仏陀の慈悲深き法の教えをもって、その法の高さをもって、悟りをもって人間神の子の段階論を示したのである。

赤の光線の、モーゼの正義の法則の中にも、人間が神の子であるからこそ、心強き者として人びとを救うために、多くの者たちを救うために、神の子たちを救うために命を張り、仲間のために命を投げ出しても戦う姿をもって、神の子の高潔さを示しだのが、また正義の光線でもある。

だから私たちは、けっして多くの者たちが言っているように、光一元だから、善悪二元論と対立するものであるということの対極にいるのではなく、高橋信次、エル・ランティと言われる方がおっしゃったように、人間、神の子であるということは、本来神の子であるということをもって、光一元であり、神性そのものであり、この世は本来、神がおつくりになった光一元の大宇宙の神の懐の中に抱きしめられているーー。

そして、その神の似姿をもってつくられたのが光の子である我々、神の子であるということをもって、「光一元」と申したのである。

悪というのは、我々がお風呂に入って垢を落とすように、汚れを落とすように、浮いてくるような塵、芥のものにすぎぬ。

そんなものは、本来が神の子である本体から見たら、取るに足らぬものであるということ。そのことを明かすために、私もあなたも、それぞれの光線を巡って、過去修行を連ねてきたのである。

6.実証こそが我らの使命

私が紫の光線として今回出ているのは、やはり法秩序、礼節をもって、その中においても、和をもって旨とし、調和をもって旨とするという中においても、神の子としての美しさ、調和していく美しさというものもある。当然ある。

それが今回の地上救済の大計画の露払いとして我が使命があったがゆえに、この地上の紫の国としての中に、過去世、伊耶那岐命として生まれた過去世をもって、もう一度紫の光線を通して、光一元というのは神の子であると、人間、神の子であるということを語り伝えるために、紫の光線としての人格を持って生まれてきたということである。

私においても、あなたにおいても、けっしてひとつの力、光線ということはない。本来が光明思想の者たちはそうである。紫なら紫だけということもない。光一元というのは、本来人間は、すべては神の子であるという思想をもって、それを具現化せんがために、それぞれの光の光線の中に散っていった者たちがいるのである。

そして、それぞれの光線を巡ることにより、自らも、他者においても神の子であるということを実証するがための人生であるということ。
私も、我がプロティノスという過去世をもって、伊耶那岐命という過去世をもって、そして今世、大救済計向がこの神の国、日本から行われることをもって、谷口雅春という、この光線をまとって出たというのが結果である。

だから、最初から紫だけに固執して、紫以外は出ないとか、紫で出た谷口雅春であるから、伊耶那岐命であるから、青の光線で出たプロティノスがおかしいとか、そんなことはない。
今回の文明以外のところでも、私はいろいろな光線で出ている。そなたが赤の光線で出たり、ホワイト霊団で出たりするのと同じである。

根本は同じ。光一元というのは、人間神の子であるということを、様々な局面において実証することをもって、我らが使命としてあるということ。それが神の証の証人として、我らが神の光の化身として生きるということを、その使命の一端として担っているからである。

そなたもそのように思いなさい。自己限定をするのではなく、たまたまこの日本の国から、この大救済計画が一人、二人、三人、四人というふうに九次元が出られる。我が教えも出てきたということをもって、この日本の地というのが、かつてより神国日本、神の国日本と言われてきたように、神の法が降ろされる地として、天上より選ばれし国であったということ。
その国に、露払いとして、今世、近代日本に出たということをもって、紫の光線をまとったということが事実である。

そなたはそのようなことに縛られなくていい。そなたはある意味で言うと、七色の光を発する者。それはこの霊言者においてもそうであるが、七色の虹を預かる者であると言われているはずである。それは一色と言うにはあまりにも事足りないくらい、今は本体が出る時代。そのような自己限定の中では、最終的な使命を果たすことができない。そのような最終的な局面にきているがゆえに、人びとに、あなたは何色光線だけだという言い方は許されぬ。

それゆえに過去世だけを、局部的なもののみをもって明かすことは、地上にいる者にとっては増上慢、自己限定、自己卑下、様々なものを呼ぶだけにおいて、けっして得にはならないということを、高級神霊により判断されーー。
そして過去世があるという実績は、もう高橋信次、エル・ランティ、OR、エル・カンタラーにおいて、実証され済みという結果をもって、そなたたちへ、レムリアは過去世認定はもうしなくてよいということを言われたのである。

だから、自らの過去世のことにこだわり過ぎない。過去世とか光線にこだわり過ぎず、自らが集大成として、本体として蓄えてきたものをすべて発揮していきなさい。

私も同じである。紫の時代として、紫光線の者として出たものではなくて、その集大成として我が教えはあったはずである。単なる日本神道だけの教えとして、『生命の実相』があったと思うか? それは我がプロティノス時代の集大成、哲学の粋をもって、日本神道だけではない教えの粋をもって、そして天上界のインスピレーションをもって、あの『生命の実相』全巻がなされたと思うのならば、自動書記により行われたものであるのならば、天上界の意思においても、我が人生においても集大成であったということ。あれは哲学行としての過去世が十分に生きた本であるということ。

そのことを思って、あなたはひとつの光線であるというふうに、我が教えにおいても限定するのはやめていただきたいと思うし、あなた自身に対しても、限定するのはあまり賢い策ではないというふうに、得策ではないというふうに思います。よろしいでしょうか。

小林: はい、ありがとうございました。

7.我が志を伝えるために

谷口雅春: 他に何か質問のある方がおったらおっしゃってください。

過去、「生長の家」がどうであった、かって我が教えがどうであったかということは、もう終わったことである。そのようなことをどうしてもわからなければ聞いてもよいが、そんなことよりも、我が教えの今後の発展性、あと、これからの地球、今のこの時期ーー。

今、脱線事故が起きたり、火事が起きたり、実際にお尻に火がついている状態で、さあ今これから何を食べる、今晩夕食を何を食べましょうかという献立の発想はないであろう。

であるならば、今あなた方がやらんとしていることについて、谷口雅春ならどう答えるであろうかということをもって、質問とされよ。

霊人に質問するときは、それなりの礼儀がいる。我が教えを理解し、そしてほんとうに聞きたいことを、自分の中で煮詰めて聞かれよ。それでこそ、我々も答えた意義があるというものである。

いつでも私に聞きたければ、谷口雅春、とお呼びになれば、私は来よう。そして、もし望まれるのであるならば、『谷口雅春霊言集』をまたこちらから出してもよいかと思っているので、一冊もので、どうかそうすれば私もテーマを決めて、毎回毎回、講義内容を決め、全5回か6回を、まあ、持てば一冊ができるので、そのような書籍があっても、我が生長の家の者たちにとっても、よい教えが説けるかもしれね。

しかれども、戦後の日本から立ち上げてきたあの時代、成長の家というのはたいへんなブームとして、多くの人びとに力になったと思う。多くの学問のない、多くの普通のおじいちゃん、おばあちゃんたちと言われている人たちを、あの時代は人生の幸せに導く担い手となったという自負心もある。

その上で、一方、『生命の実相』のような高まいな神理を含めたような数多くの書籍を私は残したという自負心もある。その両方を達成するのは、我が願いでもあった。

でも、もしもあなたたちの時代に生きていたのであるならば、この地球進化の最終局面において、我が力を振り絞ることによって、この地球をどのようにできるかというために、もっともっと心を砕いた人生を生きることができたであろう。

そんことを思っても、我が肉体は、もう今この三次元にはあらず。
だからあなた方に、その我が志を伝え、あなた方が我が意思を継いで、精一杯の人生で神の担い手として、お手伝いをしていただけることを、心より願うことであります。

もし、あなた方が質問したければいつでも、谷口雅春、というふうにお呼びいただければ、我が本体にして、我が志においても、すぐ参りましょう。

今まではそのような要望があまりなかったがゆえに、呼ばれなければ来られないというのが霊人の法則でもあります。ですから、あなた方の教えの思いのひとすみにでも我が名があれば、聞きたいことがあれば、いつでもお呼びいただき、そして企画をしていただければ、私はいつでも馳せ参じーー。

他にも出たい方があるのはわかっておるが、高橋信次が出られ、なぜ谷口雅春が出ぬかというのもあるので、谷口雅春、とお呼びいただければ、高橋信次氏のあとに我が教えを出すことも可能であるかというふうに思います。

まず企画を立ててお呼びいただきたい。それ以外にこのような質問があれば、いつでも何なりとも、我が立場をもって、我が精一杯のお答えをさせていただきたいと思います。

では今日はこれでよろしいでしょうか。では失礼いたします。

一同: ありがとうございました。

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